瀬棚線を目指す ― 真駒内ダム ―

瀬棚町の市街にはこれ以上寄り道せずに戻る。

国道229号線から道道783号線へ左折して山麓へ。

国道を一歩離れると、水田と森が混在する景色に変わり遠くに山並が見える。

 

 

坂道を登っていくと真駒内ダムに到着。

 

 

道路が天端になっているパターンのロックフィルダム

使用目的は農業用水。

 

管理棟駐車場に車を止めてダム湖を眺める。

濃い青のダム湖を緑の木々が囲む。
遠くには山々が見え、その上にはライトブルーの空が広がり、白い雲が浮かんでいる。

手前の長く伸びた草に隠れてしまっているが、横に伸びた洪水吐も見えている。

放流はしていないようだ。

 

管理棟からはロックフィル形式の堤体が良く見える。

 

取水塔。外側に降りる階段がついている。

奥に橋が見えるが、グーグルマップを見ると道はつながっていない・・・

 

国土地理院地図を見てみる

 

ダムの手前で細い道が分かれてつながっているようだ。

 

真駒内ダムの諸元。

堤高は34m。北海道開発局が管理。

 

ところで、真駒内(マコマナイ)という地名は札幌にもある。

アイヌ語のマクオマナイ(山の後ろの方にある川の意)に由来する同じ意味の地名だろう。札幌の場合は豊平川から見た真駒内川、せたな町の場合は後志利別川から見た真駒内川を表していたものと推測される。

 

この真駒内ダム、左岸にはキャンプ場も整備されている。

人家も近く、ダムより上流にも農場があったりして訪問しやすいダムだ。

ちなみに、ダムへ向かうこの道路は、道道345号矢淵東瀬棚停車場線という名がついている。

かつて北檜山駅が東瀬棚駅と名乗っていたころに命名された道路である。

瀬棚線を目指す ― せたな町生涯学習センター ―

目次

 

1.せたな町生涯学習センター

瀬棚線の駅跡を訪問完了。

しかしせっかく来たので、もう少し町内を回ってみよう。

郷土館を兼ねている生涯学習センターに行ってみる。

 

かつては学校の校舎だったそうで、現在は学童保育所や図書館にもなっている。

中も外も綺麗な建物で、スリッパに履き替えて館内を見学する仕組み。

お昼休みの時間帯があるので気を付けよう。

 

2.荻野吟子

瀬棚駅跡にも像が建てられていた荻野吟子氏。

ここにも一つの独立したコーナーとして資料が展示されている。

荻野吟子生誕の地は北海道ではないはずだが、何かの事情があったのか、石碑がここせたな町に保管されているらしい。

 

女医となったのは最初の夫に移された性病の治療経験から。

離婚して医学を勉強しようと志し、実際に優秀な成績を取って女人禁制だった医学校への入学を認めさせてしまうあたり、元々ある程度の学問を備えた人物だったのだろう。

 

実際に医院を開業、先駆者となった彼女に続いて多くの女性が女医を志望するようになったという。

イタリアで活躍した中田ヒデのような先駆者だね。

 

キリスト教に入信、そして北海道へ渡るなど波乱万丈な生涯を送った。

 

先人カードも配布中。

 

診療の恥ずかしさによる精神的苦痛だけでなく、病状の悪化までも招いてしまっているという悪循環を断ちきるという出発から、その後も常に利他の行動を歩んだ生涯だった。

 

3.瀬棚線関連

お次は瀬棚線関連。

さよなら列車のヘッドマークと妙に艶っぽい駅員のマネキン。

 

お座敷列車なんてのも走っていたそうだ。

 

瀬棚線の一日。起点よりも終点の瀬棚側の方が運行本数が多かった。

 

国鉄2万キロ走破キャンペーンのパネル。

 

全国どこを探しても見つからないと大見えを切るほど希少なパネルのようだが、こっそり保管している自治体はありませんか?

