札幌史跡探訪 ― 平和駅 ―

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1.平和駅

白石神社から北東へ。

JRにぶつかるとそこは千歳線平和駅

 

 

南口。長ーーい跨線橋が目立つ。

 

東側は貨物ターミナル。

 

上から見てみると線路が何本も伸びているのがわかる。これはターミナルの南半分。

 

300m近い人道跨線橋

 

跨線橋を渡って北側へ。橋上駅舎ではなく、跨線橋から降りたところに駅舎がある。


2.平和駅と近隣の沿革

駅ができたのは1986年。当初は臨時乗降場で旅客のみ扱い。

1987年JR発足時に駅に格上げ。

1998年駅舎新設、2005年柏山人道跨線橋が改築。

 

平和駅の名称は駅の南を通る平和通からつけられたと思われる。

人道跨線橋の「柏山」はこの辺りの古い地名。月寒川周辺の柏の木が群生していた丘からつけられたらしい。

 

今昔マップより

 

1916年・1935年の地図では函館本線が通っているが、駅の南側は何もなさそう。

原野のままだったのかもしれない。

駅の北側は北村農場から伊藤農場へ変わっている。

現在は住宅地。

今の平和駅付近は踏切があったようだ。

1960年代の白石神社区画整理事業で国道12号線国鉄の線路間に新たな道路ができ、周辺住民の希望で平和通という地名及び通り名がつけられたそう。

その前は本通地区の一部であった。

 

1970年代の地図では貨物ターミナルができており平和駅付近は工事中だろうか。

色別標高図を見てみると、月寒川の両岸は線路の南側まで台地上になっているのがわかる。この地形から柏山という地名がついたのだろう。

平和駅準工業地域に位置し、南側は大谷地流通センター。南北とも商業施設に隣接していない。

また、函館本線も駅の構内を通っているが、ホーム設置されていない。

平和駅はあくまでも千歳線オンリーの駅となっている。

 

3.札幌貨物ターミナル駅

平和駅の南口にあった貨物ヤードや膨大な数の線路は日本貨物鉄道の札幌貨物ターミナル駅

 

戦後、国鉄は札幌圏の貨物取扱を桑園駅苗穂駅東札幌駅に分散していたが、札幌市の急激な人口増加・貨物取扱量急増により、新規貨物駅による一括化を計画。

道央圏の生産・物流の円滑化を図っていた札幌市の流通センター計画とあわせてこの地に建設。

1968年新札幌駅として開業。

1973年千歳線新札幌駅開業もあって、札幌貨物ターミナル駅に改称。

1987年国鉄分割によりJR貨物の駅となる。

開業当初よりオイルターミナル営業所があったが、2014年の本輪西発送分をもって石油輸送列車運行を終了。

 

今昔マップより

1987年の写真では石油貯蔵タンクが見える。

2017年に営業を終了したそうだ。

 

跡地には鉄道×トラックの物流拠点であるDLP 札幌レールゲートを建設。

雪や雨など天候に関わらず作業ができる設備になっている。

 

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札幌史跡探訪 ― 白石神社 ―

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1.白石神社

白石藻岩通りを一直線に北へ向かう。

次に寄ったのは白石神社

 

 

ストリートビューでこの辺りを見てみよう。

 

南側からくると道路から下がる道に鳥居が見える。

 

ここを進んでみる。

 

道を下って行くと池があり、そこには縁結びの弁天神社。


赤い社と橋、樹々の新緑、紫の花とカラフルな神社。

池の周りを歩いてぐるりと回れるよう道がついていた。

この池は札幌の市街地に唯一残された湧水、アイヌ語で「メム」と呼ばれる貴重なものだそうだ。

地理院地図を見てみるとここが台地の縁かつ窪地になっているのがわかる。

 

なかなか珍しい場所なのでじっくり見て周り、その結果本殿に行くのを忘れる。

 

白石神社は1872年に札幌神社(後の北海道神宮)が創成川河畔から今の円山へ新築移転した際に、旧社殿をこの地に移築したもの。

以来、白石村の氏神として村を見守ってきた。 

 

2.白石村

境内には白石村の開基100年記念碑も建っている。

 

