岩内町 ― たら丸の海 ―

今日は岩内町について調べてみた。

wikipedia:岩内町

 

後志地方に位置する日本海に面した町だ。

人口は1万3千人ほど。

 

日本海沿いに走る国道229号と岩内から倶知安・苫小牧方面へ向かう国道276号が岩内町の市街地で交わっている。

 

道の駅は市街地付近にある。

 こじんまりとした道の駅である。物販は控えめであり、観光ガイドが主のようでもある。

ここではやはり、彼の存在感が際立っている。

 

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岩内町のキャラクター、たら丸君だ。

たら丸はスケソウダラのキャラクターである。往時から岩内町の特産物である。

案外世間で有名な彼のグッズが欲しい方は迷わずこの道の駅へGO!

 

 

ところで、この道の駅は旧国鉄岩内駅があった場所である。

現在のJR函館本線の小沢駅から分岐し共和町のいくつかの駅を経て終点のみ岩内町に設けられた。

 

当初は現在のせたな町から岩内へ続く路線の建設申請に対し、一部のみ承認されてできた路線であった。その後黒松内町と結ぶ路線も計画されたが未成に終わる。

岩内町は鰊を中心とする海産物や炭鉱、銅の鉱山などで栄え、岩内線の貨物輸送も賑わっていたが資源の枯渇と道路整備などで衰退が始まる。

結局1985年に廃止となった。共和町の各駅はホームが残っているものも多いそうだ。

 

かつては新潟県直江津と東日本フェリーで結ばれていたが1999年に休止となりフェリーターミナルは解体されてしまった。

 

岩内町は日本におけるアスパラガスの発祥の地でもある。

生産は喜茂別が主となってしまったが、日本アスパラガスという名の会社が現存する。

今では缶飲料加工の会社であるが社名はアスパラガスの栽培に成功した当時のままである。

また野生ホップ発見の地でもある。郷土館には発見を記念する石碑が建てられている。

北海道のビール醸造のきっかけになったらしい。

 

三菱重工業高砂研究所岩内工場も立地している。

タービンのプリント基板を作っているそうだ。

文系の自分には何が何やらである。

 

市街地から離れ、山側へ向かうと円山展望台がある。

岩内の街並み、港を一望できる。オートキャンプ場も近接しているので夜景もグーだ。

 

寿都町方面へ行くと奇岩弁慶の刀掛岩が見える。

付近には雷電温泉郷もあったが災害などにより2017年では三浦屋旅館一軒のみが営業している。

カントリーサインでたら丸が眺めているのはこの付近の荒々しい海岸線である。

 

かつては難所として知られたこの地も相次ぐトンネル工事によって運転しやすくなった。しかし一方では眺めを楽しむこともできなくなったわけだ。

旧道の入り口付近は駐車可能な場所もあるので小休止してみるのも良いだろう。

知る人ぞ知る夕日のスポットである。

 

 

 

空から日本を見てみよう ― 熱海市 ―

今回の空から日本を見てみよう静岡県熱海市

wikipedia:熱海市

 

神奈川県と接し、静岡県最東部に位置する。

人口は3万7千人くらい。

 

相模湾に面し、市域のほとんどが丘陵地帯となっている。

 

明治期に鉄道が開通し、首都圏からの交通の便が良くなったことで一躍大保養地へと飛躍した。ひところより観光客は減ったものの東京・横浜の奥座敷としての地位は健在である。

 

東海道新幹線東海道本線伊東線が通っている。JR東日本JR東海の境目に位置し、在来線は熱海駅を起点とするものが多い。

 

熱海といえばやはり中心部の温泉街が有名であるが、それ以外にも観光スポットは少なくない。

 

 来宮神社には樹齢2千年を超えるとされる大楠が本殿裏に立っており、天然記念物に指定されている。

 

有形文化財の起雲閣は実業家や政治家の別邸、旅館を経て今では市が管理している。

大正時代のモダン建築を窺うことができる。

 

