道北をいっぱい巡った。 ― 羽幌線天塩駅跡他 ―

目次 

 

 

1.作返仮乗降場跡

さて、この天塩町にはかつて国鉄羽幌線という路線が走っていた。

留萌市から日本海沿岸を北上して幌延駅へ至る鉄路。

1987年に全線廃止となり、今では痕跡も少なくなったので探訪は要所要所のみだったが、訪れなかった駅跡も含めてここで振り返っておこう。

 

まずは作返(さくかえし)仮乗降場

 

この辺りには明治36年1903年)ウプシ駅逓・天塩川を渡る渡船場が設置されていた。

船場は天塩大橋開通後の昭和20年(1945年)まであったという。

1955年仮乗降場を設置。

駅に昇格することのないまま1987年羽幌線廃線に伴って廃駅となる。

 作返仮乗降場の画像

 

 2.振老駅跡

国道232号線を南西へ下ると次は振老駅(ふらおいえき)

 

1901年に開拓が始まる。

1935年幌延駅~天塩駅間が開通。当時の名称は天塩線。

1970年貨物取扱廃止。無人化。

1987年羽幌線廃止に伴い廃駅。

 

 

国道から分かれる細い道をまっすぐ進むと振老駅のあった場所。

痕跡は残っていない模様。周囲に人家はほとんど見当たらない。

 

振老駅の画像

 

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

駅舎は簡易的なものに変わっている。

若干の民家があるようだ。貨物ヤードなどがどの辺りにあったのかは不明。

 

なお、2.4km隣には1956年西振老仮乗降場が設置されたが、1970年利用者僅少により廃止された。 

3.北川口駅

さらに進むと次は北川口駅

 

周囲は1901年に開拓が始まった。

1935年幌延駅~天塩駅開通時に一般駅として開業。

1970年貨物取扱廃止・無人化。

 1987年羽幌線廃止に伴い廃駅。

 

 

民家の前を通る細い道の向こうに駅があった。

防雪林だけが痕跡と言えるかもしれない。 

北川口駅の画像

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

かつては島式ホームの1面2線だったようだが、駅舎側の線路だけを残された状態。

牧場の敷地端っこにあるような位置で、どの辺りが貨物ヤードだったのかはわからない。

 

4.中川口仮乗降場跡 

川口駅から少し南に下ったところにあったのが中川口仮乗降場。

 

1956年仮乗降場として設置。

駅に昇格することはなく1987年羽幌線廃止に伴い廃駅。

中川口仮乗降場の画像 

 

5.天塩駅跡

そして市街地、現在の道の駅付近にあった天塩駅。

天塩駅の中心駅だ。

 

 

天塩川河口部に位置するこの町。

開拓前は天塩アイヌが居住しテシホ場所が設けられていた。

庄内藩の警備、明治維新水戸藩支配下を経て1890年頃から離島向けの木材の集積地として港が栄え始める。

やがて周囲の開拓が始まると共に、道内の日本海沿岸各地から移住者を募って市街地を形成する。

1899年からは小樽~天塩~利尻という航路が開業。

さらに天塩川河口~名寄までの天塩川航路も整備され、木材の集積を中心とした一大港町に成長。

 

この頃後の天北線の誘致も行うが、オホーツク海を経由する路線となり断念。

さらに、宗谷本線も町内を通過しないこととなり、天塩沿岸鉄道の請願が始まる。

念願かなって1932年幌延駅~遠別駅間が着工。約2年後幌延駅~天塩駅間が開業となる。天塩川に架けられた鉄橋は日本で2番目となる艀式架設方式であった。

鉄道の開通により天塩川定期船利用が不要となる。

水産物・木材を町外へ搬出、日用品を町外から運ぶようになった。

さらに線路の延長により、小樽航路も終焉を迎える。

1965年頃までは乗降人数の上昇を続けていたが、1960年頃からニシン不漁などにより人口が減り始めた影響を受けることとなる。

 

1983年貨物廃止。1987年羽幌線廃止により廃駅となった。

駅跡は道の駅敷地、線路跡は国道232号線に転換となり痕跡はほぼ残っていない。

 

