札幌史跡探訪 ― 種畜場事務所跡 ―

目次

 

 

1.種畜場事務所跡

これまで公園にある史跡跡を辿ってきたが、続いては自衛隊駐屯地の敷地外側に設置された標識を探訪。

 

 

 

特に目印はないが、ここも用水路の続きなので公園から辿っていけば見つけられる。

 

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エドウィン・ダンが中心となって設置した牧牛場。

 

エドウィン・ダンについてはこちらを。

kamonji224.hatenablog.com

 

事務所の建物も移築されて上記のエドウィン・ダン記念館ができたそう。

 

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用水路は草が茂りまくっている。

 

2.種畜場の歴史

1876年に開かれた牧牛場は搾乳場、乳製品加工場なども直ちに建設。

牧牛場を設置した開拓使が1882年廃止。

エドウィン・ダンもこの年家族とともに東京へ移った。

この年は後に町村牧場を開く町村金弥も牧牛場に勤務していた。

 

開拓使に変わって設置された北海道庁が管轄する真駒内種畜場に1886年改称。

北海道における畜産の試験研究の中心地であり続けた。

 

一方で開拓使が進めていた農業試験研究は開拓使の廃止後官園が縮小。

北海道庁は開拓が進む内陸部に試験場をいくつか開設した。

その後農業史研究と技術普及の一体化を目的として、全道的な農事試験場が1901年に開設される。

 

1942年、種畜場と滝川市の種羊場が農事試験場に併合。

北海道農業試験場として再編された。

 

第二次大戦敗戦後、種畜場敷地は米軍が接収。

施設は新得町へ移転することとなった。

 

その後1950年にGHQの指令により再び全国的に組織再編が行われる。

農水省が管轄する北海道農業試験場(2001年北海道農業研究センターに改称)、北海道庁が所管する北海道立農業試験場(北海道立中央農業試験場・北海道立総合研究機構農業研究本部中央農業試験場に改称)、北海道立種畜場新得を本部・北海道立畜産試験場・北海道立総合研究機構農業研究本部畜産試験場に改称)、北海道立種羊場北海道立滝川畜産試験場に改称)に分離。

 

北海道立種畜場は新得町市街からやや西側、根室本線の大きなカーブ付近に移転して現在に至る。

 

 

2000年に滝川の試験場と統合。その後滝川の試験場は廃止となった。

現在は肉牛・豚・鶏の改良や飼養技術、感染症対策などを研究している。

 

真駒内地区の今昔マップ。

種畜場の変遷。

1916年の地図ではこの辺り一帯は種畜場の敷地であった。

1945年の航空写真では米軍基地、1970年代では団地・住宅街と自衛隊駐屯地。

宅地整備が進み1982年には域内小学校の児童数が約4400人とピークを迎えたが、その後は減少の一途。現在は約4分の1の1000人前後となり、小学校の統合も進んだ。

 

 

 

札幌史跡探訪 ― 種畜場関連施設跡 ―

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1.1マイル馬場跡

引き続き真駒内エリアを北に向かって進んで行く。

次の目的地は上町公園。

 

公園の名は住所が真駒内上町にあることからつけられた。

地名については真駒内入植の礎となった種畜場があった頃より上町と呼ばれているそうだ。種畜場から見て真駒内川の上流にあることが由来かと思うが、正確な情報は不明。

種畜場とは真駒内開拓時に設置された官設の牧場のようなもの。

 

この上町公園に立ち寄った目的はこれ。

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種畜場で飼育されていた馬が運動するための1マイル馬場があった事を示す標識。

 

現在では乗馬や馬術の練習・協議を行う場所を馬場と呼ぶ。

東京の高田馬場という地名は江戸で最も古くかつ大きい馬場があったことが由来。

 

今昔マップを見てみる。

 

 

