目次
1.名古屋旅行
9月末、家族で名古屋へ旅行に行った。
子供の念願のジブリパークが目的である。
土日はとてもとても予約が取れず、平日を組み込んでやっとチケットを取得。
最近便数が増えたらしい丘珠~小牧線を利用して名古屋へ向かう。
子供の学校が終わってからの夕方便で出発。
乗り込むときはすでに真っ暗。
2.久屋大通とMIRAI TOWER
バスを降りて歩いてホテルへ向かう。
久屋大通を通るとライトアップされたMIRAI TOWERが見えた。
第二次大戦後、市街の防火対策として整備された。
整備の経緯、テレビ塔があるところなど札幌市の大通とよく似た歴史を持つ。
久屋という地名は、尾張藩初代藩主の徳川義直が末代まで繁栄するという願いを込めて命名された。
区画整理を経て現在は8丁目6番地のみが現存している。
MIRAI TOWERは1954年観光とテレビの電波塔として建設。
日本初の集約電波鉄塔で高さ157m。工事はほとんどが人力で行われたという。
(ちなみにさっぽろのテレビ塔は1957年竣工。高さは147m。)
2002年に日本のタワーで初めて登録有形文化財に認定された。
2011年アナログ放送終了とともに電波塔としての役目を終了。
2020年に大改修を行い、翌年MIRAI TOWERに改名。
飲食店のほかに4・5階はホテルとなるなど、現在も名古屋のランドマークとして健在だ。
3.堀川と福島正則
チェックインしてすぐに寝たものの、深夜に目が覚め眠れなくなってしまう。
しょうがないのでぶらぶら散歩することにした。
夜の名古屋を当てもなく歩いてみる。
ホテルが堀川に近かったのでまずは堀川沿いに南へ向かってみた。
1610年徳川家康は名古屋城を築城。あわせて新しい城下町も建設。
家康の命を受けた福島正則は城の内堀、そして資材運搬のための物流路として熱田湊まで繋がる堀川を掘削した。
納屋橋の欄干には福島正則の家紋が施され、関係の深さを記している。
同じ広場にある説明版。
江戸~明治にかけて堀川とその近辺は物流の要衝として栄えた。
江戸時代は木材の運搬が盛んで、木曽川から太平洋を経て堀川から名古屋に運ばれた木材を扱う倉庫や加工を行う木挽き職人が多く住んだ。
他にも食物など藩の倉庫が立ち並んでいた。
明治になっても輸出入品の積み下ろしが多く、T字型の掘割が掘削され戦後まで利用されていたそうだ。
国土地理院地図の1946年の航空写真。T字型の水路がくっきりと写っている。
堀川沿いをどんどん南へ進んでいく。
御船手役所跡。三河~尾張~伊勢~志摩に至る海岸の防衛を行っていた尾張藩海軍の本拠だった。
近隣には天王崎港跡と洲崎神社の境内。
堀川の掘削が開始された場所でもあるらしい。
洲や崎という字から、この辺りは元々入江や岬のような地形だったのだろう。
4.松重閘門と中川運河
ブラタモリでも紹介されていた松重閘門と中川運河までやってきた。
堀川は海の満ち引きの影響が大きく、潮が引くと水深が浅くなり大きな船は通れなかった。そこで1930年水深が一定の中川運河が開削される。
堀川と中川運河は水面の高さが異なるため、1932年に供用開始の松重閘門がパナマ運河と同じ方式で水位調節を行った。
2本の尖塔は、閘門を区切る鉄扉を動かす錘(おもり)を上下させるためのもの。
この反対側にも同じ構造物があり、片側ずつ鉄扉を開けることで、水位を調節して船が通行できるようにしていた。
水中に多数の木材が貯木されていた堀川よりも中川運河経由で遡上する方が時間が短縮できたらしく、船の渋滞が一気に解消された。
松重閘門の優美な姿は水上の貴婦人と呼ばれ名古屋名物にもなる。
しかし、自動車運搬が主流となった1968年に閉鎖。
取り壊しも検討されたが、住民運動もあり保存が決まる。
埋め戻された水路は公園となった。時々イベントも行われているようだ。