地球絶景紀行 ― グレートジンバブエ ―

目次

 

1.グレート・ジンバブエ

今日は2012年10月19日放送の地球絶景紀行で紹介されたジンバブエについて調べてみた。

まずは古代遺跡のグレート・ジンバブエへ。

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ジンバブエとはそもそも石の家という意味。

グレート・ジンバブエがあるのは首都サハレの南方にあるジンバブエ高原。

サビ川の上流部分に位置する。

ジンバブエで最も高名で大規模な石造りの建築のこの遺跡に「グレート」をつけるのが慣例となっている。

 

遺跡を築いたとされるショナ族の国家の通名としてもグレート・ジンバブエが用いられている。この辺りに人が住み始めたのは紀元前2500年頃。

リンポポ川流域で金の中継貿易で栄えたと考えられている。しかし旱魃によりイスラム商人たちは北にあるサビ川流域の交易ルートを開発。

金の産地とインド洋沿岸を結ぶ直線上に位置していたグレート・ジンバブエが大発展する要因となった。

9世紀ころから現在も残る遺跡の大部分が造られたと考えられている。

特に代表的なものは「アクロポリス」と呼ばれ東西のエンクロージャーに分かれている。

西側は直径30mの巨大な石壁と塔や石柱があり、政治の中心部かつ首長の権威を示すと思われる武具や金製品が出土している。

東側は内部に石のテラスが築かれ、祭祀や宗教に纏わる施設と考えられている。

特に鳥を象った像が特徴的で、天と地上を仲介できる使者として鳥を捉えていたと思われる。また政治の場と祭祀の場が隣同士の建物に位置することから、グレート・ジンバブエ祭政一致型の統治を行っていた可能性が高いようだ。

 

その他にも首長の家族が住んでいたと思われる谷の遺跡、用途に諸説あるグレートエンクロージャーなどが主な遺跡となっている。

また、遺跡からは北方のザンベジ川中流で使われていた十字型銅製品、西アフリカ産の鉄製品、中国の元・明代の陶磁器などが出土し、交易がいかに盛んであったかを物語っている。

 

しかし、人口増・農地や放牧地の拡大により周辺の森林の伐採が進むと土壌疲弊が起きる。またサビ川河口が土砂堆積でふさがり良港も失ったことでイスラム商人の交易ルートが徐々に変わっていく。

15~16世紀の何らかの天災がきっかけでグレート・ジンバブエは放棄され19世紀にヨーロッパ人に発見されるまでは静かな眠りにつくこととなった。

 

2.マトボ国立公園

花崗岩の丘と木々に覆われたマトボ地域はジンバブエ最古の国立公園。

サン族の岩窟絵が有名だが、様々な動物がすむ自然豊かな地としても知られる。

サファリツアーの目玉はサイ

象に次ぐ大型の哺乳類で鎧のような硬く分厚い皮膚と、角質化してできた角が特徴的な動物。アフリカにいるのはシロサイとクロサイ

インドや東南アジアにも3種が生息している。

かつて大型の哺乳類が登場し始めたころからサイの仲間は200を超える種に分かれて進化していったという。しかし人類の狩猟や地球環境の変化などで絶滅し、現在残っている5種も絶滅が危惧されている。

 

 

 

世界ふれあい街歩き ― マルセイユ ―

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1.マルセイユの概要

今日は2009年1月22日放送世界のふれあい街歩きで紹介されたフランスのマルセイユについて調べてみた。

wikipedia:マルセイユ

 

紀元前600年頃、古代ギリシア人の一民族であったポカイア人が開いた植民都市マッサリアマルセイユの起源。鉱物採掘が主であったが、後に交易の中継地として、さらにワインの産地としても繫栄する。

ポエニ戦争でローマに味方し、カルタゴと戦う。その後カエサルポンペイウスの戦いで敗れたポンペイウス側についたため、自治権限を縮小されローマ化が進んで行った。

地中海貿易の港町として栄えていく。10世紀にプロヴァンス伯の支配下となり15世紀後半にフランス王国に併合された。

18世紀、再び交易都市として発展するが1720年に大規模なペストの流行が起こり多くの死者が発生。

フランス革命時、マルセイユ義勇軍がパリ入場の際に口ずさんでいた歌がパリ市民の間で流行し、国歌『ラ・マルセイエーズ』となった。

19世紀には新しい港が建設され現在はフランス最大の港湾都市となった。

南フランスにおいては貿易のみならず商工業の中心地となっている。

 

