目次
1.いしかり砂丘の風資料館
石狩川から再び町の中心部へ戻る。
お祭りの中心地域でもあるこのエリア。
人が多く賑わっているが、そこをすり抜けるようにしてとある建物へ。
どことなく運上屋やニシン番屋をモデルにしたような、木造風の横長の建物。
ここはいしかり砂丘の風資料館という博物館。
早速中に入って見学をする。
周りはお祭りの屋台が並び、多くの人がいる。一方、建物の中はまばらに見学している人がいる程度。ゆっくりと見ることが可能だ。
2.一階フロア
石狩市にあった缶詰工場の看板。
元々は開拓使の事業の一環として始められた缶詰工場。
アメリカから製缶機や製造機械を導入した、日本で初めての本格的な缶詰工場として歴史に残る。
1877年に創業した開拓使石狩缶詰所は10年程の稼働を経て民間へ払い下げられる。
引き継いだ高橋儀兵衛時代に使用していたのが上の看板だ。
缶詰の材料となったサケ。
サケ漁は古代から石狩川及び支流で盛んに行われていた。
江戸時代には石狩十三場所として札幌、江別、夕張方面などにも交易地が設けられていた。
その場所を請け負っていたのが村山家。
村山家は元々現在の石川県出身。北前船を主とする廻船業で富を蓄え、場所運営を担うようになった。樺太探検なども任されるようになり、最盛期には東蝦夷地11か所、西蝦夷地7か所の場所を経営した。さらに松前藩が直接アイヌと交易する場所も実務を請け負った。
その後断続的に場所経営を行ったものの、明治初期に場所請負制度が廃止され村山家は一漁場の経営者となった。
続いてはとある施設のジオラマ。
これは石油の採油設備の模型。
かつて石狩には油田があったのだ。
石油を採掘していたのは山の中。
江戸時代に油田が発見された後、明治の後半から本格的採掘が始まる。
明治末年に権利を取得した日本石油は現在の手稲駅に隣接して製油所を建造。
油田から石狩川までパイプ輸送。石狩川からは艀を用いた石油を輸送した。
1929年が最盛期。その後は徐々に産出量が衰え1960年に油田の歴史が閉じた。
石狩油田の略史。最初の調査は江戸幕府役人である荒井金助によるものだった。
石狩川の両岸に町ができたのも荒井金助の計画によるものだった。
3.二階フロア
階段を上って2階へ進む。
2階は石狩紅葉山49号遺跡の紹介フロアになっている。
紅葉山も元々は砂丘。
石狩にはこの資料館のある石狩砂丘と、紅葉山砂丘の2つの細長く海岸に平行な砂丘がある。数千年前、海は現在より広く石狩湾はもっと陸地の奥にえぐれていた。
古石狩湾の様子。
色別標高図で見ると、現在も紅葉山付近は近隣よりも少し標高の高い丘陵になっているのがわかる。
縄文時代から擦文時代にかけてこの紅葉山に人々が住んでいた。
底で発掘されたのがサケ漁で使っていた柵。
柵が丸ごと発掘されるというのは大変珍しいそうだ。
この遺跡は湿地帯を含んでおり、そこから水漬け状態で発掘されたのが上記の柵(エリ)。低湿地遺跡自体が国内では極めて数が少ないらしい。
国内で発見された最古の漁労施設と見られている。
カメは何を思う?
展示も充実しているが、ホームページで積極的に情報公開も行っているこの施設。
過去に作成した資料(石狩ファイル)もPDFで閲覧できるようになっており、石狩市に興味のある人はぜひ読んでみよう。