世界ふれあい街歩き ― リヨン ―

目次

 

1.リヨンの概要

今日は2009年7月23日放送の世界ふれあい街歩きで紹介されたフランスのリヨンについて調べてみた。wikipedia:リヨン

 

フランス第二の都市圏人口を誇る。

ローマ帝国時代より物資の集散地として栄え、中世にも欧州屈指の交易地として知られた。絹織物の産地であり、金融業も盛んで中世にはヨーロッパ各地の手形交換所であり、現在もフランスの銀行が数多く本店を置いている。

町の中心を流れるローヌ川は重要な幹線ルートだった。北イタリアとの結びつきが強く商人達との信用取引が金融業の発展へ繋がっていく。

19世紀にリヨン生まれの発明家ジョセフ・ジャカールが模様のパターンを記憶させる画期的な織機を発明したことで、絹織物業が発展。機械が大きかったため、職人たちは旧市街エリアからクロワ・ルッスの丘へ移転していった。

第二次世界大戦中はドイツに対するレジスタンス運動の拠点となる。

織物を雨から守るために作られたトラブールと呼ばれる細い屋根付きの通路をフル活用して地下新聞や活動資金を運んでいたようだ。

2.リヨンの観光

観光の中心はソーヌ川の西側にある石畳の旧市街。

 

旧市街の中心部はローヌ川とソーヌ川に挟まれたエリア。

さらにソーヌ川の西部は小高い丘のようになっていて、こちらも観光エリアだ。

代表的な建物は丘の上にあるノートルダム大聖堂

 

外観は装飾豊かで白く豪奢。中へ入ると青と金の迫力溢れる色遣いに圧倒される。

 

 

すぐ傍には2000年以上前に建てられた古代ローマ時代の劇場。

何と今でも現役でコンサートや演劇が上演されている。

 

 

川沿いには300年の歳月をかけて建てられたサン・ジャン大聖堂

ロマネスク様式とゴシック様式が融合した珍しい建物だ。

1600年に国王アンリ4世が結婚式を挙げた。

 

続いては旧市街中心部。

ヨーロッパでもっとも大きな広場の一つであるベルクール広場は中央にルイ14世の像、近くには星の王子さまサン=テグジュペリの像が建っている。

 

17世紀の修道院を利用したリヨン美術館ピカソ・モネ・ドガなどの作品を収蔵する。国内ではルーブル美術館に次ぐ規模で写真撮影も可能という嬉しいスポットだ。

美術館の建つテロ―広場は市庁舎やオペラ座などもあり、リヨンの中心地ともいえる場所。噴水はニューヨークにある自由の女神の作者であるフレデリク・パルトルディが製作した。

 

動物園も無料で入れるテッドール公園や繊維業の歴史を学び、豪華な織物展示を楽しめるリヨン織物装飾芸術博物館もリヨンを象徴する観光地だ。

 

 

上富良野町 ― フラワーランドと十勝岳 ―

目次

 

1.上富良野町の沿革

今日は上富良野町について調べてみた。

wikipedia:上富良野町

 

人口は約1万人。

三方を山地に囲まれ、南部は富良野盆地の北端。この辺りに市街地がある。

富良野川など河川が平行に流れており、溶結凝灰岩の火砕流台地が多い。

江戸時代までは石狩・上川・空知と十勝を結ぶアイヌの幹線道路が通ってろり、交易・狩猟の場であった。鮭は少なく定住はなかったようだ。

1891年明治政府によって殖民地が選定される。この時に初めて上富良野・中富良野・下富良野の地名が使用された。

 

数年後に鉄道敷設が決定、歌志内村に富良野村の戸長役場設置などインフラが整えられていく。1899年富良野村が上川支庁編入富良野村戸長役場を設置。

旭川富良野間の道路開削、三重団体や島津牧場の開墾、美瑛~上富良野駅間の開業及び国鉄十勝線着工などにわかに開拓が進んで行った。

 

1903年富良野村が分村。同時に富良野村は上富良野村に改称。

1906年上富良野村に二級町村制施行。

商品作物だけでなく稲作も始まる。牧場も多くなる。

木工場・馬具製造・石材採掘も盛んとなる。旭川市の第7師団移設工事などで大きな需要があった。

 

大正に入り1917年中富良野町が分村。その後も人口は順調に増加し1919年一級町村制施行。この頃十勝岳で硫黄採掘を行うが、1926年の噴火で壊滅してしまった。

 

1951年町制施行。

3年後に陸上自衛隊上富良野駐屯地を誘致。

近辺には多田分屯地もできた。

 

2.上富良野町の観光

誰もが知る観光名所となった富良野・美瑛地区。

そのエリアに属する上富良野町ももちろん観光名所が数多い。

 

やはり有名なのはラベンダー。栽培が始まったのは戦後間もない1948年。

カントリーサイン十勝岳にアカエゾマツと丘に広がるラベンダー畑。

 

美瑛との町境にある深山峠は十勝岳の展望、トリックアート美術館、観覧車までできてレジャースポットに。少し西へ行くと激しくアップダウンを繰り返すジェットコースターの道。

そこから南へ進むと色とりどりの花々が植えられたフラワーランドかみふらの。

ラクターバスに乗って市街地や十勝岳も広く見渡すことができる。

 

