目次
1.開拓使本陣跡
まず訪れたのは開拓使の本陣跡にして後にクラーク博士の居住地となった場所。
本陣とは江戸時代以降に設置された身分の高い人が宿泊する場所。
この本州では参勤交代などの大名や旗本が宿泊していた本陣だが、ここ北海道の開拓使本陣は宿舎に使われていた模様。現在はビルやマンションが並び、片隅に上の案内板が建てられている。
開拓使が開庁したのは明治2年(1869年)。その3年後に竣工した建物ということとなる。案内板にあるホイラーはクラークの弟子であり、ともに来日。
クラークが1877年に北海道を去った後も1879年まで農学校の教頭を務めた。
札幌のシンボル兼がっかり名所ともいわれる時計台の建設を指導、北大博物館や気象台の原型をつくり、豊平橋の復旧架橋も担当するなど多方面に渡って活躍した人物である。
クラーク博士は北海道開拓の父として名高いが、在任していたのは僅か8か月。
実務的なことよりも基礎科学と道徳教育を伝道し、後の礎を築いた後は若者に託し日本を去っていったのである。
2.大友亀太郎像
遊歩道に建てられたある銅像と説明文。
大友亀太郎。現在の創成川の前身である大友堀を開削した人物である。
二宮尊徳に学び、江戸時代末期に渡道。
1866年札幌へ移り現在の東区、伏籠川上流部分の原生林を開拓。
この際に用排水路として築かれたのが前述の大友堀である。
開拓された地は札幌元村となり後に札幌市と合併する。
大友亀太郎は明治維新後間もなく故郷へ帰るが、彼の役宅は後に札幌村郷土記念館となった。
3.創成川近隣の歴史
亀太郎像のすぐそばにはレンガ調の休憩所も建てられている。
近隣を撮影した写真と説明文のついたパネルも掲示されていた。
大友堀を活用することに定めたのは札幌市役所にも銅像のある島義勇。
彼もまた僅か1年ほどの在任期間で職を辞す。後に故郷の佐賀に帰り江藤新平らと佐賀の乱を起こして刑死する。
創成橋が先に完成し、それに合わせた川の名が大友堀から創成川に改められた。
創成橋は土木遺産にも認定されている。
残念ながらカードは配布終了。ただ、気軽に身に行ける土木遺産というのはなかなかないものです。
南一条交番について
上の写真の休憩所もイギリス積み仕様っぽい。
大正期は路面電車もまだ民営。
この路線は一条線と呼ばれ南一条西14丁目~南一条東2丁目までを結んでいた。
その後延伸・縮小を経て現在は西4丁目~医大前までの軌道が現役で残存している。
明治24年頃の周辺地図。今も名残を感じられるのは創成橋と時計台くらいかな。