国道275号線ドライブ ― 樺戸集治監関連史跡 ―

目次

 

1.月形潔上陸の地碑

月形樺戸博物館を出てから、もう少し月形の町を巡る。

まずは東に向かって須部都川の河口近くの土手へ。

ここには二つの碑が立っていた。

まずは「月形潔上陸の地」碑

 

 

白い木柱が立っている。

 

月形潔は1847年福岡藩にて藩士の家に生を受ける。

成人後、明治政府に出仕。いくつかの官職を経て内務省に勤務。

時の内務卿である伊藤博文は北海道に重罪犯を送り込んで開拓に従事させる案を建議。

北海道開拓長官黒田清隆十勝川沿岸、石狩川須部都太、羊蹄山山麓を候補に挙げる。

 

1880年、月形潔は候補地調査の任務を帯びて数名の部下と共に渡道。一行は二手に分かれ、月形班は須部都太の調査にあたった。

札幌から豊平川を下り、江別で石狩川に合流。丸木舟で川をさかのぼり未開の原野であった須部都太(須部都川の河口部分)に到着。

 

当時の豊平川石狩川の合流点は現在の国道275号線が通っている辺り。

豊平川は流路変更し、石狩川との合流部分は豊平川と切り離され、世田豊平川という放水路になっている。

 

月形一行は須部都太を調査し、山と川に挟まれ囚人の脱走を防ぎやすいこと、集治監の建物建築に適したトドマツなどの大木が多いこと、そして地味が豊かなことなどを確かめた。

一方、羊蹄山麓・十勝川沿岸を調査した別動隊の結論は、羊蹄山麓は人家が近すぎ、十勝川沿岸は陸路が全くなく、遠浅の海が船に向かないとのことでどちらも不適。

かくして須部都太が候補地として決定。調査報告を受けた政府は同年から建設に着手。

その後の歴史は前回のブログで記した樺戸博物館に詳しく展示されている。

月形潔は集治監の初代典獄として活躍。没後、彼を称えて建立された碑には西郷従道が追悼文を記した。

 

2.監獄波止場跡の碑

月形潔が上陸したこの土手にはもう一つ碑が設置されている。

 

 

監獄波止場跡の碑

開拓当初のこの地は他の町に繋がる道路の全くない陸の孤島

人も物も物資の運搬は舟運に頼っていた。

現在は須部都川の河口近くだが、当時は蛇行する石狩川との合流部。

須部都太とはアイヌ語で須部都川の河口という意味の言葉に漢字をあてたもの。

集治監の目前にあるこの地に監獄波止場が建設され、トロッコのレールが敷かれた。

当初は丸木舟を利用していたが、やがて蒸気船が建造され石狩と月形を往復。

その後囚人たちによって道路が開削。鉄道も開通し月形と札幌・岩見沢方面をつなぐインフラが整うが、石狩川右岸北部は道路が未整備だったため舟運は昭和初期まで継続された。

 

3.円山

この日最後に訪れたのは樺戸博物館の背後にある円山。

 

 

山腹には集治監の囚人たちが植えた北限の杉林。

 

集治監10周年の取り組みとして杉が植えられ、その後も植林が続いた。

近年は野ネズミの食害があり、町で保護しているそうだ。

 

頂上には三日月形の展望台。

 

峰延道路と夕張岳方面。

道路開削時はこの円山と三笠市の達布山にかがり火をたいて位置関係を測定していたそうだ。

 

 

 

 

今は水田の広がる空知平野。

開拓の時代、政府要人も囚人も同じ景色を見たはずだが、その心の内は如何なるものだっただろうか。