空から日本を見てみよう ― 大阪市ベイエリア ―

目次

 

 

1.大阪市福島区

今日は2015年4月7日放送の空から日本を見てみようで紹介された大阪市ベイエリアについて調べてみた。

まずは福島区wikipedia:福島区

 

人口は約8万人。

淀川の河口に位置し、元々は土砂の堆積した三角州に数多くある島々であった。

その名残が福島や堂島といった地名になっている。

源平時代に源義経梶原景時が軍議を行ったとされる逆櫓の松跡碑が残っている。

その後野田城が築かれ、三好氏、浦上氏、本願寺などが拠点とした。資料はあまり残っておらず規模も不明である。城跡の碑だけが残っている。

 

江戸時代には河川整備などが行われる。この辺りは各藩の蔵屋敷が置かれ、市中に入ってこれない大型船から荷物を積みかえて運ぶ川船の拠点でもあった。

1835年、中津藩蔵屋敷福沢諭吉が誕生した。

明治期になると繊維業などの工場が多く建てられる。さらにその周囲は中小企業の控除となり、大開公園には現在のパナソニックを設立した松下幸之助の創業の地記念碑が建っている。

 

2.西区

次は西区。

wikipedia:大阪市西区

 

人口はおよそ10万5千人。

この辺りも淀川の中州であったが、その後土地改良が進む。藩屋敷や問屋街が主となり船運で栄えた。

明治時代には外国人居留地が川口に設置された。1881年には川口基督教教会が建てられ、後に有形文化財に登録される。対岸には大阪府庁舎・市庁舎も建てられていた。

やがて中華街もでき始めるが市場機能は大阪市中央卸売市場に移転統合、跡地は空襲の被害を受け、戦後、占領軍の飛行場となった。現在は靭公園となり市民の憩いの場である。公園の東出口には五代友厚の屋敷跡に建つ大阪科学技術館も建っている。 

 

区南部、尻無川と木津川の合流点近くには大阪ドームが建っている。

元々は大阪ガスの工場跡地。その昔は川とも芦原ともつかないような場所で、今も地盤は緩いそうだ。 

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幾つもの河川に囲まれた西区。

北にある安治川には此花区との間を結ぶ、日本初の沈埋トンネル安治川隧道」が1944年に建設された。

開通に伴って、渡し船が廃止。当初は自動車も通行可能でエレベータで上下移動をしていた。1963年安治川大橋の開通によって人と自転車専用のトンネルとなる。

 

3.西淀川区

次は西淀川区。人口は10万人弱。

wikipedia:西淀川区

 

この辺りも淀川が運ぶ河川の堆砂によってできた土地。周囲と同じく幾つもの島があった。江戸時代に農地化、明治期には工業地帯、さらに昭和初期には重工業地帯となる。

東淀川区西淀川区に至る地域は低湿地で水はけが悪く、1670年代に周囲の農民によって中島大水道という排水路が建設された。明治末期に新淀川が開削され役目を終える。

東淀川区には顕彰碑が建てられた。

 

現在は工場がほぼなくなり、住宅地化が進んでいる。江崎グリコの本社が目立つ。

 

4.此花区

続いて此花区

人口は約6万4千人。wikipedia:此花区

 

西側は大阪湾の埋め立て地で沖合には人口島の舞洲夢洲が浮かんでいる。

ここも淀川河口で中州が多く、廻船業を営む者が多かったが1683年安治川が開削されると港湾としての地位は低下。

明治期以降は重工業地帯となる。大正時代には当時東洋一とも謳われた春日発電所も建設され阪神工業地帯の中心となった。

近年は産業転換により空き地も多い。

日立造船住友金属の工場敷地を転換して作られたのがUSJだ。

 

5.港区

次は港区。wikipedia:港区

人口はおよそ8万人。

 

この辺りも元は淀川河口の三角州にあった無数の小島。

土地改良後新興市街地、工業地帯となる。空襲で最も大きな被害を受けたエリアでもあった。

現在は一時日本一低い山としても知られた天保山周辺に観光地が並ぶ。

天保山は江戸時代に安治川の浚渫の際に築かれた築山で、入港の目印でもあった。

安治川は旧淀川下流部分にあたる。治水や水運のために1684年、河村瑞賢が直線化を行いその際に安治川と命名した。

 

周囲の公園には日本最大規模の水槽を誇る水族館の海遊館や大阪文化館などがあり、少し南にある住友倉庫が大正年代に建設した築港赤レンガ倉庫も名所の一つだ。 

 

少し内陸へ向かうと安治川河口にアーチ型水門が見える。

海抜の低く高潮の被害を受けやすい大阪平野を守るため、主な河川の河口に水門が設けられた。そのうちの一つがこの安治川水門

船舶の航行が多かったため、日本では珍しいこのタイプの水門が建設された。

開閉の様子はこちら。

 

 

6.大正区

最後は大正区

人口は約6万2千人。wikipedia:大正区

 

区全体が運河に囲まれた島のような形になっている。

豊臣時代以前から利用されている木津川、その木津川と尻無川を結ぶ運河である岩崎運河は大正時代に開削された。尻無川は元々松島公園付近で木津川から分流していた。

尻無川上流部は水深が浅く船の航行に不向きだったため浚渫工事及び岩崎運河の開削が行われる。現在元の尻無川上流は埋め立てられたため、岩崎運河が尻無川上流の位置づけになっている。

 

河口には安治川水門と同じくアーチ型の尻無川水門が聳える。

 

昭和初期に造園された泉尾公園千島公園が名所。

また、逓信省が初めて設置した飛行場跡が木津川河口近くにある。