 

運賃表。神戸や広島まではいらないんじゃないかと思うが。

広島まで2万円弱で行けるんだね。

 

瀬棚線を走った車両たち。

SLだけでなくディーゼル機関車も活躍していた。

 

瀬棚駅のジオラマ。これと現役時代の駅舎の写真を見るためだけでも、この施設に来る価値はあるんじゃないかと思う。

 

正面から見てみる。今はなかなか見ることのできない風景である。

 

4.せたなの歴史

歴史関係コーナー。

縄文時代の遺跡から出土した土器。町内には約50か所も縄文時代の遺跡がある。

 

稲作に適さなかった北海道では弥生時代ではなく、続縄文時代と呼ばれる時期が続いた。この頃から金属器を使用するようになる。

 

擦文~アイヌ文化期

擦文は縄文同様に土器の特徴からつけられた名称。

擦って形を整えたという意味だ。

残念ながらチャシ跡はグーグルマップにも表示されず、簡単に行ける場所ではないようである。

 

コシャマインシャクシャインの乱が有名だが、せたな町域でもアイヌと和人の争いが勃発していた。

 

アイヌ民族の衣服と和人との和睦の経緯。

 

漁場の風景。

 

これは裕福な網元の家などで着られていたであろう打掛。

 

松浦武四郎もせたなを訪れていた。

 

最盛期のニシン漁の様子。

 

近代的な港ができるまでは袋澗が重要な港だった。

 

北海道と本州の輸送を担っていた弁財線の模型

 

 

 

 

瀬棚線を目指す ― 瀬棚駅跡 ―

目次

 

1.瀬棚駅跡

北檜山の市街を出て、次は旧瀬棚町の市街を目指す。

日本海はもうすぐ側である。

海岸に並行して北へ進む国道229号線を走り、市街地に入ったところですぐ左折。

現在は温泉や高齢者施設になっているエリアがかつての瀬棚駅跡だ。

 

 

 

真新しい駅名標のレプリカと本物のキロポストが、芝生の上に並んで立っている。

 

隣には瀬棚線の駅名が記された石碑。

瀬棚線の名残を示すものはこれくらい。

あとは広いスペースから類推できるかどうか。

背景のあちこちに風力発電の風車が見切れているのがせたな町らしい。

 

三角屋根の建物が連なっている高齢者施設。温泉も併設されているらしい。

この辺りは駅があった当時も建物が建っていた。

官舎その他鉄道関係の建物だったのだろう。

 

駅跡には鉄道関係以外にもう一つ、記念碑が建っている。

 

日本初の女医、荻野吟子氏の功績を称える顕彰碑だ。

今金町の開拓で夫とともに渡道。

現在のせたな区本庁に医院を開業。

経歴と記念公園整備の経緯が記されている。

 

新しい全身像もすぐ横に建っている。

 

女史に対応する男性用の表現はないらしいね。

 

35歳で医師となり、それから開拓のために渡道し医院を開業。

パワフルな人であったのだろうと思わされる遍歴だが、写真やこの像からはハイカラな格好ですらりとしたお嬢さんの印象。

根性と気品を合わせ持った人物だったのだろうか。

 

 

文字が見えにくいが、出身地である埼玉県知事と妻沼町長、かかわりの深い瀬棚町と今金町の町長が連名で名を記している。

埼玉県でもゆかりの偉人として、現在も功績を広めているようだ。

 

2.瀬棚駅と近隣の歴史

瀬棚町は江戸時代より、漁場や木材伐採などで和人の出入りがあった。

明治初期には三本杉に旅館ができ、国縫への道路も開通。

今金・北檜山なども開拓が進み人口が拡大していく。

 

明治の中頃から昭和の初めまではニシン漁が盛ん。

1932年瀬棚駅~今金駅が開通し瀬棚線が全線開業。

終着駅の瀬棚駅は鉄道設備も多く、広い構内を有した。

 

1966年には函館駅に直通する準急列車も運行開始。廃線まで形を変えながらも継続して運行した。

 

1970年代の国土地理院地図の航空写真

 

ホームは1面1線だが、副本線や側線が多く、北東部には転車台もあった。

 

現役時代の瀬棚駅舎。

 

昭和40年代の駅構内図。機関庫もあり、大きな駅であったことがわかる。

しかし、1983年に貨物取扱廃止。それからわずか4年後に廃線に伴い廃駅となった。

 

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瀬棚線を目指す ― みつわ食堂 ―

旧北檜山駅を鑑賞した後、昼をかなりまわっていたので、食事の時間とする。

ちょうど北檜山の市街地なので、徒歩圏内の飲食店を探してみたところ、みつわ食堂という老舗を見つけたので、入ってみる。

 

 

 

