国道275号線ドライブ ― 雨竜町と河川の歴史 ―

目次

 

1.尾白利加ダム関連

国道275号線をさらに北上、尾白利加川を渡って新十津川町から雨竜町にIN。

まずは町役場で尾白利加ダムのダムカードをいただく。

 

 

ダムとダムカードの様子はこちらから。

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カードをもらって町役場の裏口を出たところ、向いの雨竜土地改良区の駐車場に銅像が建っているのを見つけたので、ちょっと拝見。

佐々木市五郎さんの銅像

 

字が薄れているが、富山県に産まれ幼くして雨竜町に移住。開拓に貢献し、公職を歴任。尾白利加ダム堰堤事業の緒を開く。というようなことが記されていた。

町のホームページによると名誉町民になっているらしい。

 

隣にも大きな石碑が建っている。

時の道知事が書した「興農壮士」と刻まれた大きな碑。

 

左手には建碑の趣旨が記されている。

河川の恵みによる水稲農業を基幹としてきた雨竜町の農業近代化を図るため、尾白利加ダム建設・圃場の大型化・水利施設及び農道の整備を行い開発を行ったことを後世に伝える。ということだそうだ。

建設当時の尾白利加ダムは、低層よりも水温の高い表面から取水する設備を有していたがこの方式は道内初の試みだったそうだ。北海道開発局にとっても大きな仕事だったのだろう。

 

2.石狩川伏古船場

次は道道279号線を東へ向かって雨竜川近くまで行って見る。

橋の手前に小さな碑と説明板が立っている。

 

 

1889年に開業した伏古船場の記念碑。

 

船場の歴史。三条家・蜂須賀家など雨竜町の開拓に関わった華族の名前も出てくる。

開拓当時、石狩川の激流を耐えられるような橋など望むべくもない。渡し船しか選択肢はなかっただろう。ここを渡ると対岸にあるのは1889年開業の函館本線の江部乙駅。

当時鉄道は開拓の生命線であっただけに、ここへつながる渡し船はか細い命綱であっただろう。75年間重大な事故がなかったのは偉業と言っても過言ではない。

ちなみに、案内板には明治22年(1899年)とあるが、明治22年は1889年である。

 

なお、この伏古にはアイヌのコタンがあった。

明治の末頃にここから砂澤市太郎という人が旭川の近文へ転出していったが、彼の息子が芸術家砂澤ビッキである。

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3.尾白利加駅逓と波止場跡

再び国道275号線に戻って帰路に就く。

南へ進んで石狩川蛇行部とかなり近づいてきた辺りで停車。

ここも史跡の一つである。

 

 

まずは雨竜発祥の地の石碑。



尾白利加駅逓と波止場がここにあったことが説明されている。

 

月形町の樺戸集治監の囚人たちにより国道275号線の前身となる道路開削が進み、雨竜町の原野にも道ができる。その時に置かれたのが駅逓。旅人の宿泊や郵便・物資の輸送を行う業務を担った。開拓を司る役人や技師なども宿泊したため準公的機関のような存在であったようだ。

 

その駅逓が置かれ、後に江別から遡って来る船が着く波止場もこの地に設置された。

開拓にやって来た人々が初めて雨竜の地を踏んだのもこの場所ということで雨竜発祥の地という石碑が建てられたそうだ。

そんなこともあって雨竜町で最初に市街地ができたのはこの尾白利加地区であったようだ。しかし、開拓が北方へ進むにつれ江部乙駅に近い現在の市街地へ中心が移っていったようである。

今はその面影もなく、農家が点在する郊外になっている。