1916年、35年の地図に見える楕円形の点線で囲われた部分が馬場かと思われる。

このエリアは戦後米軍に接収された。1957年に米軍軍基地から返還され、整備が始まった。真駒内小学校は1961年開校、航空写真を見ると小学校は工事未完成のまま授業が始まっていたらしい。

西側の公園になっているエリアはまだ米軍が利用していた状態のままのようだ。

 

オリンピック後の1975~76年の地図では現在の区割りが完成し、光塩短大や真駒内緑町の五輪団地が建設されている。真駒内小学校は2012年に真駒内曙小学校と統合し真駒内公園小学校が別の地に開校。跡地は2017年から市立札幌みなみの杜高等支援学校に転用されている。

 

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公園は多くの樹木と広場で構成されている。

写真には写っていないが、遊具もそれなりに充実しているようだ。

 

 

 

2.種畜場家畜房跡

続いて真駒内めぐみ公園へ向かった。

 

 

ここにも種畜場の関連施設を記した標識が建てられている。

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この場所にあったのは家畜房。

標識にある札幌農学校に建設されたものは、国の重要文化財及び北海道遺産に認定された札幌農学校第二農場の一部として北大構内に現存。無料で見学することができる。

真駒内の方は残念ながら1901年に焼失。地図を見ても痕跡はない。

 

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現在は住宅街片隅の、程よい広さの公園に生まれ変わっている。

 

3.水車場跡

続いては真駒内曙公園。

 

前回の記事に載せた真駒内用水路が公園の中心を突っ切っている。

 

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縦長の公園で、用水路で東西に分かれている。

南側は遊具などが多く、賑やかなエリア。

北側は樹木が茂り、散歩コースと芝生がメイン。

 

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ここにあったのは水車場。

この真駒内曙地区は種畜場があった場所で真駒内開拓の発祥の地となっている。夜明けを表す曙を地名につけたらしい。

公園の少し西側には真駒内曙小・中学校が並んで立っていたが真駒内曙小は真駒内小と統合。校舎は引き続き利用しているが真駒内公園小学校に改称した。

札幌史跡探訪 ― 真駒内用水近辺 ―

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1.真駒内用水路 

真駒内公園からさらに南へ。

国道453号線から少し東へそれる。

 

 

ここには札幌市都市景観賞を受賞した真駒内用水の記念碑が設置されている。 

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説明板の文字はだいぶ薄れているが、お雇い外国人のエドウィン・ダンが建設を提唱したこと。現在も残っている区間や受賞の経緯などが刻まれている。

 

上流側。遊歩道は整備されているが水路はだいぶ草木が伸びて、自然に返ったような?

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下流側。こっちは両岸に遊歩道が整備。路面も綺麗で歩きやすそう。草木も適度な量。

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真駒内用水路についての案内板。

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当初は真駒内川から種畜場までの用水路であった。

後に平岸・白石地区の水田灌漑にも利用された。

真駒内用水路の出発点(真駒内川との分岐点)はこの辺り。

 

現在は緑地になっている場所だ。

ここから北へ下っていく。まずはエドウィン・ダン記念公園内を通り抜ける。

エドウィン・ダンと公園横にある記念館についてはこちら。

kamonji224.hatenablog.com

 

ここから国道453号線と並行して北、そして途中から北東へ進路を変える。

その辺りで現在の自衛隊駐屯地の敷地に入り、その後精進川と合流することになる。

現在も水路の痕跡を確認できるのはこの辺りまで。

 

今昔マップを見てみる。

1916年・35年の地図で種畜場付近から北西に進んでいるの何本かの線がおそらく用水路。その先で合流しているのが精進川と思われる。

 

現在の用水路跡と精進川の合流点はこの辺り。

 

澄川あじさい公園の辺りが合流地点。

そしてグーグルマップを見ると公園から気になる緑の線が北へ向かって伸びている。

特に遊歩道が整備されているわけではないが、おそらくこれが埋め立てられた平岸用水の痕跡。ここから天神山を通って現在の平岸街道に流れ込みその先は道路の真ん中に堀割の形で水路が通っていたはずである。

