近年北海道各地でワインの醸造が行われている。
道内各地の農家と契約し、ワインの生産量も道内トップクラス。
毛無峠の手前に本社が位置する。
そして、本社向かいに広場があるのだが
奥の方に小さく映っているものが見えるだろうか
2台のSLが展示されている。
屋根等はないため、それなりに劣化しているようだ。
ここは高台であり、日本海も見える。
目次
昨年できたばかりの道の駅へ
天気はあいにくだが、すごい人出である。
昼食を断念。晴れていれば外で食べることも可能だが、雨だし寒いし。
ということで移動。
スウェーデンヒルズにあるレストランへ
すぐ横にはガラス工房や木工工房があって、製作現場を見学することもできる。
もちろん食事も美味しい。
パスタと大盛りサラダとパン食べ放題である。
そして石狩当別駅へ
かつては江当軌道や当別町営軌道の駅(停留所)でもあった。
南口から眺める駅舎。
駅前はロータリーで、JAなどの金融機関や飲食店、その他当別町の中心部らしく諸々の施設が並ぶ。
一方北口を出ると目の前は白樺公園と総合体育館、さらに少し東に行くと町役場。
1927年江当軌道開業に伴い当別駅開業(現在の駅とは別)
積雪などのため運休が多く、1936年廃線に伴い廃止。
駅は現在の宮永建設の裏手あたりにあったようだ。
終点の江別駅も国鉄の江別駅とは距離があり、砂利や木材の運搬を行っていたが経営は厳しかったらしい。札沼線の開通により役目を終えたといっていいだろう。
当別町史によると冬季は営業休止。トラックで貨物集配などを行っていたそう。
また弁華別方面、中小屋温泉(後に月形市街地)方面へのバスも運営していたそうだ。
町史には当別停車場や10人乗りバスと中小屋付近の写真も掲載されていた。
現在の石狩当別駅は1934年桑園駅~当駅の開通に伴い一般駅として開業。
1944年戦時体制により不要不急線に指定、休止となる。1946年に再開。
1949年現在の当別町青山ダム方面への簡易軌道である当別町営軌道が開業。
当別駅北側に停車場があった。
また、貨車庫・修理工場も当別停車場付近に設置される。
停車場は当別と青山中央のみ倉庫がありと職員も常置していた。
1952年全線開通し木材運搬や戦後の緊急開拓で青山方面に入植した人々向けの旅客営業を主としたが、台風の影響などでわずか数年後の1956年に完全に全線廃止となった。
機関車はガソリン車2両(6t、8t)とディーゼル車1両(詳細不明) 。
当時の写真も載っていた。
石狩当別駅は給水設備もある大きな駅で砂利や政府専用米などの輸送が多かった様子。
70mほどの札幌砂利工業専用線もあったらしい。当別川が砂利の産地だったそうだ。
1967年に専用線は廃止となったらしい。
さらに1979年石狩当別駅においても貨物取扱廃止。
1994年駅舎改築。橋上駅舎となり北口が開設された。
2012年電化完了。
1960年代後半の国土地理院地図の航空写真。
駅前は倉庫のような建物が並ぶ。
西側にはまだ田んぼが残っている。
北側は木工所があり、ストックヤードのような場所になっていたよう。
1970年代の写真では車庫なども見えるが、上の写真では不明。
現在も車庫や保線室は残されている。
のどかな風景を走る列車
ローカル線の魅力満載だ。
駅スタンプはふくろうと最近できた駅前の直売所である。
裏面は当別開拓の始祖となった伊達家の施設と夕日
今年は何枚集められるだろうか。
3日目の昼、最後の目的地へ向かう。
花巻市街から東に向かう。
行き先は宮沢賢治に関する施設が集まっているところ。
まずは宮沢賢治記念館
道路から階段を上って行くのだが
かなりの段数の階段
雨ニモマケズ風ニモマケズの全文が一段に一文字ずつ記されているのだ。
子供を抱えて登るのはちと大変だが、せっかく訪れたからには登るべきだろう。
階段を上ると山猫軒というレストラン
もちろん注文の多い料理店を模したものである。
ここで昼ごはん。
「すいとん」を生まれてはじめて食す。
賢治記念館は賢治の半生とどんな人物だったのかにスポットを当てた施設
館内は残念ながら撮影禁止
KJ氏がいかに好奇心旺盛で多趣味な人物だったかが良くわかった。
小学生の時に読んでいた本に出てくるドリトル先生の人柄にちょっと似ていたのかなとも思ったりする。
山猫さんたちと記念写真
続いて向かいにある童話村という施設へ
こちらはより子供向けかな
芝生や森林など広々とした公園に建物が点在している
月夜の電信柱さん
ここがメイン施設といえるかな
中に入ると・・・
KJの作品世界に入り込める施設
子供がテンションあがりすぎてあまりじっくり味わえなかったが、ここは子供も大人も体感してほしい場所だ。
この場所で多くの子供たちが楽しんでいる姿を見て宮沢賢治はきっと喜んでいるのだろう。もしかしたら少し照れているかもしれない。
この後は娘にとって初の飛行機で札幌へ帰る。
心配していたが乗り物酔いの母、少しの揺れにビビる父を尻目に終始ご機嫌だった。
引き続き花巻の町中を周る。
続いてやってきたのはイギリス海岸
イギリスの白亜の海岸を連想させることから賢治兄さんがイギリス海岸と名付け、足繁く通っていた場所である。
土手は桜並木となっている。
KJにとってのイギリス海岸とは。
この風景を見てKJはイギリスを連想したというわけだ。
現在は北上川上流のダム建設によって水量が一定に保たれ、川床を見ることは難しくなった。しかし、年に一度、KJの命日9月21日には上流のダム5つの放水量を調節し、川床が現れるようにしているらしい。
毎回成功とはいかないようだが、意外と大がかりなイベントになっているようだ。
賢治ファンなら一度は訪れて欲しい場所だ。
次は花巻城址へ
室町時代には稗貫氏の居城であった。
豊臣政権樹立後は浅野長政、のちに南部信直の代官、北信愛の居城となった。
江戸時代を通じて南部氏の抱え城として辺り一帯の政治の中心となったが、明治2年に廃城となる。
道路沿いに石垣が残る。
城の復元図と説明書き
復元された西御門
本丸跡は芝生が張られている。
御台所前御門のあった場所
そして、この地もKJの愛した場所であった。
すぐ側には小学校があり
銀河鉄道のモニュメントと
KJのシルエットが描かれていた。
3日目の朝、旅館を出て再び花巻市の中心部へ向かう。
最初に向かったのはぎんどろ公園
宮沢賢治(KJ)が教師をしていた農学校跡に造られた公園。
KJが愛したぎんどろの木が植えられている。
桜もゆかりがあるらしい。
農学校時代は、KJが最も幸せな時を過ごしていた頃だったのかと思う。
農学校について
帽子とコートがちょっとだけキザ
昼寝?
リラックスしているKJの像
公園内には他にも碑や像があるのだか・・・
巨大なアブ?ハチ?が多くて、恐怖のあまりここで退散してしまった。
次に向かったのは材木町公園
小さな公園にかつて通っていた花巻電鉄の車両が保存されている
とても細長い電車だ
膝を突き合わせて電車に揺られていたらしい。
乗り降りの際は皆が一度立っていたのだろうか。
デハ3形という規格らしい。
花巻電鉄は花巻駅から花巻温泉郷や花巻南温泉郷へ向かう路線であった。
現在は電鉄タクシーに痕跡をかすかに残している。
鉄道は1972年に全廃となった。