道北をいっぱい巡った。 ― 音威子府駅 ―

目次

 

 

 

1.音威子府駅(おといねっぷえき)

咲来駅からまたまた国道40号線に戻り、天塩川そして宗谷本線と一緒に北へ進む。

森の中を抜けると音威子府村の市街地に到着。

国道から東側へ進む道に入って音威子府駅に到着。

 

 

 

駅舎はバスターミナルも兼ねている。

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山小屋風の建物。

かつて林業で栄えたこともデザインに影響しているかもしれない。

 

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跨線橋は相当古そう。

隣にある錆びたコンテナは現役だろうか。

 

駅前通りは辛うじてらしさを残しているよう。

 

 

2.北の大地の入場券

駅舎に入って見る。

駅内には有名な駅そば「常盤軒」があるが、コロナの影響でお休み中。

 

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木製の行先掲示板。

味があるねえ。

 

音威子府駅は宗谷本線では数少ない職員配置駅。

みどりの窓口で北の大地の入場券を購入する。

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風っこそうや号を収めたショット。

 

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なんと2枚編成。

もう一枚は音威子府村らしい風景を走る1両の列車。

駅スタンプはモノトーンの駅舎。

 

3.音威子府駅と近隣の歴史

1905年頃現在の音威子府村市街付近の開拓が始まるが、地味悪くなかなか進まなかった。しかし音威子府駅が1912年恩根内駅ー音威子府駅間開通に伴い一般駅として開業。そこから一挙に開けることとなる。

1914年に後の天北線となる音威子府駅ー小頓別駅が開通。

1922年には後の宗谷本線となる音威子府駅ー誉平駅が開通。

宗谷本線の開業が後になったのは、天塩川の舟運を利用できる環境があったため。

駅の荷捌場から天塩川の渡船・荷卸場までトロッコが引かれ、荷物を運んでいた。

 

宗谷本線開業後は日本海側とオホーツク海側の分岐点という交通の要衝となり、国鉄城下町として栄える。また林業も盛んで木材の出荷駅としてもにぎわっていた。主に小樽へ搬出していたようだ。

音威子府村は当初常盤村と名乗り、咲来駅近くに村役場が置かれていたが、音威子府市街の発展で1919年現在の位置に役場を移転。

1961年には村名も音威子府に変更となった。

 

国土地理院の1948年の航空写真

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幾つも側線を持つ広大な駅の敷地。

この頃は保線区・機関区分庫・検車派出所・通信工手・電灯検査手・車掌詰所・鉄道診療所・物資部など各部署が集中していた。鉄道官舎も多く建っている。

また天塩川に橋が架かっておらず、数か所に官設の渡し船が設置されていた。

 

1970年にチップ工場専用線、1971年にシェル石油油槽所専用線を敷設。

しかし1984年に貨物取扱廃止。

1989年には天北線廃線となる。

1990年に駅舎を改築。

 

週刊 JR全駅・全車両基地 2013年 10/13号 [分冊百科]

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以前の木造駅舎を見たい方はこの雑誌に小さな写真が載ってます。

白い壁でさほど大きな駅舎ではない様子。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

現在は草むらとなっている駅裏に車両整備用車庫。

かつては機関車庫や転車台もあったようだが既に撤去されている。

少し北へ進むと宗谷本線と天北線が分岐し、南側には石油タンクへの専用線が見える。

 

 

1965年ころまでは村の人口は4千人前後を推移していたが、1970年ころから急速に減り始める。国鉄華やかなりし頃は人口の3割を国鉄関係者とその家族が占めていたそうだ。駅舎少し南には国鉄官舎が並んでいたらしい。

しかし、合理化及び民営化、さらに天北線廃線などもあって駅業務の縮小と人員の異動が村の人口にも大きな影響を及ぼす。

2020年現在では700人強。その内約120人が村立北海道おといねっぷ美術工芸高等学校の学生である。

今もまだ特急列車の停まる駅ではあるが、北海道一小さな村と駅の行く末はどうなるのだろうか。

 

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