札幌市青少年科学館 ― まもなくリニューアルのため休館 ―

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1.札幌市青少年科学館

某月某日、家族で青少年科学館へ向かう。

リニューアルで8月後半よりしばらく休館になるとのことで、その前に行って見た。

 

開館は1981年。

1973年の新札幌駅開業を皮切りに開発が進められてきたこの地区。

1977年のサンピアザショッピングセンター、1982年のサンピアザ水族館会館開業などと同時期に開館したのがこの施設。

世界初の人工降雪装置の導入や低温展示室など寒冷地の特性を打ち出した展示内容となっている。

 

 

2.1階

入口そばにあるのはフーコーの振り子

振り子は一定の力を加えると、慣性の法則によって同一方向に振動を続ける。

しかし、地球は自転しているので振動面は回転しているようにみえる。

北極点では1日に360度回転、緯度が低くなるほど回転は遅くなる。

 

札幌では1日245°の回転。

つまり毎日振動面は変わり続ける。

一方で夜空の星はどの場所でも一日経つとほぼ元の位置に戻る。

この違いは何かといわれると自分には説明できない。

 

一階にはプラネタリウムもある。

札幌の季節毎の夜空や、子供向けのアニメ・惑星探査機はやぶさなど特別プログラムを上映している。

家族で入るも、癒し系の音楽とナレーションの穏やかな声ですっかり気持ちよく寝てしまった。

 

3.2階

2階へ上がる。

このフロアは北海道らしく雪や氷の展示が多い。

雪崩の仕組みや、自分で温度や気圧を設定していろいろな形の雪の結晶をつくる装置など自分で操作して楽しめる展示が多かった。

 

天文エリア。太陽系の惑星が空中に展示してある。

宇宙の誕生から太陽系の惑星の特徴、地球そして北海道の成り立ちが順に展示されている。科学館から宇宙や地球の裏側のブラジルまで行ける地球エレベーターがお勧め。

子供に人気なのは、向かい合わせに立てられて無限に反射された自分の姿を見ることのできる鏡。

地球の環境についての展示も広いスペースを確保。

二酸化炭素などによる地球温暖化の仕組みや、省エネ発電の技術などを紹介。

 

4.3階

3階は乗り物コーナーが充実。

札幌市営地下鉄は係員と一緒に運転操作体験ができる。

車体の前に置かれている車輪は本物。

実際に開店する様子が見える。世界で初めて本格的にゴムタイヤを使用したことで有名。

 

飛行機やヘリコプターの運転席も体験可能。

 

上の写真はDC6Bというプロペラ機の操縦室。

 

この他3階にあるのは、科学館の名誉館長である宇宙飛行士山崎直子さんが実際に宇宙へ行った時の様子を展示した模擬宇宙ステーション。

目の錯覚を利用して不思議な感覚になるななめの部屋。

自分で体験できる水力発電やてこの原理の装置。

 

コロナで展示中止のものも多いが、それでも全ては周り切れず。

リニューアル後には必ずこよう。リニューアル前にももう一回来るかもね。

札幌史跡探訪 ― 厚別駅 ―

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1.厚別駅

山本地区のメインストリートであった道を南へ進み、厚別駅に到着。

 

 

駅からまっすぐ北へ伸びる道だが、この道は古くからあった道ではない。

山本地区からまっすぐ伸びる道は駅から少し西側を通り線路を渡って白石区方面へつながっている。

 

今昔マップを見ると1950年代まで駅の北側は農地と線路沿いの住宅地

 

北側から見た駅。正確には西口であり、この部分は跨線橋の上にある橋上駅舎。

 

 

今回は電車の時間の都合で南口へ行かなかったが、ストリートビューで見てみるとこんな感じ。

 

こちら側は国鉄時代から残る駅本屋。

ちなみに駅正面の通りも古くからある駅前通りではない。

上の今昔マップを見るとわかるように、もう少し西側にある通りが古くからの駅前通りで、現在もれっきとした道道の325号厚別停車場線である。

厚別駅前から国道12号までの1kmに満たない道道だ。

 

現在の厚別駅付近はほとんどが住宅街だが、JAの施設があるのは歴史の古い駅である証左だろう。

ここから見えるのは青果物集荷所だが、JA厚別支店のほかに近年は野菜の直売所もできたそうで札幌圏の駅には珍しく、農業の色が濃い駅だ。

 

駅の自由通路から見える景色のほとんどはマンションと一軒家。

 

改札内にある跨線橋。これは昭和を感じる風合いと配色。札幌市内では珍しい。

 

2.厚別駅と近隣の沿革

厚別駅付近の開拓は1882年、長野県出身の河西由蔵を中心とする信濃(信州)開墾を祖とする。

厚別川流域を中心に開拓を続け、水田開発も早くから成功していたようだ。

 

