東神楽町 ― 忠別川と旭川空港 ―

目次

旭川空港

1.東神楽町の沿革

今日は東神楽町について調べてみた。

wikipedia:東神楽町

 

人口は1万人弱。

石狩川の支流である忠別川の左岸に位置する丘陵地域。

町の総面積の半分以上が農地。

 

明治20年代になって上川地方への開拓が始まった。

当初は御料地で、上川離宮を建設する予定であったが計画は中止。

東を忠別農区、西を美瑛農区に二分する。

1892年東御料地の測量区画割開始で神楽村が設置された。

2年後和人・アイヌへの貸下げ開始。団体移住はなく、全て個人だった。

後年アイヌの人々は旭川市の近文へ移転していくことになる。

 

1900年美瑛村が分村。翌年神楽村・神居村の戸長役場が設置される。

1909年神楽村が二級町村制。神居村とは戸長時代から継続して組合役場を設置。

1925年神楽村と神居村が各々独立して村役場を設置。

東御料地の残りを東神楽として払い下げが行われた。

1929年神楽村が一級町村制施行。

神楽村はYの字を逆さにしたような形で東西に分かれ、連絡道路が整備されていなかった。開拓開始より50年が経過しようとしており、気風も全く異なっていた。

役場は西側にあったが、東西集落の中間は丘陵となっており、越えるのが一苦労であった。そんなことから分村運動が起こり、1943年になって東神楽村が発足。

1954年神楽村は町制施行。1968年旭川町に編入された。

一方東神楽村は農業の近代化によって、余剰労働力が市街地へ転入するようになり人口が増加していく。さらに旭川空港の建設によって産業構造が変化したこともあって町制を要望。1966年東神楽町が発足し現在に至る。

 

2.東神楽町の概要

東神楽町は開拓当初より断続的に水稲を試作してきた。

現在も米や野菜の生産が盛ん。忠別川上流は道内屈指の急流で、平坦部では洪水が多かった。数か所に渡船場が設置され、橋が架けられるまで重宝されていた。

開基より10年程で商店街が開業するも、この頃に鉄道が敷設され第7師団も移転してきて都市が形成された旭川市の商業圏となった。

大正期になると市街より上流にある志比内に駅逓が設置。小さな商店街もできる。

 

町制施行に前後して旭川空港の建設計画が持ち上がる。

旭川市は東神楽村に打診し、1962年から建設が始まる。

一方この頃から国内でジェット機の運航が進み、1974年には聖台へ移転も検討された。

最終的には滑走路拡張で対応し、1982年ジェット機運航が可能となり、新ターミナルビルも竣工。現在は万全の除雪体制で、豪雪地帯にありながら欠航が極めて少ない空港としても知られる。

 

東神楽町カントリーサイン

飛び立つジェット機レンゲツツジが描かれている。

 

 

空から日本を見てみよう ― 福島市 ―

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1.福島市の概要と沿革

今日は2015年10月27日放送の空から日本を見てみようで紹介された福島県福島市について調べてみた。

wikipedia:福島市

 

人口は約28万人。

奥羽山脈阿武隈高地に挟まれ、中心部は阿武隈川流域の盆地に位置する。

石器や縄文土器などが出土しており、古くから人々が居住していたようだ。

縄文中~後期の宮畑遺跡は時代の異なる3つのムラの跡が発掘されている。後期の集落跡からは関東地方によくみられる敷石住居も発見された。

弥生時代の遺跡からは水田跡や朝鮮半島製造と思われる勾玉が発見されており、広域交流が行われていたようだ。古墳時代には大和朝廷の影響下にあったとされている。

平安時代後期には奥州藤原氏支配下となる。中世には伊達氏、そして豊臣政権では蒲生氏郷の家臣であった木村吉清が居城を杉目城に移し福島城に改称。

江戸時代には幕府の直轄領を経て譜代大名の板倉家が治める福島藩となった。

戊辰戦争に敗れ、福島藩は消滅。城跡は現在の杉妻町全域・舟場町の大半となった。

県庁など公共機関やビルが建ちならび、庭園は紅葉山公園となった。

土塁や堀跡で辛うじて城の痕跡を目にすることができるようになっている。

 

明治になり藩が廃止され県が設置。

現在の福島県奥羽山脈阿武隈山地で分断され、若松県・福島県・磐前県の3つに分けられた。これが現在も会津中通り浜通りの3つの地域に分かれるルーツとなった。江戸時代までは会津がこの地方の中心地であったが、戊辰戦争の遺恨があったのか会津でもなく、中通りの中心二本松でもなく県北端に近い福島が県庁所在地となって今に至っている。

 

