瀬棚線を目指す ― 花石駅跡 ―

目次

 

1.花石駅跡

比羅夫駅からはトイレ以外に寄り道せずに一気に今金町へ。

前回美利河駅まで訪れたので、次の駅であった花石駅跡から探検スタート。

 

 

花石駅は現在の国道230号線沿いにあったはずだが、

駅跡を示すような建築物は何もない。

草の刈られた不自然な形の敷地とバス待合所らしきプレハブの小屋。

 

国道から南へ向かう道道936号線方面にはいくつかの建物がある。

 

郵便局があったりしてやや駅前通りの雰囲気を残す。

瀬棚線転換バスの停留所も郵便局の付近にあったのだが、2024年1月から国道沿いへ移動した。町内のオンデマンドバスはこちらの停留所を使用しているのかもしれない。

 

国道北側は深い山地。

北隣の島牧村との境界付近は花崗岩質で、金を含んだ岩脈が多く、砂礫のたまりやすい川の屈曲部やカニカン岳では砂金採取が盛んにおこなわれた。

 

2.花石駅と近隣の歴史

江戸時代、17世紀には上述のように砂金採掘が行われていた記録が残る。

松前藩は後志川上流で組織的に採掘を行っていたようだが、シャクシャインの乱後に川を汚染しアイヌの生活を脅かす砂金採掘は廃止された。

それまでは「金堀」と呼ばれた技術者集団の記録もあり、かなり大規模に行われていたと思われている。

明治期になるとメノウ石が発見され、花石という地区名の語源になった。

それまでは後志利別川の支流である珍古辺川から「ちんこべ」とも呼ばれていたらしい。べはアイヌ語で川を表すときによく使われる。チンは皮を張るという意味があるそうだが、アイヌ語語源説と甚吾兵衛(ジンゴベエ)という人名が語源である説がある。

幕末に後志利別川を探査した松浦武四郎の記録では人名説が記載されている。

花石駅より南に進むと松浦武四郎踏査の地を記した碑も建てられているそうだ。

 

 

開拓当初、明治の中頃に瀬棚~国縫間の道路の掘削が試みられてから大正期までは珍古辺駅逓が設置されていた。

メノウの最盛期は明治30年代。当時産出量は日本の97%を占めたといわれる。

加工技術はなく、福井県若狭市に輸送されていた。宝石・彫刻品として広く流通したそうだ。

 

昭和に入り瀬棚線が開通。

1929年国縫~花石がまず開業。終着駅だった花石駅には転車台も置かれた。

メノウや農産物の出荷でにぎわう。

翌年花石~今金、さらに1932年に瀬棚~今金間が開業し全線開通。

 

花石駅は2面2線の列車交換可能なホーム構造。

1970年代の国土地理院地図の航空写真

 

花石駅跡の北側から隣の北住吉駅跡付近までの国道230号線は瀬棚線を転用したものであり、当時の主要道路は後志利別川に沿うように走る現在の道道936号線だった。

 

この後訪れた瀬棚町の郷土館に展示されている花石駅の写真

ホームはアスファルト舗装され、沿線内でも重要な駅だったと思われる。

 

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