目次
1.増毛町の概要
今日は増毛町(ましけちょう)について調べてみた。
人口は4千人弱。
日本海岸沿岸部に位置し、海と山に挟まれた険しい地形。
集落の大半は沿岸部に集中している。
別苅以西は極めて急峻な断崖が続き、国道231号線の開通までは交通集団が船のみの陸の孤島であった。
昭和30年代まではニシン漁で栄えた。漁獲量が激減後は近海漁業や水産加工が中心となっている。
2.増毛町の歴史
アイヌの人々が住んでいた増毛の地は1650年頃、現在の箸別に商い場が設置されていたらしい。正式な記録に地名が出てくるのは1706年。松前藩の家臣である下国家の知行地となり、1751年村山伝兵衛が増毛場所を請け負い、出張番屋が設けられた。
幕末期にはロシアの侵出に備え、秋田藩や津軽藩の侍が詰める元陣屋が置かれた。
簡素な建物は寒さを耐え難く、死者も続出したようだ。
現在元陣屋の建物が復元され、総合交流施設となっている。
明治になると交通の要衝となり港湾や鉄道の整備が進められていく。
明治初期の1877年には市街地が形成される。
秋田藩士の永住が由来となった永寿町、秋田藩主の名から取った稲葉町等現在の地名が誕生している。
これに先立って駅逓も設置される。市中心部の他にも北竜へ通じる道に仁奈良駅逓、増毛山道の道中にも武好駅逓が設置されていた。
増毛山道は江戸時代に石狩市の幌まで切り開かれた山中の道。幕府の命によって場所請負人の伊達家が自費で建設したそうだ。
大正末期には訪れる人も少なくなっていたそうで、いつしか廃道となっていたが近年この道を復活させようとするプロジェクトが少しずつ進行しているようだ。
1882年戸長役場設置。1893年増毛~留萌間の道路開削。
1897年増毛支庁設置。1900年一級町村制施行。
1907年増毛港湾の調査が行われたが、留萌との競争に敗れこの地域の主要港湾は留萌に決まった。増毛は自然港湾のままの構造となったが、風雨による災害で大正末期より防波堤の工事が始まった。
この頃までは日本海側北部の開発の拠点は増毛であったが、徐々に留萌の繁栄は増毛を凌ぐようになっていく。
1910年留萌本線の深川~留萌間が開通。
1914年増毛支庁から留萌支庁へ移転改称。
漁業は順調であったが、人口の増加と共に稲作を中心とする農業も広がり始める。
半農半漁が多くなった。また、開拓期の北海道では本州以南からの集団移住が人口増の一因となるケースが多かったが、増毛町域では集団移住はほぼ見られなかったようだ。
1950年代ニシンの不漁が続く。出稼ぎヤン衆で賑わっていた雄冬も過疎化が進む。
徒歩でしか通れない山道の他には、船以外の交通手段がなかった雄冬地区は長らく陸の孤島であった。
1958年から20年の歳月を経て増毛市街地との道路が開削される。
さらに数年後南の石狩・浜益方面の道路も開通。住民の悲願は達成されたが、今もなお集落は孤高のたたずまいを残している。
戦後になって果樹の栽培が盛んになった。
カントリーサインにはさくらんぼ、甘えび、暑寒連峰が描かれている。
最初に人気となった果物は林檎でニシンと共に鉄道貨物の主要搬出品であった。
3.増毛町の観光
明治~昭和にかけて繁栄していた当時の建物が多く残り、その街並みがそのまま観光スポットになっている。
呉服商や網元、酒造業など手広い経営を手掛けていた丸一本間家の建物は見学可能な資料館になっている。
そして明治期から今もなお続く北海道最古の造り酒屋である国稀酒造。上記の本間家の家業の一つであり、現在も日本最北の酒蔵として商品・店舗見学など絶大な人気を誇る増毛町随一の観光スポットだ。
2016年に廃線となった留萌~増毛間の終着駅であった増毛駅もリノベーションされ、古い記憶を残した観光スポットに生まれ変わっている。