2.福島市の特徴

福島は江戸時代に養蚕が盛んで、生糸の集散地でもあった。明治になると製糸業をきっかけに工業が発展していく。東北地方では最初の日銀支店が設立した。えさの桑の産地となった扇状地は果樹園に転換し、日本でも有数の桃や梨の産地となった。

 

西部の山地は磐梯朝日国立公園に含まれる。

吾妻連峰奥羽山脈最大の火山群。噴気活動も観測されている活火山だ。

最東端の吾妻小富士はすり鉢状の大きな河口を持ち、福島市側から見ると小さな富士山のように見える。

 

途中にある浄土平は火山灰が堆積した平原。水が溜まって湿原や原生林が点在している。アクセスも容易で山々に町の光を遮られているため天体観測にも好適。

 

南方の安達太良山は荒涼とした火山の景観と高山植物、温泉場が人気でトレッキング客も多い。

 

地球絶景紀行 ― グリーンランド ―

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1.グリーンランドの概要

今日は2013年2月8日放送の地球絶景紀行で紹介されたグリーンランドについて調べてみた。wikipedia:グリーンランド

 

全島の80%以上が氷床と万年雪に覆われる大半が北極圏の島。

かつてはデンマークの植民地だったが、現在はデンマーク王国を構成する自治区

世界最大の島で、大陸を含めても7番目の面積を持つ陸地。

地形はほぼ平坦だが、陸地が見えているのは沿岸部のみ。北部はもちろん北極圏に位置するが乾燥しているため雪が降らず、氷におおわれていない。

島の内陸部は氷河の重さで海面より300mも低い位置にある。

 

約4千年前にシベリアから移住してきた人々が、現在分かっている中で最も古く定住したとされる。その後アメリカ先住民、次いでヴァイキングがこの島に到来。

その後カラーリットと呼ばれるイヌイットの一部族がやってきた。

15世紀ころにヴァイキングの入植地はなくなり、西洋の歴史から姿を消す。

18世紀に再び欧州の植民地が作られ、20世紀初めにデンマーク支配下となった。

過去にアメリカが島全体の購入を検討したこともあったが、実現には至っていない。

 

冒険家の植村直己が北極圏1万2千キロを犬ぞりで横断した時は、このグリーンランドがスタート地点、ゴールはアラスカだった。

2.イルリサット

氷河で有名なイルリサットはグリーンランドで三番目に大きな町。

1日20~35mも流れる氷河でディスコ湾に注いでいる。速度が速いため氷河から海に分離する量が極めて多く、氷山で埋め尽くされたアイスフィヨルドとして名高い。

氷河によって削られ、複雑な海岸線になったフィヨルド観光はグリーンランドの中でも有名な観光地だ。

氷山は約2年かけて大西洋を南下していく。タイタニック号が激突したのもこの氷山の一つだった。

デンマーク人が入植した240年前に建てられたシオン教会。

木造で特徴的な外観が人気。町のシンボル的存在だ。

 

3.シオラパルク

グリーンランド最北の集落シオラパルクは世界最北の先住民集落でもある。

村の人口は100人未満。

捕鯨やアザラシ猟など狩猟で生計を立ててきたが、動物保護などの観点から現在は下火。人口もどんどん減少しているようだ。

観光も産業の一つ。植村直己をはじめとする日本人探検家もこの町で生活し、探検の拠点や犬ぞり・狩猟の訓練を行った。

 

グリーンランドの町並み。カラフルな家々が身を寄せあうように建っている。

 

 

 

 

世界ふれあい街歩き ― リュブリャナ ―

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1.リュブリャナの概要

今日は2009年7月9日放送の世界ふれあい街歩きで紹介されたスロベニアの首都リュブリャナについて調べてみた。

wikipedia:リュブリャナ

 

スロベニアの中央部に位置し、リュブリャニツァ川流域が町の中心部。

人口は30万人弱で国内では最大の都市。

元々は湿地帯で古代の高床住居が発掘されている。

ローマ、フン族などの到来を経てスラブ人が定住するようになる。

13世紀以降はオーストリア神聖ローマ帝国の傘下に入り、ルネサンス様式やバロック様式の町並みが築かれた。

第一次大戦終結後はユーゴスラビアの一員となる。

1991年独立。クロアチアボスニアセルビアとは異なり戦火にさらされることはあまりなかった。

過去の歴史においても戦争より地震・洪水による被害が大きかったようだ。

現在は製薬・石油化学・食品産業などの製造業や金融業、観光業が盛ん。

文化施設も充実しており、博物館や美術館・劇場が数多い。

 

2.リュブリャナの観光

主な観光地はリュブリャニツァ川に沿って位置している。

川と町を見下ろす高台には、12世紀にリュブリャナ城が築かれた。

城主は神聖ローマ帝国オーストリア王国の配下であったカルオニラ公。その領地はスロベニアの原形となった。

 

