札幌史跡探訪 ― 天神山界隈 ―

目次

  

1.ピラケシイ

引き続き平岸街道を南下中。

途中でちょっと脇にそれ、中の島通方面へ向かう。

目的地はここ。

 

 

公園の向かいにある一見普通のマンションだが、玄関近くに小さな説明板が設置されている。

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平岸の地名の由来について。豊平川に削られた崖のことを示していたようだ。

説明板にある北海道さけ・ますふ化場は現在水産総合研究センターと名を変えている。

 

 

 

2.天神山

再び平岸街道に戻って南下。

やがて重複していた国道453号と平岸街道が分岐する。

平岸街道側をほんの少し進んだ先にあるのが天神山だ。

 

標高89mの小さな山。豊平川による浸食の削り残しらしい。

一帯は緑地として保護されている。

 

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展望台からの眺め。満開の桜、町並み、遠くに見えるは三角山や手稲山方面か。

 

 

頂上付近には日本庭園が造園されている。

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水は流れていないが人工滝もあった。

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周辺はかつてリンゴ園に囲まれていた。

緑地内にはリンゴにまつわる記念碑が幾つか建てられている。

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戯曲「林檎園日記」の碑

 

続いて札幌平岸林檎園記念歌碑。

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石川啄木「石狩の都の外の君が家林檎の花の散りてやあらむ」

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意味はよくわかりません(笑)

啄木と平岸には直接かかわりはなかったよう。

 

歌碑の手前には平岸林檎の沿革についての記念碑が建てられている。

明治4年にこの地に入植し、明治5年から林檎の苗木を植え始め、明治14年には見事に収穫を果たす。海外に輸出を行うほどになるが、やがて時代の移り変わりとともに果樹園は姿を消し周囲は住宅街となった。

往時を忍びこの歌碑を建立した云々の文章が黒い御影石に刻まれていた。

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さらに平岸開基記念120周年記念植樹の碑。

平岸地区にとって天神山は自然と歴史を保存し続ける生き証人であった。

 

3.本願寺道路終点の碑

天神山の南隣、相馬神社と墓地の一角にも史跡の記念碑がぽつり。

 

本願寺道路とは現在の伊達市から札幌市までをつなぐ明治初期に築かれた道路。

徳川幕府と所縁の深かった東本願寺が明治政府に翻意はないことを示し、廃仏毀釈の逆風を防ぐために行ったとされる。

 

わずか1年強で中山峠越えを含む103kmの道のりを開削した。

その終点がここ平岸にあった。

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立派な石碑が建てられていた。

 

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1871年に完成するも、わずか2年後に苫小牧経由の札幌本道が開通。

山越えを含む本願寺道路は敬遠され、道は荒廃する。

 

1886年より再び北海道庁により重要視され、道路を整備。

後に国道230号線として北海道を代表する重要幹線の一つとなり現在に至る。