目次
1.南35条みゆき公園
藻岩橋を通って豊平川左岸へ渡る。
こちら側は住所表記が南〇条西〇丁目というスタイルになっている。
橋を渡って右手の公園へ向かう。
ここにあるのは明治大帝御巡幸の碑。
後から気づいたが、こちらがわは裏面のようだ。
札幌市のホームページによると1881年、明治天皇が真駒内の牧牛場を視察後に上山鼻渡船場に架けられた仮橋を渡り、現在の石山通を通って札幌へ向かった。
そのことを記念して、1936年当時の藻岩村が建立したものが後年現在地に移設された。
道路から見るとこのような姿。
明治大帝御巡幸の碑と刻まれている。
一見すると何の変哲もない公園。
記念碑は写真の左隅、公園の角に建てられている。
2.みゆき通り
上のストリートビューの画像にも映っているが、この通りは「みゆき通り」と名がついている。
石山通りから分かれ、むしろこちらが本通りのような線形でまっすぐ進み、藻岩橋対岸の真駒内通と直線で結べるようなルートの通り。商店も数多い。
この通り、上述の明治天皇が巡幸した際に使われるもその後は洪水などもあって近隣の整備はあまり進んでいなかったらしい。
1936年昭和天皇が来道した際、碑の建立と同時にこの通りをみゆき通りと名付け、街を整備し始めたようだ。
みゆきとは行幸と書き、天皇が外出することを表す。目的地が複数ある時は巡幸という。御幸と書く場合は天皇以外の上皇や法皇などに対しても使われる。
今昔マップより
1935年の地図では石山通りから分かれたみゆき通りは途中で道路から畑?果樹園?になっている。 馬頭という地名が記されているが、マイナーな地名らしくネット上には資料が殆ど転がっていなかった。
1950年になるとみゆき通りは豊平川まで到達し、この道路を基点にみゆき通りの東側で街づくりが始まったようだ。
一方で石山通り沿いも住宅が建ち始める。1975~76年の地図ではみゆき通り西側は石山通りを基点に建物が並び、みゆき通り側からすると斜めの区割りになっている。
もちろん、家を建ち続けるとどこかで調整しなくてはいけない。
というわけで南35条西10丁目2番地は札幌では少し珍しい三角形の区割になっている。
3.上山鼻と藻岩下
さて、ここからは地名の話。
上述したように明治天皇が巡幸の際に上山鼻渡船場を渡ったとある。
再び今昔マップ。
1935年の地図で豊平川から少し西に進むと上山鼻と記載がある。
渡船場があったのはこの文字から真っすぐ東へ進み豊平川にぶつかった辺り。
現在の地図を見るとこの辺り、山鼻川の上流部分にあたる。
山鼻村が開村したのが1874年、1906年には山鼻村と円山村が合併し藻岩村が設立。
区域は豊平川左岸にあたる部分であった。
その後円山町と改称し、1941年には札幌市と合併。
この時上山鼻は藻岩下に改称され、上山鼻を記す地名はなくなった。
1950年代の地図だと石山通りとみゆき通りの分岐点辺りに藻岩下と記されている。
ちなみに現在の藻岩下はこの辺り。
山鼻川の上流部分のみになってしまったが、これは1970年の新藻岩橋完成時に住居表示変更があったため。それまでは現在の南〇条西〇丁目表記の山鼻川以南も藻岩下だったようだ。すなわちそれは上山鼻地区であったのだろう。
現在上山鼻という名が残るのは小さな神社のみ。
4.藻岩橋と真駒内本町
明治時代の町並みからは変わってしまったところも多いが、新藻岩橋のできたところはかつての上山鼻渡船場付近。その前の藻岩橋は大正時代に現在の上の藻岩橋付近に架設されたもの。オリンピックの際に大規模な橋の架設が必要ということで新藻岩橋(現在の藻岩橋)ができたというわけ。
古い藻岩橋は改修を経て現在は徒歩と自転車のみ通行可能な上の藻岩橋になった。
これにあわせて真駒内側もメインルートが変遷しており、今昔マップを見るとその推移がよくわかる。
現在の真駒内本町の辺り。
この辺り、河川敷に近く2つの川の合流点のすぐ下流ということもあってか、水害もあったようで街づくりはあまり進んでいなかった様子。川の下流部ということで真駒内下町という名がついていたようだが、1961年住民の要望で真駒内本町に改称。
本町というとここが起点・あるいは中心地のようだが官庁街は地下鉄の駅近く、開拓の起点も南隣の真駒内曙と言えるのでなぜ当時本町という名になったのかはよくわからない。今も残る商店街がかなり賑わっていたのか、あるいは交通の要衝(真駒内の玄関口)であったからだろうか。