城から見下ろす町並み。


リュブリャニツァ川に架かる橋もスロベニアの重要な観光スポット。

竜の橋リュブリャナ最初の鉄筋コンクリート橋。4頭のドラゴンの彫刻で装飾されていることから、竜の橋と呼ばれるようになった。

 

 

三本橋を渡るとプレシェーレン広場

スロベニア国歌を作詞した詩人の名がつけられ、彼の銅像も建てられている。

伝統的な様式ながら、古さを感じない綺麗な建物が並ぶ。新市街と旧市街の境目とも言えるだろう。

 

 

広場に面するフランシスコ会の受胎告知教会は17世紀の建物。

ピンク色の外壁が印象的だが、バロック調のゴージャスな内装も要チェックだ。

 

もう一つ重要な教会建築が城のそばにある聖ニコラス大聖堂。

緑のドームと2本の塔が特徴。こちらもパイプオルガンなどバロック様式の内装も見逃せない。13世紀より幾度かの改築・建て直しを経て今に至る歴史の古い教会だ。

 

 

こちらの旧市街側には市民の台所である中央青果市場や市庁舎が建っている。

付近には城へのケーブルカーも運行中。

 

最後に紹介するのは肉屋の橋

戦後の都市計画をリードしてきた建築家プレチニックの構想を完成させたと言われる新しい橋。カップルがワイヤーに南京錠を掛けるのが流行りとなっている。

 

 

 

 

 

上川町 ― 大雪山と層雲峡 ―

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1.上川町の沿革

今日は上川町について調べてみた。

wikipedia:上川町

 

人口は約3千人。北見山地石狩山地大雪山連峰など山岳地域が大半を占める。

石狩川の最上流部にあたる。

幕末に松浦武四郎や松田市太郎が大雪山を探索、温泉を発見。

山岳地帯とあってなかなか開拓は進まず。明治20~30年代にかけて鉄道の調査・測量が入るようになった。

1891年越路、1892年中越に駅逓設置。

1895年越路に部落開基。福井や茨城からの移住者が主。

1897年愛別村発足、ルベシベ原野の開基。

天幕地区も開拓試みるも、最奥地かつ湿地の為断念。

天幕三次郎のみ居住し、鉄道敷設調査の田辺朔郎博士を手伝う。

1902年には北見峠に駅逓が設置された。

明治期には越路・ルベシベ(現中心部)・安足間に小さな市街ができた。

山村が多く、農地に適した土壌の石狩川流域には冷風が吹くため収穫量が上がりくかった。農業一本では難しく半農半林の家庭が多かったようだ。石狩川による流送が盛んだった。

 

大正に入り、鉄道開業に向けて工事が進む。

駅名について、ルベシベという地名は北見の留辺蘂と紛らわしく、漢字も難読になるため幾つかの案の中から上川に決定。

1923年石北線上川駅が開業。1924年愛別村から分村し、二級町村上川村が発足した。

駅前周辺も商業地として発展していく。

大正期には層雲峡温泉が事業化し、黒岳への登山道も開削された。

 

昭和に入り天幕駅・中越駅・上越駅が相次いで開業。

天幕駅付近には木工場建設。

中越駅は峠越えの為補助機関車の増結駅となり、停車時間が長くなる。駅前の商店が繁盛したそうだ。

上越駅は浮島峠方面への乗降客、山菜取りやスキー客など季節利用者もあった。

大雪山が国立公園登録され、上川駅の観光客乗降も増える。

 

1943年一・二級町村制が廃止。

上川村は指定村から1946年普通村になった制施行し上川町となる。

1960年代台風による風倒木処理に従事する人口が増える。

 

その後は過疎化が進む。現在は畜産・畑作が主産業で林業・観光業も行われている。

 

2.大雪山と層雲峡

標高2000m級の峰々で構成される大雪山連峰。

緯度が高いため、標高3000m超の日本アルプスと同じ気象条件となる。

永久凍土や周氷河地形が残り高山植物が豊富だ。

 

約3万8千年前の噴火で御鉢平カルデラが形成。

3万年前の噴火で堆積した溶結凝灰岩が台地を作る。

この台地が石狩川に侵食されてできたのが層雲峡だ。

火成岩が冷却により収縮することで規則的なひび割れができる(柱状節理)。

この柱状節理が両岸に並び峡谷美を堪能できるのが大函・小函の遊歩道。

石狩川沿いに24kmに及ぶ絶壁から流れ落ちる銀河の滝・流星の滝と並ぶ観光スポットである。

 

上川町のカントリーサイン大雪山連峰をバックに上川公園のエスポワールの鐘が描かれている。