空から日本を見てみよう ― 蓼科高原 ―

目次

 

 

1.原村

今日は2015年7月21日の空から日本を見てみようで紹介された長野県の蓼科高原周辺について調べてみた。

まずは原村。wikipedia:原村

 

人口は8千人弱。

明治22年の村成立より一度も合併をしていない。

標高1000m付近の高原地帯に位置し、高原野菜の栽培が盛ん。セロリとアネモネは日本一の生産量。

原村を含む八ヶ岳の西南部は尾根上の丘陵地帯が多く、縄文時代には規模の大きな集落が点在していた。原村にある阿久遺跡は10万個を超える石がドーナツ状に集まった環状列石で有名だ。

八ヶ岳連峰フォッサマグナの影響で噴出した火山が合体したものと考えられている。赤岳を主峰とし、八つの峯があるわけではなく多くの峯が連なっていることを示しているそうだ。南北30km、東西15kmに及び、原村には自然との触れ合いをテーマにした八ヶ岳自然文化園が整備された。

 

2.茅野市

続いては茅野市(ちのし)

wikipedia:茅野市

 

人口は5万5千人弱。

諏訪盆地の中央部に位置し、富士山に次ぐ広大な面積を持つ八ヶ岳連峰の裾野に住宅街や耕地が位置している。精密機械業と高原野菜の栽培を主とする農業が盛ん。

縄文時代より栄えており、100以上の住居跡や国宝である縄文のビーナス(雲母片が練りこまれており、完全な形で発見)が発掘された尖石遺跡には出土品を収蔵・展示する縄文考古館が建てられた。

 

遺跡の南にある大泉山は東に八ヶ岳、南に富士山を望むことのできるスポット。その眼下には多留姫の滝が見える。

現在の市街には東北の蝦夷征伐の軍団基地、朝廷の御用馬を供給する山鹿の牧が置かれるなど古代より重要な地であった。

やがて諏訪氏支配下になるが、戦国時代武田氏が上原城を拠点に支配下とする。

江戸時代には再び諏訪氏の領有となり、甲州街道の宿場町となった。

諏訪市の歴代墓所のある頼岳寺諏訪大社上社の神長官を務めた守矢氏の文書を保存展示している神長官守矢史料館など史跡が残っている。

 

氏の北東部にある蓼科湖は農業用水のため池かつレジャースポットとして整備された人造湖蓼科高原の入口部分にあたる。

f:id:kamonji224:20211212233549j:plain

蓼科湖から見た北横岳。

周囲にはレジャー施設のほかに杜鵑峡蓼科大滝などの名勝、ロープウェイに世界一高いところにある水族館などの見どころが並ぶ。

 

 

3.立科町

蓼科湖から北上して隣の立科町(たてしなまち)へ。

wikipedia:立科町

 

人口は約6500人。

茅野市との境にある白樺湖蓼科高原の観光地の一つ。

ここも農業用水のため池で世界の影絵・きり絵・ガラス・オルゴール美術館テディベア美術館などちょっと変わった観光スポットも特徴。

市街地は蓼科高原とはかなり離れた、八ヶ岳連峰の真北に位置する。

江戸時代には中山道の26番目の宿場町である芦田宿であり、生糸の生産が盛んだった。

 

現在は農業が盛ん。本来は蓼科町と称する予定であったが、蓼の字が当用漢字になかったため、古代の名称でもあった立科となった。

 

4.長和町

最後は長和町(ながわまち)

wikipedia:長和町

 

 

人口は5500人。

標高が高く周囲を山に囲まれており気候の変化が激しい。

林業が主産業。

 

町の南は古代より黒曜石が産出し、星糞峠には黒曜石の鉱山跡と思われる遺跡が史跡公園として整備されている。ブラタモリの諏訪の回でも登場した星糞とは黒曜石の方言/俗称らしい。

 

江戸時代には町の中心部に和田宿、その北側に長久保宿という宿場町があった。

和田宿は和田峠の入口で荷駄を運ぶ伝馬が多かった。

長久保宿は町の発展につれ、市街地がかぎ型に曲がっていった珍しい形。