札幌史跡探訪 ― 島義勇と円山公園 ―

目次

  

1.島義勇の紀行碑

某月某日。この日は中央区にある円山公園へ行ってみる。

 

森に囲まれた広い公園。

動物園、野球場、北海道神宮など札幌を代表する名所も多い。

 

 まずやって来たのは原始林の中にある記念碑。

 

 

明治政府が北海道開拓の実務リーダーとして送り込んできた佐賀出身の島義勇(しま よしたけ)にゆかりの地として記念碑が建てられた。 

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幕末で北海道の人口・産業の中心は函館だったが、位置が南に偏りすぎているため北海道の中央部に新たな行政機関として開拓使本庁を設けることとなった。

その場所として選ばれた札幌には和人はほぼいなかったが、1869年に札幌にやって来た島義勇はここ円山にあったコタンベツの丘で原野を見下ろしながら街づくりの構想を練ったと言われる。

 

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島義勇の功績をたたえる巨大な紀功碑。

建立されたのは1929年。

題字は佐賀藩藩主の血筋をひく鍋島直映によるもの。 

 

 

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碑の建立に寄付した人々の芳名。記されている300人を含めて約3500人もの人々から寄付を受けたそうだ。 

 

 ちょっと場所が変わるが、銅像も建てられている。

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札幌入りの場面を模した銅像

これも結構大きな像である。

 

場所は紀功碑から少し離れた北海道神宮の境内にある。


 

 

2.島義勇の生涯

これほどフィーチャーされている島義勇だが、全国的には有名と言える人物ではないだろう。

1822年、佐賀城下で藩士の家に産まれる。

藩校である弘道館で学び、家督相続後諸国を遊学。

帰郷後、藩主鍋島直正に重用される。1856~57年にかけて蝦夷地・樺太を探検。

1868年には藩の海軍軍艦となり明治政府の東北地方征討に従う。

 

1869年蝦夷地が北海道と改称。鍋島直正開拓使となり、蝦夷地を探検した経験を持つ島義勇を開拓判官に抜擢。

原野の札幌を見た彼は世界一の都を造るという夢を持って、京都や故郷の佐賀のような碁盤の目を基準とした建設工事を始める。

しかし工事開始が冬場になったこともあって建設は捗らず。

さらに開拓使が旧主の鍋島直正から東久世通禧から変わる。

当初の予定より大幅に予算を超える工事が原因で島と東久世が対立。

また、場所請負制度の廃止を試みたことで江戸時代より漁場を運営していた商人達との利害とも衝突。

こうしたこともあって1870年1月、島は志半ばにして解任された。

東京に戻り、しばらくの間明治政府に従事するがやがて帰郷。

 

そして1874年江藤新平らが引き起こした佐賀の乱連座

戦いに敗れ、死刑となった。

 

島義勇が描いた北の都。彼の手で作り上げることはできなかったが、その計画は後任に引き継がれた。今では札幌市役所にも彼を称える銅像が設置されている。