 

再び今昔マップ。

真駒内用水と精進川は合流したのち入れ替わるような形で、精進川は豊平川に沿って北へ進み、用水路は天神山方面などいくつもの流路に分かれて平岸地方に水をもたらした。平岸街道の用水堀は1960年代前半に埋め立てられたので1950年頃の地図までが痕跡を探る最後の資料となる。

 

2.ラーセン農場 

 

現在も残る用水路跡を辿っていくと、少し大きな公園に出る。

道路を挟んで緑町公園と真駒内五輪記念公園という2つの公園が並んでいるのだが、その真駒内五輪記念公園の一角に案内板が建てられている。

 

ラーセン農場跡の案内板

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大正時代にやって来たデンマーク人のラーセン一家が居住していた農場跡。 

 

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木製の碑も建てられていたが、文字はかなり薄れてしまっている。

 

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大きな木に囲まれた広い公園。遊具などはあまりなく、芝生が広がっている。 

 

ラーセンがやって来たのはアメリカ式農業の行き詰まりを解消するため。

北海道各地で開拓が進むものの、アメリカとは土地の広さが違い、地味も場所によっては豊かとはいえない。北海道へやって来た移民たちには技術も乏しく全てを大規模農場にするのは無理があった。

 

そこで、ヨーロッパ式の家族単位で可能な小規模有畜農業が注目される。

エドウィン・ダンの農場で働いていた宇都宮仙太郎は、独立後にデンマークの農業を調査・研究し後の雪印乳業の源流を作った。

道庁もこの取り組みを評価しデンマークから5年契約でラーセン一家を招き、真駒内種畜場で酪農を営んでもらった。他にも道内各地に3軒の農家がやってきたようだ。

ヨーロッパ製の農機具を揃え、牧畜と堆肥を利用した畑作・輪作で自給自足にプラスアルファの商品作物を栽培する。ヨーロッパ風の農法及び生活スタイルは多くの開拓民に影響を与えたが、知事がかわったこともあってこの制度は5年で終わってしまったそうだ。

しかし、デンマークの農業はその後も北海道における農業の手本となり、酪農学園の建学にあたっても大きな影響を与えたそうだ。

 

北海道と西洋農業の関りについてはこのページも参考にしました。

kai-hokkaido.com

札幌史跡探訪 ― 真駒内公園 ―

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1.真駒内のポプラ並木

某月某日、この日も自転車に乗って札幌市内を探検。

今日のターゲットは南区の真駒内エリアだ。

 

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真駒内公園の東側を通る国道453号線

公園と歩道の境目にポプラ並木が植えられている。

 

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成り立ちは1916年当時この地にあった種畜場が牧場の区画に植えたものが起源。

種畜場についてはまた別の機会に調べようと思う。

 

位置はこの辺り。

 

 

ストリートビューではこんな感じ。

 

ポプラの木は見栄えが良いので、なんの変哲もない通りでも並木があるだけで絵になる風景へと様変わりする。晴天だとなおさらだ。

 

ポプラは特徴的な形や紅葉の様子から牧場の目印、防風林などにも使われてきた。

成長が早いこと、寒さに強いことに明治政府が注目し主に北海道や東北で植林が行われたようだ。

材質は白く柔らかくて燃えやすいため、マッチの軸木をはじめ多様な用材に使われてきた。しかし日本では病気や台風による被害を克服できず大規模植林は断念されたそうである。成長が早い代わりに老化も早いということで、内部に空洞ができやすいという弱点があるらしい。

 

2.真駒内公園

今回は通り過ぎただけだが、真駒内公園についても少し調べてみた。

 

オリンピック会場跡地に作られた広い公園。

 

今昔マップでも見てみよう。

1950年代の地図までは果樹園になっていた。もう少し北の平岸辺りと同様にりんごを栽培していたらしい。

公園内には明治後の農場開設に伴う伐採を逃れた、樹齢135年を超える木々が保存されている。

 