白石村は1871年仙台藩白石城主の片倉氏とその家中による開拓を発祥とする。

当初は望月寒村と称したが、働きぶりを認められ郷土より白石村と改称した。

開拓の始めは国道12号線沿い、白石公園付近から白石神社辺りまで。その後は豊平川沿いや今の厚別区方面へ開拓を進める。

1902年に二級町村の白石村が発足、1932年一級町村制施行。

1950年札幌市に合併し札幌市白石町・厚別町となった。

 

札幌史跡探訪 ― 白石あかつき公園 ―

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1.白石あかつき公園

地下鉄南郷13丁目駅より少し北にある白石あかつき公園へ到着。

 

 

 

野球場の周りを舗装された道が囲んでいる。

 

隅に黒い記念碑が建っている。

角度が悪くて写っていないが、吉田山第一地区土地区画整理記念碑とある。

 

裏側には区画整理のあゆみ。

1969年に組合を設立し、3年後に工事竣工となったようだ。

 

今昔マップを見ると、1916年の地図ではまだ自然のままと思われる月寒川の流路。

西へ蛇行している部分が今の白石あかつき公園や東白石小学校のあたり。

 

そして少し東側に現在の千歳線国道12号線の間に吉田山と書かれている。

地理院地図を見てみるとこの辺りが丘陵・台地になっているのがわかる。

 

おおよそ16丁目辺りから小高くなっている。

さらに東側はまた低地でそこは古くから大谷地と呼ばれていたところ。

 

現在の地図と1960年代の航空写真を比べてみる。

ラウネナイ川と合流した月寒川の両岸、今の南郷13~15丁目は一部畑地の原野になっている。ここを境に西側は宅地、東側はほとんどが農地だ。

 

1970年代の地理院地図と航空写真。

宅地化はかなり進み、月寒川も直線化している。

川を挟んで東白石小学校と東白石中学校も建てられた。

 

2.吉田善太郎

吉田山の所縁となったのは吉田善太郎という人物。

岩手より月寒へ移住してきた人々の中の一人で、「吉田用水の開削」「白石用水の開削」「月寒学校の創立」「大谷地簡易教育所の創立」「月寒歩兵第25聯(連)隊の誘致」「農商務省種蓄牧場(現在の農業研究センター)の誘致)」「日露戦争に際しては、多額の軍費を献納」などの功績を残した。

 

吉田山と名付けたのは歩兵第25連隊の連隊長だったそうだ。

地形図を作成していた陸軍に上申し記載されていたが、戦後住宅地となった時に地名としては地形図から消えた。

今は公園にその名を残している。

 

吉田山公園

 

 

吉田山2号公園

 

 

札幌史跡探訪 ― 大久保レンガ工場跡と月寒川 ―

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1.大久保レンガ工場跡

第25連隊関連施設跡に建設された道を東へ向かう。

白石藻岩通りにぶつかって北へ左折。

少し歩くと大久保レンガ工場跡の説明板が設置されている。

 

 

説明板は札幌東自動車学校の敷地片隅にあり、当時の面影は何もない。


大久保清吉氏が始めた1880年代に始めた煉瓦工場は札幌の煉瓦造りの先駆けとなり、戦後の1955年まで稼働していたという。その後月寒・白石地区にレンガ工場が次々とできていく。

説明板に書かれている道庁の赤レンガやサッポロビール工場以外にも、月寒小学校の旧正門、あやめの児童会館にある旧伊藤牧場サイロ、旧中井家リンゴ倉庫(現平岸天神太鼓道場)にこの工場で作られたレンガが残っているそうだ。

この辺りの地質は粘土質の火山灰で煉瓦を作るのに適していたそう。

1900年頃になると江別市の野幌で鉄道に関連してレンガ製造が始まり、北海道の煉瓦産業の中心になっていった。

 

2.月寒川

少し北へ進むと月寒川とぶつかる。

1940年代までは地名同様ツキサップと呼ばれていた。

陸軍が難読を避け、つきさむに改名。

 

橋の脇には水道管が通っている。

月寒川は西岡水源地から続いている川なのだ。

 

今昔マップより

 1970年代まではかなり蛇行しながら進んでいたことがわかる。

現在は直線化が進み、それに伴って川沿いの土地も区画整理が行われ、住宅街となっていった。

 