唯一残るのがかつての駅前食堂に残された駅名標だ。

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喫茶アゲイン。

写真を撮った後、ちょっと迷ったが昼飯をここで食べることに決める。

詳細についてははまた別の回で。

 

天塩駅の画像

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。 

 

2面2線のホームを要する一般駅。

駅裏側に側線や留置線、さらに北側の貨物ホームへの側線もあった。 

6.干拓仮乗降場跡 

市街地を離れ南に進むと干拓仮乗降場

 

かつてこの辺りには更岸湖という沼があった。

1932年この湿地帯の耕地化工事が始まる。

戦後本格的に農地となり、地名も干拓とされた。

 

仮乗降場は1955年設置。

1987年羽幌線廃線に伴い廃駅。

 

干拓仮乗降場の画像

7.更岸駅跡

そして天塩町最南端の駅が更岸駅。

周囲は1898年開拓が始まっている。

 

ここは1936年天塩駅~遠別駅間開通に伴い一般駅として開業。

1970年貨物廃止・無人化。

1987年羽幌線廃線に伴い廃駅。 

 

ここも国道から細い道に入った正面に駅舎があった。

現在は何かの工事で立入禁止。周囲にはほとんど人家がない。

 

 

更岸駅の画像

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。 

 

既に撤去済みだが、駅南側に貨物ホームと引込線があった様子。

木材が山と積まれていた時期もあったらしい。

駅前には無人化後簡易委託を行った商店があったようだ。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 天塩町でカード集め ―

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1.天塩町役場

幌延町のトナカイ牧場から南下を続ける。

国道232号線に出て、日本海沿岸の天塩町までやって来た。

まずは町役場へ行ってマンホールカードをもらう。

 

 

 

日本海沿岸の町でシジミ漁や酪農が盛ん。カードのデザインには花と鳥をチョイス。

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描かれているのは、まず、コガラという小鳥。

黒い帽子をかぶったような模様。地方によっては鍋かむりとも言われるそう。

さらに喉の辺りも黒くなっていて、こちらは蝶ネクタイのよう。

森林にすむ小さな紳士だ。

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エゾヤマザクラハマナスはどちらも北海道らしい草木。

利尻富士天塩川なども使われそうだが、天塩町だけの風景ではないのでパスしたのだろうか。

 

2.道の駅てしお

続いては道の駅てしおへ向かう。

 

 

かつての国鉄羽幌線天塩駅跡に建てられた道の駅。

ここでかけ橋カードをもらう。

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天塩川日本海に囲まれた牧草地が長く伸びている。

背景には利尻富士の姿も見えていた。

 

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オロロンラインの橋梁の中ではかなり大きな橋と思われる。

 

  

天塩町の市街地よりやや北側に位置する。

河口部の日本海側はかなり長い砂嘴になっている。

 

3.ChuChuプリン

道の駅でついでにおやつを購入。

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マヨネーズではありません。プリンです。

 

ラベルの絵の通り、ストローもなくひたすらに押して口に吸いこむ。

 

 

 

こんな感じで吸引します。

なんか宇宙食みたいだが、販売開始から10年以上たつこともあり味はお墨付き。

ふるさと納税の返礼品にもなっている。

 

時期によっては違う味の限定品が出ることもあるそうで、通るときは要チェック。

道北をいっぱい巡った。 ― トナカイ観光牧場 ―

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1.トナカイ観光牧場

曲淵駅跡からいったん来た道を西へ戻る。

そこから道道121号線を南へずーっと進み幌延町まで戻ってきた。

次に立ち寄ったのはトナカイ観光牧場

 

 

日本では珍しい、トナカイを観光用に飼育している牧場である。

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入ってすぐの建物はレストランなのだが、月曜日は定休日。

観光牧場もスタッフはお休みのようだが、入場は可能(料金無料の施設)

 

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この日は雲もほとんどない超晴天。

暑さに弱いトナカイたちは日陰でぐったり。

 