中に入ると、年配の店員さんがいる、いかにも昭和から続いていそうな食堂。

会議室にありそうなテーブルとパイプ椅子のコンビが並んでいる。

店の外にはせたなカレーの幟が立っていた。

町内でとれる食材を活用し、各飲食店がオリジナルカレーを作っているらしい。

おいしそうではあったが、何せこの日は好天高温。

カレーライスを選ぶにはあまりにも暑かったので、身体各所の妥協の結果、カレーチャーハンを食べることに決めた。

 

なかなかボリュームのあるチャーハン。紅ショウガも多め。

 

味噌汁も一緒についてくる。ネギとふのりが入った塩分強めの味噌汁だ。

 

カレーチャーハンはべちゃべちゃせずに、油で適度にコーティングされパラパラと粒だっている。

スパイスは強めで、結構辛い。暑い日だったこともあり、ポットに入った水を何杯もおかわり。お客さんは続々と入ってくるが、少ない店員が程よく回転させている。

 

隣の席に座ったバイク乗りおじさんの団体はカレーを頼む人が多かった。

そちらもかなりのボリュームがありそう。特にカツカレーは美味しそうだったが、おいしいカツカレーって大体お腹が痛くなるんだよな・・・

 

 

瀬棚線を目指す ― 北檜山駅跡 ―

目次

 

1.北檜山駅跡

丹羽地区の集落から水田の広がる国道230号線を西へ西へ進む。

程なくして右手が木々の茂る丘となり、その先が後志利別川真駒内川が合流する北檜山の市街地だ。

 

現在はせたな町の一部だが、かつては北檜山町という独立した自治体の中心地。

町役場は今も北檜山の市街地にある。

 

街の三差路が国道230号線の終点。ここから先は日本海側を南北に走る国道229号線だ。

少し進んで商店の並ぶ交差点を左折。

 

この先の突き当りが北檜山駅のあった場所。

周囲は駅前通りらしい雰囲気を残している。

 

北檜山駅は現在函館バスの北桧山ターミナルに変わった。

 

そして、この建物は国鉄北檜山駅を転用したことでも知られている。

瀬棚線で唯一駅舎が残っている場所なのだ。

 

昭和53年に赤い屋根の鉄筋コンクリートに改装。それから約10年で廃駅。

まだ新しい建物だったということもあり、そのままバスターミナルに転用されたのだろう。平成を過ぎて令和の時代まで現役で頑張ってきた建物だ。

中には入らなかったが、窓口や改札付近なども鉄道時代から使われているらしい。

 

駅の裏にはお決まりの農業倉庫。

 

駅の北西にある路地は繁華街らしく、小さな飲食店が並ぶ。

 

道には北檜山駅5号線と記された看板が建っている。

鉄道が通っていたことを知らない人が見れば疑問符だらけだろう。

 

2.北檜山駅と近隣の歴史

江戸~明治期にかけては港のある太櫓地区が交易・漁などこの地区の中心であり戸長役場も設置された。

やがて広い平坦地のある真駒内(現在の市街)、丹羽地区などで開拓が進む。

1902年東瀬棚村設置。4年後2級町村制施行。

1932年瀬棚線全線開通時に東瀬棚駅が開業。

太櫓・若松・久遠方面からの利用客も多かった。

 

せたな町生涯学習センターにあった東瀬棚駅時代の写真。

写真の下には日付らしき数字。39とあるのは昭和39年だろうか。

人の姿も洋装で戦後暫く経った頃と思われる。

1939年であれば、こんな写真は撮れないだろう。

後ろの建物が駅舎なのだろうか。ずいぶん小さな待合室か、あるいはホームにあった業務用の物置なのかもしれない。

 

戦後1953年に町制施行。2年後太櫓村と合併し北檜山町に改称する。

地元から町名と駅名を一致させるよう要望があり、1966年に北檜山駅に改称した。

 

こちらは現役時代の北檜山駅の写真。

今との違いは、出入口の上に駅名が掲示されていたことくらいか。

 

農産物だけではなく木材や石炭も出荷していたそうだ。

1983年、貨物取扱廃止。

1987年、瀬棚線の廃止に伴い廃駅となった。

 

1970年代の国土地理院地図の航空写真

 

駅の裏には今と同じく農業倉庫。

さらに、おそらく駅前にも倉庫らしき建物。

北西、少し離れたところには木材置き場も見える。

 

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