苫小牧でサイクリング ― 勇払の歴史 ―

目次

 

1.勇払会所と松浦武四郎の足跡

勇払駅からさらに南へ進む。

勇払市街地の中心部に入り、東へ進むと勇払川の河口に出る。

そこからほんの少し西にかつての会所跡があった。

 

 

松前藩によってユウフツ場所が開かれたのち、この辺りは運上屋が置かれ松前藩出先機関が置かれていた。

北前船が立ち寄り、勇払越えと呼ばれる太平洋側と日本海側を結ぶ陸路の起点でもある交通の要衝になっていた。

ロシアからの防衛のため、勇払は幕府の直轄地となった。

このとき、運上屋は会所に改称し幕府の役人が常駐するようになったのだ。

立派な石碑が建てられていた。

 

幕末は鰯漁が盛んだった様子。

1804年、勇払川の東側にあった会所を現在石碑が建っている場所に移転。

会所の周囲には倉庫・大工や鍛冶の作業小屋・宿泊所などが並んでおり、集落の体を成していたようだ。

 

1821年に再び松前藩支配下となり、再び場所が設置される。

後年松浦武四郎もこの地を訪れている。

都合5回宿泊したとのこと。ここを起点に周辺を何度も旅していたのだろう。

その後再び江戸幕府の直轄地となり明治時代に至る。

明治の初めころに中心部は現在の苫小牧市街へ移り、勇払は小さな町になった。

 

場所は住宅街に囲まれた草地。石碑を挟んで二つの説明板が立っている。

 

道路沿いには市指定文化財の標柱。

 

 

 

 

2.勇武津資料館と八王子千人同心

ここから道道781号線を北上し沼ノ端方面へ戻る。

途中の勇払ふるさと公園で寄り道。

ここには勇払会所の建物を模して作られた勇武津資料館が建っている。

 

 

黒い屋根に緑がかった色の壁。

貫禄のある、立派な建物だ。

 

勇武津と勇払の違いはよくわからない。時代によって漢字が違っていたのか、あまりきちんと区別していなかったのか。

 

館内には当時の絵巻や残された資料が展示されている。

勇武津会所の配置図。

 

この建物の外には八王子千人同心の墓地がある。

ユウフツ場所が幕府の直轄となった時に蝦夷地防衛のために八王子から約100人の同心子弟が入植した。過酷な自然環境で開拓は上手くいかず、死者が続出。4年目には解散の運びとなった。

 

短い間であったが、後の世ではこれをきっかけとして八王子と勇払の間に交流があるらしい。八王子の織物業の紹介もされていた。

さらにこの日は、地元のサークルが作成した織物の展示も行われていた。

おかげで常設の展示はちょっと見えにくかったが(笑)

 

江戸幕府の函館奉行所は、勇払の開拓にあたり、藍の栽培を奨励したらしい。

そんな所以からか資料館の前でも藍を育てていた。