ラ・マルセイエーズ

 

 

2.マルセイユの観光

現在の市街地は旧港付近に築かれている。

古い港町の姿をよく残し、魚市はいつも活気づいている。マリンレジャーの拠点にもなっており無数のヨットが停泊している。

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メインストリートであるラ・カヌビエールルイ14世の時代に造られた。

エレガントな建物が次々に建てられ、現代もホテルや飲食店などが多く観光の拠点となっている。

19世紀に建てられたマルセイユ大聖堂は海に面した遊歩道に聳え、ラテン十字がシンボルのローマ・ビザンチンスタイルが特徴的な建物だ。

一方、丘の上に建つノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院は巨大な聖母像と共に町中から眺めることができる空のシンボル。聖堂を囲むテラスからの眺望はフランス国内有数の絶景だ。

マルセイユで最も歴史の古いパニエ地区。曲がりくねった石畳の坂道が続く一角には、18世紀に貧困層の救済のために建てられた旧施療院が残っている。ドーム式の礼拝堂と3階建ての回廊が特徴だ。

 

マルセイユの沖合にあるイフ島に建てられた要塞、シャトーディフは16世紀に建設された。マルセイユがフランスの支配下となって間もなかったこともあり、市民を監視する目的もあったようだ。

後に犯罪者を収容する牢獄としても使われるようになる。

小説モンテ・クリスト伯巌窟王)の舞台となったのもこの場所だ。

 

 

隣にあるフリウル島は有名スポットはないものの、のんびりした離島の雰囲気を味わうことができるためあわせて立ち寄る人も多い。こちらは有人島で飲食店などはある。

 

市街南部にあるカランク国立公園は、石灰岩花崗岩の岩石に囲まれた美しい入江。

ビーチへたどり着くまでにはそれなりの距離をハイキングしなければいけないが、外国人観光客にはあまり知られていない隠れスポットとして人気のようだ。

 

上砂川町 ― 炭鉱の残照 ―

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1.上砂川町の概要

今日は上砂川町について調べてみた。

wikipedia:上砂川町

 

人口は約2700人。最盛期の1952年には3万を超える人口があったが、現在は一割以下となった。椴法華村函館市と合併したのちは北海道で一番面積の小さな自治体である。

 

町内を東西に流れるパンケ歌志内川の沢沿いに市街地が開かれている。パンケとは下手を意味するアイヌ語で、北方の歌志内市にはペンケ歌志内川が流れている。町は四方を山地に囲まれ、細長い集落が続いている。

 

2.上砂川町の歴史

1887年 パンケ歌志内川で坂市太郎、山内徳三郎らが石炭層を発見。

1895年 奈江村戸長役場が発足。

1896年 北海道炭礦鉄道により上砂川地区に初めての炭鉱が開坑。同年三井鉱山の炭田調査が開始。

1897年 福井県の鶉村出身者が初の入植。2年後に農場が開場。故郷の名を取って鶉農場と名付ける。

1903年 奈江村が砂川村と改称。

1914年 三井鉱山が鉱業所設立、大規模開発が開始。三井にとっては初の新山開発だったため準備は慎重に進められた。

三井鉱山の石炭は硫黄が少なく、高カロリーな炭質で多岐に渡って利用された。

当初は上砂川に市街地が少なく、砂川市街が商業の中心であった。

大正初期からは上砂川駅付近に商店街ができ始めるようになる。

 

1918年 三井鉱山が砂川~上砂川間に炭鉱専用鉄道敷設。後の上砂川駅が開業。

1926年 専用線国鉄編入函館本線上砂川支線となる。

1940年代には戦時需要で採炭量が増大していく。

 

