札幌史跡探訪 ― 山鼻公園 ―

目次

 

 

 

1.山鼻公園

今日は中央区の山鼻公園を探訪。

 

 

小学校の目の前にあり、いつも子供たちで賑わっている公園。

 

広場の真ん中に大きな碑が建っている。

f:id:kamonji224:20210501173221j:plain

山鼻兵村開設碑 とある。

 

f:id:kamonji224:20210501173415j:plain

明治7年(1874年)に屯田兵村の開設が決定。その2年後に兵士とその家族がやってきたわけだ。

当時は鬱蒼とした原生林とのこと。

すすきのから徒歩圏内のこの場所だが、薄野遊郭が正式に営業開始となったのが1871年。山鼻とは藻岩山の端(はな)という地形がルーツとなった地名で、この頃すでに普及していたのかは不明。当時はまだまだ札幌の中心部以外は原野が多かったということだろう。

題字は永山武四郎。屯田兵生みの親とも言われる。

彼については以下を参照。

kamonji224.hatenablog.com

 

 

f:id:kamonji224:20210501174612j:plain

記念碑は開基20周年を記念して建立とあったが、脇には81周年の記念祭に建てられた記念塔もあった。

 

f:id:kamonji224:20210501174757j:plain

公園の周りは桜が植えられている。ちょうど満開だった。

 

f:id:kamonji224:20210501174931j:plain

若干残念な状態になっているが、説明板も設置されている。

 

f:id:kamonji224:20210501175057j:plain

記念碑の隣には大きな木が立っている。明治時代から残っているのだろうか。

 

2.山鼻村の概略

屯田兵村設置当時は札幌とは別の村。山鼻村と名乗っていた。

開設は屯田兵入村の2年前、数戸の農民が移住してきたのが始まり。

石山通りを中心に村づくりが進み、山鼻公園の北西に屯田中隊本部が置かれた。

1880年に戸長役場が現山鼻小学校に設置される。

1906年に円山村と合併し、藻岩村となる。

札幌史跡探訪 ― 創成川周辺 ―

目次 

 

 

1.開拓使本陣跡

豊平川を渡って、次は創成川周辺の史跡に立ち寄る。

まず訪れたのは開拓使の本陣跡にして後にクラーク博士の居住地となった場所。 

 

 

 

本陣とは江戸時代以降に設置された身分の高い人が宿泊する場所。

f:id:kamonji224:20210430140435j:plain

この本州では参勤交代などの大名や旗本が宿泊していた本陣だが、ここ北海道の開拓使本陣は宿舎に使われていた模様。現在はビルやマンションが並び、片隅に上の案内板が建てられている。

 

開拓使が開庁したのは明治2年(1869年)。その3年後に竣工した建物ということとなる。案内板にあるホイラーはクラークの弟子であり、ともに来日。

クラークが1877年に北海道を去った後も1879年まで農学校の教頭を務めた。

札幌のシンボル兼がっかり名所ともいわれる時計台の建設を指導、北大博物館や気象台の原型をつくり、豊平橋の復旧架橋も担当するなど多方面に渡って活躍した人物である。

 

クラーク博士は北海道開拓の父として名高いが、在任していたのは僅か8か月。

実務的なことよりも基礎科学と道徳教育を伝道し、後の礎を築いた後は若者に託し日本を去っていったのである。

 

2.大友亀太郎

続いては創成川の対岸やや北にある大友亀太郎像。

 

 

遊歩道に建てられたある銅像と説明文。

f:id:kamonji224:20210430142105j:plain

大友亀太郎。現在の創成川の前身である大友堀を開削した人物である。

 

f:id:kamonji224:20210430142153j:plain

二宮尊徳に学び、江戸時代末期に渡道。

まずは現木古内町七飯町に属する地域を開墾。

1866年札幌へ移り現在の東区、伏籠川上流部分の原生林を開拓。

この際に用排水路として築かれたのが前述の大友堀である。

開拓された地は札幌元村となり後に札幌市と合併する。

大友亀太郎明治維新後間もなく故郷へ帰るが、彼の役宅は後に札幌村郷土記念館となった。

 

3.創成川近隣の歴史

亀太郎像のすぐそばにはレンガ調の休憩所も建てられている。

f:id:kamonji224:20210430142247j:plain

 