一方で開拓初期は白石方面へのルートがなく、厚別川沿いしか道路がなかったらしい。

1889年、現在の国道12号線がようやく厚別まで開通。

官営幌内鉄道(後の北海道炭礦鉄道)は1882年に開業済みだったが厚別には駅はなかった。開拓が順調に進み人口も増えたことで、1894年に一般駅として厚別駅が設置される。厚別という地名がなじんで行くのは駅ができてからのことらしい。

 

1916年に日本麻糸厚別製線工場の開業,25年には酪聯厚別仮工場のバター出荷があり貨物取扱量が増大する。しかし26年にはその製線工場の閉鎖と酪聯の主力を苗穂に移転があり、取扱量は減少したままとなった。

 

戦時中には現在の新札幌駅付近に陸軍の弾薬庫が設置され、厚別駅から専用線が敷かれていた。

 

国土地理院の1948年航空写真

南へ分岐していく専用線がまだ残っている。

 

1973年貨物取扱廃止。

1978年駅舎改築、現在に至る。

 

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札幌史跡探訪 ― 山本稲荷神社 ―

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1.厚別川

厚別川を渡ると白石区から厚別区へ入る。

区名の由来にもなった厚別川

豊平川の最大の支流である。

 

上流方向を眺める。直線の流路に河川敷の遊歩道。

 

この先を遡っていくとJR付近で婉曲し、三里川との合流地点である。

 

 

2.外まわりふれあいロード

橋を渡ってすぐに北東へ向かう斜めの細い道を進む。

車道の間に歩行者用の並木道。

外まわりふれあいロードという名がつけられている。

 

 

 

この通りは高圧送電線の下地を整備したもの。

 

大きな鉄塔が見える。

ここは南札幌幹線という南札幌変電所~北江別変電所を結ぶ送電線の一部分。

この道に沿って北へ進むと山本稲荷神社の正面に出る。

最初は参道なのかと思ったが、そうではないようだ。

 

3.山本稲荷神社

というわけで神社へ拝観することに。

 

 

住宅街の一角に木の茂る空間が残されている。

明治末期に建立、「山本」とはこの付近の開拓の祖である山本久右衛門氏の名から取ったらしい。ここからさらに北へ行くと住所も山本である。

山本家は現在の青森県むつ市から蝦夷地へ進出した商家であった。

初代久右衛門は松前で米・味噌・塩を取り扱う商店を開く。

二代目は漁業へ進出し日本海の離島(天売・焼尻・利尻・礼文)に幾つもの漁場を持つようになった。

 

そして三代目が上記の久右衛門。彼は小樽へ進出し海運業を主とした。

小樽倉庫の社長、北日本汽船の設立にも関わった。

1909年私財を投じてこの地の開拓を図る。

 

 

今昔マップより

1935年の地図では神社の記号が記されている。まっすぐに進む一本道と周りに水田が広がっている。 

 

 

4.山本用水

 

境内には山本用水の記念碑が建っている。

変わった形の立派な記念碑だ。

 

隣には用水のあゆみ。

1919年に厚別川から水田・飲用のため取水を始めたのが用水の成り立ち。

終戦を待たずして山本九衛門の子息である山本厚三が低廉価格で小作人名義へ。

農地改革に先んじて小作人開放の端緒となった。

 

裏側には山本開基百年の碑文が記されている。

 

残されているのは用水についての記録であるが、開拓当初の苦難は排水。

ここも毎度おなじみ泥炭地で厚別区内でも最も開拓の遅かった場所、

1920年排水溝が掘削され、後に山本川となる。

山本稲荷が面している道路は排水溝と共に古くからある道。

暗渠が中央分離帯となっている。

 

ちなみに現在山本稲荷神社の住所は山本ではなく厚別西4条。

今昔マップを見ると1975年の地図では厚別西市街の外れに位置していたが、市街化が進み1990年代には住宅街に飲み込まれていた。

今は厚別西としてJR北側から住居表示されているが、開拓時は線路沿線と山本地区で発展の歩みは異なっていたようだ。

札幌史跡探訪 ― 北海道暗渠排水施設発祥の地 ―

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1.北海道暗渠排水施設発祥の地

北13条北郷通を東へ進み、厚別側沿いまでやって来た。

ここでちょっと南へ向かい、住宅街の中を進む。

 

目的はいつもの如く史跡の説明板。

ここにあるのは北海道暗渠排水施設発祥の地の説明板だ。

 

 

 

1893年長野県から入植した中澤八太郎氏は厚別川の水利と平らな土地に惹かれ、この地を水田開拓することに。これより前、北海道では大干ばつが発生し、湿地の水田化が進められていた。

しかし泥炭地故に水がどこまでも浸透し、身が埋まるほどの田んぼになってしまう。故郷にあった桑畑の水路にヒントを得て、あぜ道に沿って幅40cmの水路を掘削。2段階の深さの溝を掘り、1段目と2段目の間に板を敷く。板の上には草を敷いてから土を埋め戻す。