戦後砂川市街地部分よりも上砂川地区の人口が多くなる。役場が遠く、さらにパンケ歌志内川の北側は歌志内町域であったため、分町運動が活発になっていく。

1948年 鶉臨時乗降場が開業。

1949年 砂川町・歌志内町から上砂川町が分離独立。

1953年 第一竪坑櫓が建設された。

1959年 下鶉、東鶉に臨時乗降場が開業。

1964年 日本初の水力採炭を一部運用開始。

1967年 中央竪坑櫓が建設。

1974年 露天掘り開始。

1984年 ドラマ『昨日、悲別で』のロケが上砂川駅で行われる。

 

1987年 鉄道による石炭輸送終了。

1988年 三井鉱山が閉山。

1991年 財団法人宇宙環境利用推進センターが竪坑櫓を無重力実験施設として利用開始。この施設はカントリーサインに採用された。

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落下実験で使われたカプセルと地球が描かれた壮大なカントリーサイン

 

1992年 上砂川支線の貨物列車運用廃止。

1994年 上砂川支線廃止。廃線後、上砂川駅舎は場所を移され、現在も悲別駅の看板を掲げて保存車両と共に保存されている。

 

2003年 地下無重力実験センターが利用率低迷により施設閉鎖。

第一竪坑櫓が撤去された。

 

カントリーサインも変更。

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町特産のしいたけのキャラクターが描かれている。

 

中央竪坑櫓は現存し、炭鉱館や悲別駅などと共に観光スポットとなっている。

 

 

空から日本を見てみよう ― 諏訪湖周辺 ―

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1.諏訪湖

今日は2015年7月28日放送の空から日本を見てみようで紹介された諏訪湖周辺について調べてみた。

まずは諏訪湖について。

wikipedia:諏訪湖

 

天竜川水系に属し中央高地の隆起活動と糸魚川-静岡構造線の断層活動によって生じた構造湖。約120万年前南のフィリピン海プレートからの圧力が高まる。北からのユーラシアプレートの圧力とぶつかり、裂け目ができたのがこの諏訪盆地というわけ。

古代にはこの諏訪盆地はほぼ湖となっていた。

流入河川からの土砂堆積や干拓・護岸工事により面積は徐々に縮小し現在の大きさとなっている。

冬季に全面氷結した湖面で見られるのが御神渡り(おみわたり)。

昼間に気温が上昇し緩んだ氷が、夜間凍結により面積を膨張させ行き場のなくなった部分が割れながらせり上っていく現象。その割れ目が湖の上を一本の線のように続き、神様の通った道のように見えたことから御神渡りという名がついた。

 

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2.諏訪市

次は諏訪市について。

wikipedia:諏訪市

人口は約4万8千人、諏訪盆地の中央部に位置する。

 

縄文時代の遺跡が点在。中世は諏訪氏がこの地を治め、江戸時代以降は高島藩の領地となった。

高島城関ケ原の戦いより少し前に諏訪湖畔に突き出た位置に建てられ、諏訪の浮き城と呼ばれた。江戸時代の干拓で浮き城の面影は失われるもその名は現在に引き継がれている。石垣と堀のみが残っていたが、現在は天守等が復元され公園として整備された。

周辺は城下町・上諏訪宿として甲州街道の宿場町となった。現在も街道ぞいには豊富な水を生かした醸造・酒蔵など往時の雰囲気が残っている。

 

日本最古の神社の一つとも言われる諏訪大社平安時代の歌謡集である梁塵秘抄にもその名が見える。四つの宮のうち諏訪市内には上社本宮が建てられた。

 

明治以後は製糸産業で賑わった。その後セイコーの腕時計をはじめとする精密機械業、そして現在はセイコーエプソンを代表とするハイテク産業が栄えている。

氏の北東部にある霧ケ峰高原高山植物と諏訪盆地・富士山を一望できる景観が人気。

3.下諏訪町

続いて下諏訪町

wikipedia:下諏訪町

人口はおよそ1万8千人。

町北東部の和田峠は、縄文時代全国でも数か所しかない黒曜石の産地であった。

 

この地域のシンボルである諏訪大社下社の春宮秋宮が位置する。

江戸時代初期の街道整備の際に、甲州街道中山道の分岐点である下諏訪宿が整備される。温泉が湧出し、難所が控えるため宿泊する旅人が多く賑わっていた。

明治維新後は製糸業が盛ん。その後は精密機械業が発展し、三協精機のオルゴール製造は一時生産高世界一となった。

 