熱海城は実在した城ではなく観光用に建設されたもの。

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錦ヶ浦山頂に建てられ、熱海市街を一望できる絶景スポットである。

内部には歴史資料館があり、同じ敷地にはトリックアート美術館もある。

 

伊豆湯河原温泉は神奈川との県境に位置し、実質神奈川県の湯河原温泉と一体で温泉街を形成している。中心を流れる千歳川によって静岡県と神奈川県に区切られている。

 

海岸沿いに位置するお宮の松尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の寛一とお宮の別れのシーンの舞台と言われている。横には寛一とお宮の像も建てられている。

 

相模湾に浮かぶ初島縄文時代の遺跡も発掘されるなど古くから人が住んでいた。

現在では定期航路が設置され、レジャーリゾート地として開発されている。

 

地球絶景紀行 ― アルタンブラグ ―

今回の地球絶景紀行はモンゴル・アルタンブラグ。

wikipedia:モンゴル

 

人口は約300万人。

 

そのうち首都のウランバートルには120万人以上が住む。

wikipedia:ウランバートル

ウランバートル社会主義時代に整備されたソ連式の都市である、

道路は広く、ロシア風の建物が並んでいる。

日本の大相撲力士を多く輩出しており朝青龍白鵬日馬富士鶴竜など横綱勢やモンゴル人力士の草分けとなった旭鷲山などがウランバートルの出身である。

 

ウランバートルから30分も車を走らせれば大草原が広がる。

今回はロシア国境に近いアルタンブラグという村へ向かった。

 

 

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ゲルと呼ばれる居住式テントで暮らす遊牧民の世界だ。ゲルは1時間ほどで組立ることができる。

羊や馬、ラクダなどを放牧し年に数回は移動する遊牧民にとってなくてはならない文化である。

外側には防寒用のフェルトをかぶせてある。

最近では太陽光パネルや蓄電池、パラボラアンテナなども備えられているそうだ。

 

 番組で取材した遊牧民の一家の一人息子がナーダムと呼ばれる祭典に出るという。

モンゴル相撲・競馬・弓射といった競技が行われる。

競馬の子供の部に騎手として出るそうだ。

 

かつてチンギスハーン率いるモンゴルの騎馬軍団がユーラシア大陸を縦横無尽に席巻したDNAが、形は変われど、今もモンゴルの少年たちの姿に映しだされているのだろう。

世界ふれあい街歩き ― プラハ ―

今回の世界ふれあい街歩きチェコの首都・プラハだ。

 

wikipedia:チェコ

 

人口は約1千万人。ヨーロッパ中部に位置する。

1993年にかつてのチェコスロバキアチェコスロバキアに分離。

武力衝突を免れたためビロード離婚とも言われる。

 

プラハチェコの首都。1300年代にはヨーロッパ全体の中心都市として栄えていた。

wikipedia:プラハ

 

人口は130万人弱。

都市の歴史は1000年以上にもおよぶ。世界大戦の被害はあまり受けておらず、高度経済成長による都市開発もなかった。そのため各年代の建築様式が並ぶヨーロッパ内でも珍しい町となった。

 

年間数千万人の観光客が訪れる国際的な観光都市であり、観光スポットも数多い。

市内中心部をモルダウ川が流れている。

 

 

プラハ城は ボヘミア国や神聖ローマ帝国の王の居城であった、

現在は大統領府となっている。

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世界でも有数の巨大な城である。町同様千年を超える歴史を持ち、各年代の建築様式を鑑賞することができる。

 

プラハ城の内側ではゴシック建築聖ヴィート大聖堂や聖イジー聖堂など宮殿建築以外にもチェコを代表する建物を見ることができる。

 

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聖ヴィート大聖堂

 

 

モルダウ川(チェコ語ではヴルタヴァ川)にかかるカレル橋は14世紀に建設された。

橋桁、橋塔、そして欄干に並べられた30体の彫刻が有名である。

夜にはプラハ城と共にライトアップされる。

プラハは夜でも観光客がぞろぞろと歩けるほどには治安の良い町だそうだ。

 