 

暗渠排水の構造

 

これにより、耕作の効率化さらには高品質化も進み収量も増加。

厚別川流域の広大な地域が水田となり、1932年白石村の一級町村施行時に白石村厚別川下と名付けられた。

やがて、この方式は全道へ普及していき、1941年6 月、北海道土工組合連合会から「暗渠排水発祥の地」と認定された。

 

今昔マップより

1950年代の地図では辺り一面水田。

1960年代の航空写真でも厚別川沿いに家屋が並ぶ以外は農地が広がっている。

1970年代の航空写真では線路北側は田んぼではなくなった模様。宅地工事中なのだろうか。さらに北へ行くと緑色の田んぼが広がっている。

この時に開発されたうちの一部は市営東川下団地として今もN棟・S棟が健在。

 

2.泥炭

北海道の開拓の歴史に大きな影響を及ぼした泥炭。

読んで字のごとく泥状の炭である。

見た目は何の変哲もない泥だが、可燃物。

主に気温の低い沼地で、植物の遺骸が完全に分解されないまま堆積し濃縮した状態。

 

泥炭で覆われた湿地を泥炭地といい、日本では北海道を中心とする北部に分布。

一方で熱帯にも泥炭は存在。高温多雨地域で地下水位の高い場所に有機物の遺骸が堆積してできる。東南アジアに多く見られ、膨大な温室効果ガスを蓄積している。

 

泥炭は可燃物ではあるが、含水量が多いため燃料としては質が低い。

第二次大戦末期の日本では貴重な燃料として使われた。

スコットランドではウイスキーの乾燥・香りづけに使われる。

ニッカウヰスキーが北海道に工場を置いたのも豊富な泥炭が一因であった。

腐植土・酸性の肥料としても使われる。

 

泥炭地は水分を多く含むためとても地盤が弱く、荷重や乾燥によって沈下したり崩れてしまう。また、その地によって構成している植物の種類も異なり性質は多様。

 

 

 

 

札幌史跡探訪 ― 北都団地と北白石川 ―

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1.北都団地

平和駅から北へ向かう。

北都公園で一休み。

 

地図にある通り、わりと敷地の広い公園。

 

 

遊具も充実している。

 

公園の一角に史跡の説明板が立てられている。

 

住所は白石区北郷だが、俗称として北都という地名があった。

今も学校や保育園、商店名に残っている。

 

この辺り、最初に開拓したのは北村農場、ついで伊藤農場が開拓を行っていた。

今昔マップより

1935年の地図には伊藤農場が確認できる。

この少し前から水田耕作が始まる。それ以前、公園付近は草刈り場と呼ばれる共有地であったようだ。

戦後農地解放により、独立した水田農家が北斗農事組合を設立。転じてこの地域を北都と呼ぶようになったそうな。

1950年頃後継者不足による離農が増える。農地転用によって不規則な私道や家屋が乱立し始めた。さらに上流の水田地が増えたことで灌漑用水も不足。

1963年水田耕作は廃止となった。同時に関係者の協議によって区画整理を決行。

4か年事業で北都団地を造成し、住所は北郷編入となった。

北海道で初めて農地を住宅地に転用した事業となり、住民も増加。

しかしちょうどこの頃札幌貨物ターミナル駅の建設などで踏切封鎖問題が起きる。

交渉の末跨線橋を建設、後に平和駅も設置され交通の便は改善された。

 

札幌市HPより区画整理の図

www.city.sapporo.jp

 

2.北白石川

さて、区画整理によってこの地域の住所表記は北郷と川下に分割された。

その境となったのが北白石川である。

といっても今の地図だと北白石川が表記されているのは北都幼稚園以北部分のみ、

実際に目にすることができるのも同じ位置だ。

上の札幌市の土地区画整理事業によると、北白石川ではなく、鉄北線沿排水と記されている。

 

同じく札幌市のHPの「川のすがた」によると

北白石川は豊平川や月寒川、厚別川の各堤防に囲まれた地域の内水排除を目的として整備された川とある。これらの川は融雪期や豪雨時には河川の水位が周辺地盤よりも上昇するため、北海道開発局で月寒、厚別、山本の各排水機場を建設し、札幌市はその導水河川として、米里川、北白石川、山本川の整備を行ったそうだ。

 

再び今昔マップを見てみよう。

 

北白石川の起点部分からまっすぐ南へ向かい、途中でS字気味にカーブしながら再び南へ向かう道。1960年代の航空写真で見ると、道と水路が並行に通っているのが見える。

 

北郷四条13丁目・14丁目と川下四条1~3丁目付近の少し歪な形はこの水路を境とした区画割の為に生まれたわけだ。

 

少し北へ進んで、川北一条3丁目の北白石川沿いから不思議な角度で分かれる道も水路の通りに道路を作ったためにできたというわけ。