目次
1.神路駅跡
筬島地区から国道40号線に戻って蛇行する天塩川の渓谷を眺めながら車を走らせる。
この辺り、特に紅葉の時期などは宗谷本線車窓の目玉だそうだ。
そうこうしているうちに中川町に入る。
次の目的地は佐久駅だが、その手前に神路駅という駅があった。
神路駅は1922年に一般駅として開業。
周囲は北大演習林で、林業・農業・鉄道関係者などが居住。
元々対岸のホロモイという地区に農林業を営む定住者がいたが、鉄道の開通で駅付近へ集落が移ってきたようだ。
天塩川を渡るには舟しか手段がないという厳しい環境で、1963年念願の橋が架かったものの何と7か月後に強風で落橋するという悲劇が起きる。
その後程なくして全戸離村。無住の地区となる。
1974年に正式に貨物廃止、その後1977年に神路信号場となり85年には完全に廃止。
1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。
建物がはっきりと見え、周囲も集落や畑跡の開けた様子が伺える。
今やJR関係者以外には訪れることはほぼ不可能と思われる。
そんな場所を訪れたという(10~20年前の話だが)人がいるらしい。
さらに現役時代の映像がNHKアーカイブスにもアップされた模様
なつかし映像>なつかしの駅舎
神路駅さらには増毛駅や萱沼駅の映像もあった。
1947年の国土地理院地図の航空写真。
畑が広がっているのが見える。
今では列車で通り過ぎることしかできない場所。
かつてはここにも人々が懸命に暮らしていたのだ。
2.佐久駅
神路駅に想いを馳せながら車を進め、天塩川が直線的になってくる。
大きく北へ進路を変えて天塩川を渡ると佐久市街地と佐久駅に到着だ。
神路駅の廃止によって隣の筬島駅との距離は18kmにも及ぶ。
駅舎はふるさと伝承館という施設と一体になっている。
音威子府方面。
2面2線ホームの奥に草に茂ったもう一本線路が見える。
ホームは石積みのうえに舗装?
夏草があちらこちらから伸びている。
待合室には中川町及び佐久地区の郷土史に関わる展示があった。
壁には凛々しく木材を運ぶ馬橇の絵。
特にハッカの生産が盛んだった模様。説明文に記載のある板谷・大和地区は既に廃集落となったらしい。
この佐久駅は山間部と中川市街又は音威子府方面の分岐点となる交通の要衝であった。
貨物取扱も多かったのだろう。
ハッカについて。貴重な写真も展示されていた。
建替え前の旧駅舎の写真はこちら。
3.佐久駅と近隣の歴史
佐久地区の最初の入植は1903年。
最初の市街地は天塩川の対岸につくられた。1907年にアベシナイ駅逓が設置。
佐久駅は1922年音威子府駅ー誉平駅間開通に伴い一般駅として開業。
鉄道の開通に伴って市街地は駅前に移転となった。
前述のように戦前はハッカや木材の取り扱いで栄えたが1966年に松浦木工場が天塩川工業と合併し美深町へ転出。ハッカも外国産にとって代わられるようになり、1982年には貨物取扱廃止。
1990年駅舎改築。2000年特急列車の停車終了。
再び1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。
駅裏のストックヤードにはおそらく木材が積まれている。
貨物用側線も稼働中。
駅南の木工所は今も現役で稼働している模様。