その他、中世以降の建築物が目白押しであり「魔法の都」、「百塔の町」、「建築博物館の町」など数多い別称で呼ばれている。

 

 

バーツラフ広場は1968年の「プラハの春」や1989年の「ビロード革命」などチェコの歴史の転換点となった場所である。

 

現在でもプラハのシンボルの一つであり、側には国民博物館が建っている。

 

 

歴史の古い町だけあり、関連人物も数多い。

日本でも有名なのはユダヤ人作家のカフカ。「変身」「城」などを著した。

また作曲家のスメタナプラハに博物館が建てられている。

 

 

サッカーではスパルタ・プラハがヨーロッパの強豪として有名である。

かつて「心臓を二つ持つ男」ネドヴェド、「光速ウインガーポボルスキー、「小さなモーツァルトロシツキーなどチェコ代表を支えた選手たちも所属していた。

 

 

 

 

 

 

音威子府村 ― 北海道最小で芸術な村 ―

今日は音威子府村について調べてみた。

wikipedia:音威子府村

 

上川地方北部に位置し、人口はわずか800人ほど。

北海道で一番人口の少ない自治体である。

南隣の美深町から重複していた国道40号国道275号が再び分岐する場所だ。

 

道の駅おといねっぷは国道の分岐点の近くに建っており、JR宗谷本線の音威子府駅

すぐそばである。

 

道の駅、JRともに特産品である田舎そばを食べることができる。真っ黒で風味が強くそばの産地が多い道内でも独特な味を誇る。

 

JR音威子府駅では廃線となった天北線の様子を知ることもできる。

現在の宗谷本線よりも先に開通し、旭川から稚内までの主要ルートであった。

1985年に廃線となる。廃線以前、音威子府は交通の要衝として栄え人口は5千人に達した。うち3割が国鉄関係者だったという。

現在でもその名残で特急が停まっている。特急の停まる自治体としては日本一人口が少ない。

 

 

音威子府駅前には、かつて村のシンボルだった高さ15mにもなるオトイネップタワーというトーテムポールが建てられていた。

カントリーサインにもデザインされている例のあれである。

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1980年、音威子府村在住の芸術家砂澤ビッキが製作したものである。

しかし、ビッキ没後の1990年に強風で上部が破損し一時撤去された。

数年後、ビッキの作品が所蔵されているエコミュージアムおさしまセンター(ビッキのアトリエがあった場所)にて展示されることとなった。

アイヌの伝統的な木彫り文化を色濃く反映させながら現代彫刻家となった砂澤ビッキ

 

この小さな村のシンボルが再びその姿をみせることはかなわない。

 

しかし、新たな村のシンボルが育ちつつある。

 

北海道おといねっぷ美術工芸学校。

人口800人の村のうち、120人の生徒を抱える高校だ。

以前はどこにでもある公立高校であったが、過疎化の影響をもろに受け廃校の危機に迫られる。

全道唯一の工芸科に変更し、全国各地から生徒を募集した。

徐々に知名度が上がり、今では倍率2倍を超える年もあるそうだ。

生徒たちは村に住民票を移し、多くの生徒は寮で生活。

自治体の行事にはすべて参加し、上記のおさしまセンターの仕事を手伝うことも。

 

この学校が村の経済を支えていると言っても過言ではない。

 

いつかは卒業生の中からこの地で制作活動を行う者も出てくるだろう。

 

シンボルの世代交代が起きる日をビッキも待ちわびているのではないだろうか。

 

 

最後に、北海道という地名の由来をご存じだろうか。

 

明治初期、この地を調査した松浦武四郎アイヌの長老から聞いた話。

「この地にすむものをカイと呼ぶ」

 

彼は江戸時代から明治時代に変わったことで、蝦夷地ではなく新しい名を政府に提出した。それが「北海道」。

 

彼の残した天塩日誌という記録から、上記の話を聞いた場所を割り出し、北海道命名の地としたそうだ。

 

現在では高橋はるみ知事直筆の記念碑がひっそりと建てられている。