月寒川東部は向ヶ丘と書かれている。

正式な住所にはなっていないようだが東月寒向ヶ丘地区・向ヶ丘通りなどに今も使われている地名だ。

この辺りは八紘学園の所有していた土地。

月寒学院→北海道農業専門学校と名を変えて今も残っている。

産業共進会場は後の月寒グリーンドーム

天候に左右されない家畜の共進を目的として整備される。1986年に家畜の利用は終了したが、その後も札幌を代表するイベント施設として利用された。

老朽化のため2018年に解体される。

八紘学園を開設した栗林元二郎は、北海道の農業振興のためにこの月寒で広大な土地を購入し、教育に従事した。今も地図上で住宅街になっていないスペースは八紘学園の農地である。日ハムの新球場移転地候補になったり、何か大きな開発計画があると候補になる(狙われる)土地である。

 

3.あやめの中学校の遺跡の森

さらに北へ進むと学校の校門にこんな説明板があった。

 

月寒川とラウネナイ川の合流地点近くの台地上にあり、縄文時代の竪穴住居・墓・石器や土器が発見されたそうだ。

 

国土地理院地図より。川に挟まれた台地の突端部分にあるのがわかる。

 

水を確保しつつ、水害のリスクが低い地形。

戦国時代の城にもよく見られる立地だが、やはり使い勝手が良い場所なのだろう。

 

札幌史跡探訪 ― 歩兵第25連隊本部跡 ―

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1.歩兵第25連隊本部跡

某月某日この日はちょっと事情があって徒歩で札幌市内を探索(徘徊)。

最初の目的地は歩兵第25連隊本部跡。

 

 

かつて陸軍が駐屯していた月寒地区。その本部があった場所だ。

歩兵第25連隊が設置されたのは1900年月寒東1条3丁目から2条8丁目まで敷地があったという。

 

月寒東1条3丁目はこの辺り。

 

 

月寒東2条8丁目はここ。

 

 

月寒高校や月寒体育館、札幌開発建設部などはこの敷地跡に建てられたようだ。

 

 

今昔マップで見てみると

1916年の地図と比べてみると長方形の敷地がわかる。

当時は殆ど道路もなく、移転後もこの長方形の敷地内は外郭を生かした綺麗な区割がなされている。

 

1950年代初めから1970年代半ばの地図と航空写真。

 

1950年代初めはあまり戦前と変わっていない様子。

陸軍施設は米軍が接収したらしい。米軍が真駒内に移って行ったあとは海外引揚者の住宅としても使われたそうだ。

歩兵第25連隊本部跡の説明板からやや北にある豊原寺は樺太の豊原から引き揚げてきた住職が開いたお寺とのこと。

ストリートビューで本部跡前の通りを見てみよう。

 

国道から脇に入った道路幅の狭い通りだが、住宅街というより店舗が多い。

国道沿いには明治期から軍隊に需要のある店が徐々に増えていき、商店街が形成されたが、この辺りは引揚者住宅が利用する店や、後の時代に行政施設などが建設されてからの店が残っているようだ。

1950年代には練兵場跡に競輪場もできていたが、その後スケート場をへて今は体育館とカーリング場になっている。1960年代には現在の区割りがほぼできていたようだ。

 

ちなみにこの辺りに陸軍施設が置かれた理由の一つはその地形。

地理院地図より。

 

札幌市中心部より一段高い、月寒台地と呼ばれる高台にあったことがわかる。

軍の施設は水害を避け、地盤のよい高台に作られることが多かったそうだ。

この辺りは中世の城から変わらないのだろう。

また、この地の開拓に尽くした吉田善太郎氏から土地を提供されたことも理由の一つだったそうだ。

 

国道36号線の反対側にある月寒公園も軍の射撃場などに使われていた。

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2.歩兵第25連隊と北部軍司令部の沿革

歩兵第25連隊の成り立ちは1896年、屯田兵をベースに第7師団を創設したことに始まる。日露戦争以降の戦いに従事。

第7師団司令部は1901~02年に旭川へ移転していくが第25連隊は札幌近郊の担当となり、そのまま残る。

1939年には樺太混成旅団に編入、さらに第88師団所属となりそのまま終戦を迎えた。

 

北部軍司令部は日本各地を東西南北の4つに分け、その内の樺太・北海道・東北を所管した北部軍の司令部。ここで作戦・動員・経理などの権限を有し命令を伝達していたわけだ。