近隣を撮影した写真と説明文のついたパネルも掲示されていた。

大友堀を活用することに定めたのは札幌市役所にも銅像のある島義勇

彼もまた僅か1年ほどの在任期間で職を辞す。後に故郷の佐賀に帰り江藤新平らと佐賀の乱を起こして刑死する。

f:id:kamonji224:20210430142313j:plain

創成橋が先に完成し、それに合わせた川の名が大友堀から創成川に改められた。

 

kamonji224.hatenablog.com

 

創成橋は土木遺産にも認定されている。

残念ながらカードは配布終了。ただ、気軽に身に行ける土木遺産というのはなかなかないものです。

 

南一条交番について

f:id:kamonji224:20210430142351j:plain

上の写真の休憩所もイギリス積み仕様っぽい。

 

 

f:id:kamonji224:20210430142509j:plain

大正期は路面電車もまだ民営。

この路線は一条線と呼ばれ南一条西14丁目~南一条東2丁目までを結んでいた。

その後延伸・縮小を経て現在は西4丁目~医大前までの軌道が現役で残存している。

 

明治24年頃の周辺地図。今も名残を感じられるのは創成橋と時計台くらいかな。

f:id:kamonji224:20210430142643j:plain

札幌史跡探訪 ― 豊平橋周辺 ―

目次

 

1.志村鐡一の碑

某月某日。ようやく寒さもおさまり自転車に乗れるような天気になってきた。

今回は札幌駅に行く用事があったので、ちょっと遠回りして寄り道してみる。

まずは豊平橋近く、志村鐡一の記念碑からスタート。

 

 

ホテルの敷地片隅に大きめの石碑が建てられている。

 

 

f:id:kamonji224:20210429174650j:plain

碑文には札幌開祖とある。

1857年に江戸幕府が札幌越新道(銭函~豊平~勇払)を開削。

難所の一つであった豊平川を越えるため、川の両岸に渡し守が住むこととなった。

このうち右岸に居を構えたのがこの碑にある志村鐡一の一家だとされる。

 

f:id:kamonji224:20210429175243j:plain

現在の札幌市域にアイヌのコタンや交易場所はあったようだが、正式な和人の定住者となると上の豊平川渡し守達が一番初めとなるらしい。

 

f:id:kamonji224:20210429175512j:plain

石狩調役の荒井金助は石狩地方一帯の調査・開発で活躍。

江戸時代末期におけるこの地方の最重要人物であったようだ。

 

2.豊平橋

すぐそばには豊平橋の案内板も建っている。

f:id:kamonji224:20210429180028j:plain

この一帯では最大の暴れ川であった豊平川

明治初めころまでは橋を架けることもままならず、お雇い外国人たちによって木造橋が架けられるも融雪や荒天による増水で幾度も流される始末。

1898年岡崎文吉設計で初の鉄橋がかかるも、再び洪水で橋脚の土台がえぐられる。

その後しばらく応急措置でしのぐこととなった。

 

そして1924年岡崎の師匠ともいえる廣井勇の指導によってついに永久橋が架けられた。

第二次大戦後交通量の増加によって橋の架け替えが決定するまで、長年に渡り人や車、そして市電もこの橋を渡ることとなる。

 

廣井勇は当ブログでも何度か紹介しております。

kamonji224.hatenablog.com

 

 

3.志村鐡一翁居住の碑

豊平橋から少し下流へ進む。

緑地帯の中に見逃してしまいそうな目立たない木製の碑が建てられていた。

 

 

 

T字路のすぐわきに建てられているこの碑。光の加減で何と書いてあるか読めないが、志村鐡一の居住の地に建てられた碑である。

f:id:kamonji224:20210429181032j:plain

 

現在は札幌の開祖と称えられているが、明治維新後は新政府と折り合いがあまり良くなかった様子。

f:id:kamonji224:20210429180955j:plain

旧幕府に任命された役とあって、維新後は渡し守の任を解かれたらしい。

その後は、この地で静かに没したとも、定山渓へ向かう途中で失踪したとも伝えられている。

 

4.吉田茂八の碑

最後は豊平川左岸へ渡る。 

 

