目次
1.秦の時代
今日は2013年1月25日放送の地球絶景紀行で紹介された中国の万里の長城について調べてみた。
秦の始皇帝の時代、北方の異民族である匈奴の進撃を防ぐ為に築かれたとされる。
実際には秦の統一前、各国が防壁として築いた長城がすでにあった。
中でも北方の騎馬民族に備えるために北の国境に築いていたのが秦、趙、燕の3か国であった。
こうした長城を繋げ、一体化させたのが始皇帝であった。
東部では現在知られているものよりかなり北に、逆に西部ではかなり南に築かれた。
高さは約2mほどであったようだ。
2.前漢の時代
始皇帝の死後、長城は辛うじて維持、地域によっては半ば放棄されていたが武帝の時代になって匈奴に奪われていた土地を大きく取り戻す。
東部・中部の長城の再構築に努めるとともに西部では河西回廊ルートを守るための頂上を新たに建設。朝鮮半島から玉門籍まで約8000kmに及ぶ長大な長城ができあがった。
3.南北朝時代
漢の衰退ととも再び長城は放棄される。
後漢~三国~五胡十六国時代時代には維持する力がなく、北方の諸民族の進入を許していた。そんな中、鮮卑族が華北を統一し北魏を建国。さらに北方の突厥の南進を防ぐべく長城を築いた。東部では秦・漢の時代よりもかなり南に位置し北京の北側に建設。
現在の長城のベースとなっている。
その後、隋の時代でも新たな長城を建設。首都大興の防壁となった。
やがて唐・宋の代には再び放棄。宋を南方に追いやった金は界壕を堀り、その土で城壁を建築。しかしモンゴル軍には通じず。元は再び長城を放棄した。
4.明の時代
明の第三代皇帝永楽帝は首都を南京から北京へ移す。
北へ後退した元との対決姿勢が徐々に強まり、前線を北進させていった。
第五代皇帝宣徳帝の時代に前線を少し後退させ、長城による防御を重視するようになる。北京の守備を固める一方で長城全てを維持することは難しく、北方の諸民族の攻勢によって、東部は南下。現在の山海関まで至った。
明の後、清の時代になると長城は再び放棄され、残ったものが現在の万里の長城として知られる構造物になっている。
山岳地帯に連なる長城。秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原の地に長城を築いた。
現在一般にイメージされる長城は明の時代に築かれたものが多い。
古代の長城は土を用いた版築。乾燥地では日干し煉瓦も使われたらしい。
明の時代になるとレンガが安価となり、重要拠点はレンガ壁に改築された。