4.岡谷市

最後は岡谷市

wikipedia:岡谷市

人口は4万7千人。県内では人口密度が最大の自治体。

 

縄文~奈良・平安時代にかけての古代遺跡がいくつか発見され、出土品は市立岡谷美術考古館に展示されている。顔面把手付深鉢形土器は完全な形に復元された希少な土器。

明治時代に片倉市助が始めた小さな製糸工場は、後に日本の製糸業の7割を手中に収める財閥片倉組となる。富岡製糸場筆頭株主にもなり施設の保存に努めた。

金融・化学など多くの業種に進出していたが戦後の財閥解体・企業統合などによって今は大企業の一部となったものが多い。

市立岡谷蚕糸博物館岡谷市と製糸業の発展の歩みを学ぶことができる。

 

31の河川が流入する諏訪湖だが、出口は天竜川のみ。

その唯一の流出口を管理するのが釜口水門

 

片倉組の施設であった鶴峯公園ツツジの名所となっている。

一般的に連想するイメージと比べてかなりモッコモッコとなっている。

 

 

地球絶景紀行 ― イエローストーン ―

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1.イエローストーンの概要

今日は2012年10月12日の地球絶景紀行で紹介されたアメリカのイエローストーン国立公園について調べてみた。

 

世界で最初の国立公園で北米最大の火山地帯。

210万年前、130万年前、64万年前に大規模な噴火を起こし巨大カルデラが形成された。

現在も地下20km~50kmの間に約4.6万立方キロメートルのマグマだまりがあるとされており、もし巨大噴火が起きると火山灰が地球上に飛び散り、エアロゾル効果でアメリカは完全に気候が変わる。地球全体でも平均気温が約10度下がるだろうと言われている。

 

似たようなホットスポットはハワイやアイスランドにもあるが、完全な陸地にあるのはイエローストーンのみという。

過去の巨大噴火の痕跡は浸食が進んでいることもあってあまり目立たない。

カルデラの大半が湖底に沈み、直径も72kmと巨大で人間の目では気づけないそうだ。

 

域内にある大峡谷からは黒曜石が出土し、インディアン達が利用していた。

白人がこの地域を発見したのは19世紀後半、探検後すぐに世界初の国立公園として認定された。

地球の原初の活動を見ることができ、観光施設としてもよく整備されていて家族連れからも絶大な人気を誇る施設である。

 

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2.イエローストーンの観光スポット

まずはイエローストーンの北の入口、ルーズベルトアーチ

1903年に建築された石造りの門

 

次はグランド・プリズマティック・スプリング

バクテリアの活動によって7色に分かれる泉。中心部は高温のためバクテリアも生息できず真っ青になっている。世界で3番目に大きい熱水泉で気温によって色が変わる。

 

ノリス・ガイザー・ベイスンは最も火山活動が活発で間欠泉・熱水泉・煮え立つ泥水泉などの密集地帯。

 

温泉水による石灰岩の浸食で棚田のような形状となったマンモス・ホットスプリング・テラスは白、桃色、黄土色と色を変え形を変えていく様子を遊歩道から眺めることができる。噴出物が堆積してタワーのようになった珍スポットも。

 

北米最大の山岳湖とも言われるイエローストーンレイク。そこから流れる川や滝によって形成されたのがグランドキャニオンオブイエローストーン。有名なグランドキャニオンとは別物だが、こちらも遊歩道からナイアガラの2倍の高さを誇る滝の壮観な様子を堪能できる。

 

イエローストーンの熱水泉は高温のため人間が入れるようなものはないが、唯一温泉と言えるのがボイリング・リバー・ホットスプリング

熱水の湧出でできた川と通常の冷たい川の合流部が適温になって、入浴可能なスポットとなっている。水着は着用。最もちょうどいい温度の場所を探すのはなかなか難しいようだ。

 

イエローストーンレイク西部にあるアッパー・ガイザー・ベイスンは間欠泉・熱水泉の密集地帯。

特に名高いのがオールドフェイスフル・ガイザー

国立公園選定時からほぼ一定の間隔で噴出し、高度も変わらないという貴重な間欠泉。

他の間欠泉と地下で繋がっていないことが一定の間隔を保っている理由のようだ。