豊平橋のたもとに建てられているのはもう一人の渡し守にして札幌開祖、吉田茂八の碑である。

 

f:id:kamonji224:20210429181528j:plain

志村鐡一と同じく1857年に渡し守の任につく。

こちらは維新後も明治政府とうまくやっていたようで、1870年には創成川の掘削工事を一部請負、その後も建設業を営んで奉公人も抱えていたそうだ。

 

今は道内最大の都市、日本国内でも有数の人口を誇る町となった札幌。にも関わらず開祖と呼ばれる彼らについてはあまり知られていないのかもしれない。

月形町 ― 矯正施設からの開拓 ―

目次

  

1.月形町の概要

今日は月形町について調べてみた。

wikipedia:月形町

 

人口は約3千人。

石狩川右岸に位置し、水田が広がる町だ。

町の始まりは1881年の樺戸集治監の建設に始まる。

当時無人の原野であったこの地は東西を山地と石狩川に挟まれ、南北は泥炭地のぬかるみで道路の開削もままならない陸の孤島であった。

囚人と職員及びその家族によって、突然2千人の集落が誕生することとなる。

集治監とは西南戦争などで生まれた国事犯の収容及び北海道の開拓を担う施設である。

初代典獄(所長)である月形潔の名は町名の由来となった。

 

囚人は周囲の開拓や道路の開削に勤しみ、開拓した地にそのまま居つくこともあったが、多くは劣悪な環境に耐えられず命を落としたようだ。

 

集治監の設置と同年、戸長役場が設置され月形村となる。

囚人が開拓した農地は徐々に民間へ払い下げられ、人口が増える。 

最初の払い下げは1887年、現在の知来乙地区を新潟の北越殖民社だった。

1899年、浦臼村が分村。

1903年、二級町村制施行。

この頃になると開発も進み、集治監の開拓が殖民を阻害するようになってくる。

囚徒も減少し、全国で監獄の再整備が行われた。

そして1919年樺戸集治監は廃監となった。

 

一方殖民は着実に進む。また、集治監の御用商人達が徐々に商家へと転換し明治~大正期にかけて市街地が形成された。

1953年町制施行。

1973年月形学園(少年院)が設置。

1983年に東京中の刑務所の廃止・移転に伴い月形刑務所が新設。

小さな町に二つの矯正施設が配置される、全国でも極めて稀な例であった。

2019年施設の老朽化・収容人員の減少で月形学園は廃止となった。

 

近年は農業が主幹産業。メロンや花卉などが主産品でありカントリーサインにも描かれている。

f:id:kamonji224:20210426162829p:plain

 

2.月形町の交通

1935年町内を南北に縦断する札沼線が開通。

町内には5つの駅(月ヶ岡駅知来乙駅石狩月形駅豊ヶ岡駅札比内駅)が設置されていたが利用者減少により2020年廃止となった。

鉄路に並行するように国道275号線が町内を南北に走っている。

 

かつて集治監が設置された頃は、交通手段は船しかなく対岸の北村や江別へとつながる航路が昭和に入るまで維持されていた。 

 

3.月形町の観光

市街地にはかつての樺戸集治監が月形樺戸博物館と名を変えてミュージアムとなっている。近隣には月形潔上陸の地や監獄波止場、樺戸神社の高見張跡、集治監上水道遺跡など関連地に記念碑が建てられている。

近年は漫画ゴールデンカムイでも脚光を浴びている。

 

 

 

市街地の背後にある円山は町内を一望できる展望台と集治監の囚人たちが植えた杉林が 開拓の縁を残す。

 

集治監の社交施設であった階楽亭は現在皆楽公園に姿を変え、釣りやキャンプのレジャースポットに。

さらに樺戸山地には森林学習センター、キャンプ場などを備えた道民の森が当別町と共に設置され、人気を集めている。 

 

空から日本を見てみよう ― 鳴門市~徳島市 ―

目次

   

1.鳴門市

今日は2015年5月19日放送の空から日本を見てみようで紹介された徳島県の鳴門市~徳島市について調べてみた。

最初は鳴門市からスタート。wikipedia:鳴門市

 