第二次大戦後は進駐軍に接収されゴルフ場にもなっていたようだ。

その後1967年に明治百年記念森林公園事業の一環で造成が始まる。

1972年の札幌オリンピックでの競技施設も並行して建設され、1975年一般開放された。

 

地図を見るとわかる通り、豊平川真駒内川の合流地点からやや上流に位置し真駒内川が公園を南北に貫くような地形になっている。

 

真駒内川右岸には屋内競技場が建設された。

オリンピックではアイスホッケー・フィギュアスケートに使用された当時としては日本最大規模の屋内スケート場で、多雪地域では国内初の大型ドーム建築となった。

現在は多目的ドームとして活用され、北海道拓殖銀行の解散が決まった最後の株主総会の会場にもなった。

 

真駒内川左岸には屋外競技場。オリンピックではスピードスケート競技が行われた。

現在は夏季にテニスやフットサルのコートとしても活用されている。

その屋外競技場から少し北にあるのが豊平川さけ科学館。

ここについては前に訪れた時の記事を参照。

kamonji224.hatenablog.com

 

 

 

札幌史跡探訪 ― 二十四軒 ―

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1.二十四軒公園

琴似神社を出て自宅へ戻る。

その前に1か所だけ最後に寄り道。

二十四軒公園へ立ち寄る。

 

 

野球場とその周囲に遊具がある広めの公園。

ここにある記念碑が目的。

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縦横2mほどの石と石板が並べて置かれている。

 

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だいぶ文字も薄れているが、白い文字で大きく百年記念碑と書かれている。

 

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碑文は近寄ってもほぼほぼ読めません。

ちょっと調べてみたところによると、昭和49年に琴似屯田兵入植百年記念で建立されたものとのこと。

 

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マンションなどの住宅街に囲まれた公園だが、敷地内は木も多く緑豊かな公園。

遊具も綺麗で新しそうだ。

 

2.二十四軒について

二十四軒のルーツは1871年に山鼻へ移住してきた人々にさかのぼる。

50戸の集落からなる辛未一ノ村と呼ばれたこの村は開拓使の意向で再移住することとなった。そのうちの24戸がやって来たのがここ二十四軒。つまり移住者の戸数がそのまま地名になったわけである。

 

 今昔マップより。

1916年の時点で琴似屯田兵村部は住宅が多く、その周囲が農地になっている。

その屯田兵村の東端の道が、現在の琴似と二十四軒の境目となっている。

1950年代までは住宅が点在している状態だが、1975年の地図になると途端に住宅街になっている。

 

1960年代の国土地理院地図の航空写真でもこんな感じ。 

 

北5条通り付近はそれなりに建物が建っているが、現在の地下鉄~JR付近はほぼ農地のようだ。

 

地下鉄が開業したのが1976年。その頃には二十四軒と琴似の間にも地下鉄に沿った道路が開通していた。その後1999年の宮の沢までの地下鉄延伸に伴って道路も延長、同年現在の二十四軒手稲通も全線開通した。

 

今では完全な住宅街の様相が強い二十四軒だが、特徴的な部分が幾つかあるのでちょっと調べてみた。

 

まずは札幌市農業協同組合本店。

住所はギリギリ中央区となる北10条西24丁目だが、最寄り駅は地下鉄二十四軒だ。

この位置にできたのは札幌市中央卸売市場に近いことが理由だろう。

 

次は北海道獣医師会館。

1927年に北海道獣医師会が発足。

戦後公益法人となり、1978年に現在の会館が完成。

これも地下鉄開業の影響だろう。

 

上述の通り札幌市中央卸売市場に近いこともあって、特に二十四軒1条の環状通沿線などには食品・水産加工場や倉庫なども並んでいる。

 

かつてはJR沿線も工場や倉庫などが多かったようだが、現在は商業施設や雇用能力開発機構などに変容している。