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1.盛岡市の概要
今日は2015年9月1日放送の空から日本を見てみようで紹介された、岩手県の盛岡市について調べてみた。
岩手県の県庁所在地で人口は約28万人。
北上盆地の中央部に位置し、市内の中心は北上川と雫石川・中津川の合流点となっている。中心部からは岩手山をはじめとする奥羽山脈や北上高地の山並みを望む。
1万年以上前の遺跡が見つかっており、古来より人々の居住地であった事がわかっている。約5千年前の遺跡には河川を拠点とした集落の跡が認められ、岩手県では最大の規模である。
古墳時代以降は大和朝廷と蝦夷の境界近くであり、平安時代の初めには坂上田村麻呂が桓武天皇の命によって志波城を築いた。
その後水害によって機能を移転。昭和後期に自動車道路工事に伴う発掘調査で遺構を発見。現在は外郭南門と築地塀が復元された公園となっている。
その後は蝦夷のリーダーとなった安倍氏、そして奥州藤原氏がこの地の支配者となる。
中世、現在の盛岡中心部は不来方(こずかた)という地名であった。
室町時代以後は南部氏の支配地となり盛岡城が築かれた。盛岡という地名もこれに前後してつけられたと考えられている。
城と共に城下町も建設される。今も県内最大の用水堰である鹿妻穴堰が建設され、大規模な新田開発も行われた。
幕末戊辰戦争では幕府方に与したため、薩長側に支配される。盛岡城も廃城となった。
明治期までは盛岡~石巻をつなぐ北上川舟運が物流の最重要ルートであったが、鉄道が開通し経済界に多大な影響を与える。小岩井農場が設立されたのもこの頃だ。
その後も県都として発展、現在に至る。
2.盛岡市の観光地
盛岡城周辺は以前に訪れたことがあるので、こちらのブログからどうぞ。
歴史の古い街なので、寺社仏閣も観光地の一つ。
1680年建立の盛岡八幡宮や境内の五百羅漢が有名な報恩寺、中国風の山門が特徴的な大慈寺などが重要建造物として指定されている。
3.原敬
盛岡市由来の人物は数多いが、一人挙げるとすると総理大臣を務めた原敬。
新聞記者から政治の世界に入り、官僚として陸奥宗光や井上馨らに仕えた後自らも政治家に。
1914年には立憲政友会の総裁に就任。
1918年内閣総理大臣に指名される。爵位を固辞し続けたため平民宰相とあだ名された。
高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充を掲げる。
普通選挙法には時期尚早として慎重であり、政商や財閥向けの施策が多かった。
一方で藩閥政治を打破し、政党政治を実現した最大の功労者と言われる。
国際協調路線を徹底し、左右の急進派からは敵対視される。
政財界で疑獄事件が多かったが、本人の清廉潔白を疑う者はいなかった。彼の暗殺後軍部の抑えが効かなくなり、日本は戦争へ向かっていくこととなる。