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一頭だけ、元気にうろうろ歩き回っているトナカイがいた。

月曜日以外は餌を購入して、直接あげることもできる。

トナカイはオスもメスも角を持っているそうだ。1年で抜け落ちるのであまり大きくはならないらしい。

 

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夜にはライトアップも行っているらしい。

 

夏にはヒマラヤ原産のブルーポピーという珍しい青い花が咲いている。

残念ながら写真を撮り忘れるという失態を犯す始末。

公式ホームページよりご覧下さい。

 

2.幌延町のトナカイ

幌延町にトナカイがやって来たのは約30年前。

元々は岐阜出身の脱サラした青年がフィンランドでトナカイの飼育を学び、日本国内の適地を探していたところ、この幌延町が飼育環境に適しているということもあって町内に農場を開く。

トナカイなど珍しいということもあって数年後町が農場から数十頭を購入し、観光用に飼育を始める。

当初はJR幌延駅そばにあったようだが、見学者が増えて手狭になったことから現在の場所になったそうだ。

 

ちなみに最初に飼育を始めた青年は今も農場を続けている。

北欧レストラン向けに肉を販売しているということだ。30年以上続けているのだからきちんとした経営が成り立っているのだろう。

宗谷総合振興局HPより。

 

3.ゆめ地層館

観光牧場のすぐそばにはゆめ地層館という原子力関連の施設がある。

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ここも無料で見学できるが、月曜日はお休み。

牧草が広がる地域に似つかわしくない大きなタワーが建っている。

 

この施設では高レベル放射線廃棄物の地層処理技術研究を行っている。

事前に予約すれば一部の研究施設を見学することも可能らしい。

また、予約無用のインフォメーションセンターのようなものもある。

泊村のとまりん館みたいなものか。

 

残念ながら見学できなかったので、また機会を作って来たいと思う。

こういう施設の是非は色々ご意見あろうかと思うが、今ある原発が全て無事に廃炉となり処理が完全に終わるまでは研究も放り投げるわけにもいかないだろう。

せっかく広報してくれているのだから仕組ぐらい知っても罰は当たらないと思うので、ただ遠くてねえ・・

豊富温泉にはいつか泊まってみたいと思っているのでその時かな。

 

 

 

道北をいっぱい巡った。 ― 曲淵駅跡 ―

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1.曲淵(まがりふち)駅跡

沼川駅跡から道道138号線を東へ向かう。

次の集落、曲渕にあった曲淵駅跡を訪ねた。

 

 

駅跡は道路沿いにある公園に生まれ変わっていた。

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駅名標を模した看板。

ここまでくると稚内市街よりも猿払村中心部の方がかなり近い。

 

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裏側はだいぶ錆びている。

看板は木製だったんだね。近くに木工場があるようなので自家製だろうか。

 

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バス待合室。冬は寒そう。

 

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道路の反対側の建物も待合室だろうか。

一瞬駅が残っているのかと思い違い。

 

この辺りは天北線代替のバスが通っていたが、2011年宗谷バが路線転換。稚内市街からの普通運行バスはここが終点となる。猿払村小石との間に公共交通機関はなくなった。さらに2020年3月、曲渕へのバス路線自体が廃止。乗合タクシーに転換された。

 

2.曲淵駅と近隣の歴史

1915年頃、鉄道敷設の測量と同時に移住開始。造材が生活の糧であった。

曲淵駅は1922年宗谷本線稚内~鬼志別間開通に伴い一般駅として開業。

天北炭田の曲渕炭鉱が近隣にあり、貨物輸送が盛んであった。

 

1964年曲渕炭鉱が閉山。石炭輸送が途絶える。

1982年貨物取扱廃止。

1989年天北線廃止に伴い、廃駅。

 

集落の名は「曲渕」だが駅名は「曲淵」の字があてられていた。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

2面2線のホーム構造と2本の副本線を持つ。

駅横には貨物ホームがあり、引込線もあった。

駅裏には転車台の跡も残る。かつては駅裏にホッパーがあり、選炭場からトロッコ軌道が引かれていた。

この時点では既に炭鉱はなく、わずかな木材が積まれている。

 