人口は約5万5千人。

阿讃山脈の東端に位置し、山地が多い。

吉野川北部が平地・市街地となっている。

淡路島との間には大毛島・島田島などがありさらにその先が渦潮で有名な鳴門海峡である。 海峡最狭部は1.4kmの幅で深さ90m。北側に深さ200m、南側に140mの深みがある。また海峡の南北にある紀伊水道播磨灘は潮時差がほぼ正反対で、最も差が大きくなるときは約1.5mの潮位差がある。これにより海峡中央部の潮流が非常に早くなる時刻に、岸側に近い穏やかな流れとの境目に発生するのが世界にも名高い鳴門の渦潮である。

 

f:id:kamonji224:20210422224213j:plain

大鳴門橋鳴門公園からも眺めることができる。

 

徳島県は江戸時代には徳島藩蜂須賀家の領地であった。

鳴門には支城として撫養城があったが、一国一城令によって取り壊し。現在は石垣と観光用に建てられた模擬天守があり、一帯は妙見山公園として整備されている。

その他にも阿波水軍の根拠地であった土佐泊城木津城などの史跡が残っている。

 

建築家増田友也の代表作とも言われる鳴門市文化会館第一次世界大戦中のドイツ兵俘虜収容所の記念施設として建てられた鳴門市ドイツ館などが観光名所だ。

2.松茂町

続いては松茂町wikipedia:松茂町

 

 

人口は約1万5千人。吉野川の河口に形成された三角州を江戸時代に新田開発で開拓した地が大半。堤防に松を多く植えたことが町名の由来。

徳島市と鳴門市の中間に位置し、両市のベッドタウンとなっている。

北側を流れる旧吉野川はかつて吉野川の本流で、江戸時代の治水工事で流路切り替えが行われた。

大正時代の実業家樫野恒太朗の邸宅を移築し、現在は結婚式場となっている樫野倶楽部は国の登録有形文化財に指定されている。 

 

3.北島町

次は北島町wikipedia:北島町

人口は2万2千人ほど。県内で最も面積が小さく、人口密度は四国内で最も大きい自治体である。 

 

戦後間もなくからチューリップの栽培が盛んで、現在も北島チューリップ公園・中央公園ではフェアが行われ風車も建てられた。

日清紡や東亜合成化学、東邦レーヨンなどの工場が立地しており、かつては企業城下町として栄えた。近年は徳島市ベッドタウンの色合いが強い。

 

4.藍住町

続いて藍住町wikipedia:藍住町

人口3万5千人。 

 

江戸時代より藍の栽培が盛んであった。日本有数の暴れ川である吉野川流域に位置するため洪水の多い地であったが、藍は台風シーズン以前に収穫を行うため被害が少なく、洪水による土砂流入が連作障害を防ぐメリットもあり、明治時代前半も非常に栄えたが、明治時代末期には輸入品により急速に衰えた。豪商の奥村家屋敷が藍の館という博物館になっている。 

中世には東四国・淡路の政治・文化の中心地であり守護が居を構えていた。

勝瑞城跡は国の史跡に指定されている。 

5.徳島市

最後は徳島市wikipedia:徳島市

人口は約25万人の県庁所在地。 

 

江戸時代には徳島藩の城下町として栄える。特に藍産業が盛んで幕末には国内で10位に入る人口を抱えていた。

吉野川の河口の三角州に位置し、市内には140近い川が流れている。

市の中心部に位置する眉山は古くからシンボルとして親しまれている。 

ふもと近くには江戸時代に城主となった蜂須賀家政が築城した徳島城があった。

明治時代にほぼ全ての建物が撤去され公園となる。唯一残った鷲の門も第二次大戦の空襲で焼失した。 

現在は石垣や復元された鷲の門、表御殿庭園などが観光地として整備されている。

また、城内で凶事があった時のみに使われた数寄屋門にかかる数寄屋橋木橋として復元されている。

 

f:id:kamonji224:20210423232509j:plain

 

その他には、蜂須賀家の墓所となった興源寺、池泉回遊式の庭園が名高い瑞巌寺、徳島を代表する祭りである阿波おどり会館吉野川橋、医学博士三河義行の邸宅であった三河家住宅、明治初期に建造された人形芝居の野外舞台である犬飼農村舞台などが名所として知られている。