車中泊十勝巡りの旅 ― 新十津川町わがまちご当地入場券 ―

目次

 

1.新十津川駅

滝川駅を出て、国道275号方面へ向かう。

すぐに隣町の新十津川町に入る。

 

 

駅は町の中心部に近い所にある。

 

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駅舎は寂しげだが、この日は見学者で賑わっていた。

たとえ一日一往復の駅であっても、駅としての矜持は失っていないように見えた。

妄想が過ぎるか。

 

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駅の向こうは線路がちょっとだけ続くが、集合住宅らしき建物の手前で途切れている。

 

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駅名標はくたびれた様子。隣の下徳富駅は漢字の表記がない。

 

ここは無人駅なので、ご当地入場券は駅前の寺子屋というお店で購入する。

軽食と鉄道グッズを販売しているお店である。

 

 

同好の士が老若男女問わず結構いた。

 

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残雪の残る山脈と田園を横に青空の下走る一両のキハ。

駅スタンプは樺戸連山と駅舎である。

 

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裏面は駅舎と車両を上空から撮った写真。

桜が咲いているようだ。

 

この時点ですでに2000枚突破。

お店のおばあちゃんも忙しそうであった。

道内でも有数の売れ行きらしい。

 

2.新十津川駅と近隣の歴史

新十津川町の成り立ちは奈良県十津川村を襲った水害が発端である。

 

災害によって住む場所も失った人々へ、明治政府が用意したのは北海道の未開の地だった。

1889年、移住してきた人々は現在の滝川市にあった屯田兵屋で冬を越し、丸木舟で新十津川の地へとやって来た。

開拓の様子は小説にもなっている。

当初は亜麻の耕作を盛んに行っていたが夜盗虫や石狩川の水害の被害が大きく、影響を受けにくかった水稲の耕作に転換。今では北海道を代表する水田地帯となっている。 

新十津川物語〈1〉北へ行く旅人たち (偕成社文庫)
 

人数も多く、単なる集団移住ではなく分村建設に等しいとみられたこの大移動は、明治政府に特別保護も受けた。明治政府内に十津川村出身の名士も少なくなかったことも要因と思われる。

 

1902年に石狩川に架かる橋が完成し、現在の住所でいうと、「中央」付近が賑わうようになる。1906年には今も名高い金的酒造の前身の新十津川酒造が創立。

 

新十津川駅は1931年札沼北線石狩沼田駅~当駅間の開通に伴い開業。

この時は中徳富駅という駅名だった。

当時新十津川町の中心地はこの辺りと北隣駅にあった石狩橋本駅付近の2か所に分かれていた。駅の設置数などでも紛争があり、結果として町名を名乗る駅はなく上徳富駅・石狩橋本駅新十津川駅下徳富駅の4つの駅を設置することとなった。

1934年当駅~浦臼駅間が開通。

1935年浦臼駅石狩当別駅間が開通し、札沼線が全線開業。

役場や産業組合が中徳富駅付近に移転してくる。

 

1943年第二次大戦の影響で札沼線営業休止。

1953年札沼線再開時に中徳富駅から新十津川(しんとつがわ)駅に改称。

1972年当駅~石狩沼田駅間が廃止となる。

 

1979年貨物取扱廃止。

1986年完全無人化。 

1997年「しんとつかわ」駅に改称。

 

2020年札沼線北海道医療大学駅以北の廃止に伴い廃駅となった。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

この頃は1面2線だっただろうか。

終着駅だった時期があるからか、貨物用なのかわからないが側線があったようにも見える。

 

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