目次
1.古潭漁港
国道231号線を北上し、望来を通り抜け古潭の集落までやって来た。
ここは漁港が整備されている。
釣り人の車がいっぱい。小さな漁船も停泊している。
高台から南側を見下ろしてみる。
消波ブロックの設置された辺りは海水浴もできそうな浜になっているが、その少し先は断崖。日本海の荒波に削り取られたのだろう。
この日も天気が良くて海は穏やかに見えるが、時折消波ブロックに波が激しくぶつかるのが見えた。実際には結構な激しさなのだろう。
北側を見てみるとこちらも崖の上に建物が建っている。
古潭は古潭川沿い・河口の平地に開けた集落である。
2.厚田村発祥の地と弁財船
江戸時代、古潭と北隣の押琴は厚田地区の漁業の中心地として栄えていた。
和人が暮らすのは漁期のみであったが、1858年からは通年で居住するようになる。
運上屋が設置され、天然の良港であった入江には弁財船が投錨するようになる。
明治初期には開拓使の厚田出張所が置かれた。
これをもって厚田村の発祥とし、漁港入口のその記念碑が建てられている。
隣には弁財船投錨地の碑。
弁財船は別名北前船で有名。
春から秋にかけて大阪を出港し、瀬戸内海から日本海を北上する弁財船は北海道と本州を結ぶ唯一の交通手段だった。交易だけではなく、物資の運搬・文化交流など北海道沿岸部の開拓に大いに貢献した。
1872年に創建された古潭八幡神社。階段を上ると港と集落を一望できる。
3.古潭のその後
1873年には駅逓設置、1880年厚田郡10村の戸長役場が設置される。
しかし、その2年後戸長役場は別苅に移転。
古潭は厚田郡の中心ではなくなった。
明治中期には農業者の移住が始まる。現在も国道231号線の東側、古潭川沿いは農地が広がっている。
明治20年代にはニシン漁が最盛期であった厚田村だが、明治30年代に入ると漁獲量は減少していく。漁場は樺太へと移っていった。
その後は漁業・農業を主とする小さな村として存続してきたが2005年に石狩市と合併。
明治期には人口500人以上を超えていた古潭地区も平成の終わりには50人を切る。
古潭小中学校も1990年に閉校。
校舎はまだ残っている。綺麗な状態なので何かに使っているのだろうか。
入口の脇には記念碑も建てられていた。
国土地理院地図による1970年代の航空写真。
まだ漁港は建設されていない。