曲淵駅の写真

 

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3.曲渕炭鉱

曲渕炭鉱は1940年頃開鉱。

現在は露天掘りの跡が僅かに残っているようだ。

 

最盛期は1957年頃。

運営は天北石炭鉱業と宗谷炭鉱という2社が別々に行っており、閉山時期も別だったというちょっと変わった経営が行われていたようだ。

 

1960年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

炭鉱跡の設備はよくわからないが、炭鉱住宅らしき建物が並んでいる。

集落は数千人を数えたこともあったというから、この地方としてはかなり大きな集落だったと思われる。

 

天北炭田自体、道内の他の産炭地と比較すると小規模であった。

最盛期でも炭鉱数は12と数も少なければ、産出量もあまり多くなかったようだ。

その中で比較的大きかったのが豊富町の日曹炭鉱とこの曲渕炭鉱であった。

 

現在は炭鉱住宅もほぼ姿を消し、小学校もなくなったが郵便局や商店はまだ健在である。天北線道道に姿を変え、新たな動脈となっている。

 

 

 

道北をいっぱい巡った。 ― 沼川駅跡 ― 

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1.沼川駅跡

道道121号線をさらに南下。沼川という集落に到着。

ここにも天北線の沼川駅があった。

 

 

この近辺では最も大きい集落のようだ。

かつては町外れに沼川駅があった。

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駅名標のレプリカと、北見線や天北線の概略を綴った木製看板も設置されていた。

 

手前にはベンチもあって、小さな公園のようになっている。

 

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向かいのお宅の窓にも沼川駅の文字。

 

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そして現役時代の木造駅舎やホームの様子もパネルに収められていた。

ホームの写真は棒線化した晩年の姿ではなく、交換設備のあった最盛期の姿のようだ。

わざわざこのようなものを設置したというところから地元の人々にとって大切な駅だったのかと思わせる。

現在も役所の支所、郵便局、駐在所、コープ、小中学校などの施設が健在で、駅前にはJAの支所もあるなど一定の規模を保っている。幌延方面、猿払方面への分岐点になっている場所だが鉄道の時代から要衝だったのだろうか。

 

2.沼川駅と近隣の歴史

沼川駅は1922年宗谷本線鬼志別駅~稚内駅間開通に伴い一般駅として開業。

鉄道の測量と同時に開拓も始まった。

駅ができたことで木材の集積地として発展が始まる。

 

1933年には殖民軌道沼川線(幌沼線)が開業。

詳細は後述。

1964年幌沼線が廃止。

 

1982年貨物取扱廃止。

1986年交換設備廃止、無人化。

1989年天北線廃止に伴い廃業。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

 

駅裏にストックヤード、駅舎横には貨物引込線があり、ホームは2面2線構造。

設備はあるが、貨物の姿は確認できない。この頃には取扱いがほぼなかったのかもしれない。集落の規模はほぼ現在と同じようだ。

ストックヤード南側に殖民軌道の停留所があったようだ。

 

3.殖民軌道幌沼線(沼川線)

かつて幌延駅と沼川駅をつないでいたのが殖民軌道幌沼線。

1920年代に幌延駅と北沢停車場間が開通。

北沢は現在の豊富町豊幌

 

 

 この北沢や有明方面から木材や石炭を運んでいたようだ。

 

 

1933年沼川駅~上福永停車場開通。

 

上福永はこの辺り。

 

1934年上福永~北沢間開通し全線開業。

1936年路線名を幌沼線に改称。

 

1948年熊越峠の付近の軌道崩落、復旧は断念し幌延~北沢停車場を廃止。

沼川線に改称。

 

1950年北沢~有明停車場間も廃止。

1964年全線廃止。残存施設はなく、航空写真からも痕跡はわからない。

 

1960~70年代の国土地理院地図の航空写真では軌道撤去後と思われる痕跡を確認できるようだ。

 

軌道の動力は馬によるもので、牛乳なども運んでいたようだ。

軌道跡をずっと辿っていくともしかしたら古レールくらいは発見できるのかもしれない。

 

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