東側には十勝岳温泉郷

江戸時代より何度も噴火を繰り返しており、1923年には多くの死者を出した大規模な火災泥流・1962年にも死者を出す噴火が起こった。

そんな十勝岳の麓にある十勝岳温泉郷は北海道で最も標高の高い位置にある温泉郷

温泉宿は3つだけとこじんまりしているが、自然に近く登山などの拠点として利用する人も多い。

 

 

 

 

 

 

空から日本を見てみよう ― 千曲~長野 ―

目次

 

1.千曲市

今日は2015年11月3日放送の空から日本を見てみようで紹介された長野県の千曲市から長野市について調べてみた。

wikipedia:千曲市

 

千曲川中流に位置し、人口は6万人。

2003年に更埴市(こうしょくし)、上山田町戸倉町が合併して成立。

更埴市古墳時代に科野(後の信濃)国造が置かれた地とも言われ、森将軍塚古墳は東日本最大級の前方後円墳として知られる。古墳は復元されており、散策することが可能。

稲荷山宿善光寺街道最大の宿場町。江戸時代末期から明治時代にかけては生糸や絹織物の商取引が盛んで、北信濃一の商都になった。

鉄道開通後は駅から遠いこともあり、徐々に寂れていったがそれゆえに当時の町並みが残る。土蔵群や水路、街道が途中で折れ曲がった鍵の手など今でも歩くとすぐにわかりやすく、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 

 

 

 

日本一距離の長い信濃川。長野県では千曲川と呼ぶ。

山に囲まれているこの地域では傾斜があり農作業に苦労した。

そんな環境で発達した姨捨の棚田は市を代表する景勝地になっている。

棚田としては初めて国の名称に選ばれた。2千枚を超す水田が広がるダイナミックかつ情緒あふれる景観だ。

戸倉町と旧上山田町はあわせて戸倉上山田温泉の名で知られる。

荒砥城跡の山麓に温泉街が広がり、善行寺参りの精進落としの湯として賑わった。

 

2.長野市

続いては長野市

 

人口36万6千人の県庁所在地。wikipedia:長野市

善行寺平とも呼ばれる長野盆地に位置する。多くの河川が千曲川に流れ込み洪水の被害も多かった。

犀川千曲川に挟まれたデルタ地域は川中島と呼ばれ、武田信玄上杉謙信が5度に及ぶ合戦を繰り広げた川中島の戦いの舞台となった。

もっとも当時は今よりも川の流れが複雑で上田市新潟県境の間に点々と広がる島状の土地を総称して川中島と呼んでいた。

その中でも特に激戦で知られ、二人の一騎打ち伝説の残る第4次川中島合戦の舞台となったエリアが現在の川中島とされ、古戦場歴史公園かつ市立博物館が建てられている。

 

 

 

川中島の合戦後、武田方によって築かれた海津城は江戸時代にこの地域の中核となった。松代城と改称し、松平家・酒井家を経て真田家の居城となる。

しかし古くからいる商人たちは北の善光寺門前町から動かず、松代城下が商業の中心地になることはなかった。

明治維新後に廃城となった後は当主の真田家によって遊園地となり、戦後は市に寄贈。

公用地となって市の史跡となり整備される。

江戸時代の藩校が残っている。極めて稀であり大変貴重。

 

 

 

地球絶景紀行 ― デュルビュィ ―

目次

 

1.ワーテルロー

今日は2013年2月15日放送の地球絶景紀行で紹介されたベルギーについて調べてみた。まずはワーテルロー

首都ブリュッセルの南に位置し、ナポレオンの最後の戦いの場所として有名。

ロシア遠征の失敗後、弱体化したフランス軍はヨーロッパ各国の連合軍に敗れナポレオンはエルバ島へ流刑となる。

フランスはブルボン王朝が復活しルイ18世が即位するも民衆から人気はなかった。

一方ナポレオンはエルバ島を脱出し、再び軍を編成。パリへ帰還した。

イギリス・ロシア・オーストリアプロイセンは連合軍を結成。

ナポレオンはベルギーに駐在する英蘭連合軍とプロイセン軍をまず破り、加えてフランス語話者の多いベルギー南部を支配に置くつもりであった。

順調にプロイセン軍を破ったものの、ウェリントウ公率いる英蘭軍は戦闘に有利な高台に位置。さらに、雨の影響でフランスは大砲の運搬に手間取り効果的な攻撃ができない。さらにプロイセン軍が援軍を送り、フランス軍は総崩れとなった。

パリに帰還後議会はナポレオンに退位を迫った。フランスにいられなくなったナポレオンは宿敵イギリスに亡命、アメリカでの生活を願うも大西洋の孤島セントヘレナ島への流刑に処せられ、数年後51歳でこの世を去った。

 

イギリス軍の陣地はライオンの丘として整備された。

地形も変わりウェリントン公は嘆いていたという。

 

 

 

2.デュナン

続いてはデュナン。

サクソフォーン(サックス)の生まれた町。

楽器製作者でフルート・クラリネット奏者のアドルフ・サックスが設計した。

サックスは真鍮で作られている。通常の金管楽器はマウスピースで唇を振動させるが、サックスは木質のリードを振動させて音を出す。このため木管楽器に分類されている。

 

 

3.デュルビュイ

最後はデュルビュイ。

別名「世界で最も小さな町」

 

山間の森に囲まれた小さな田舎町はヨーロッパでも屈指の美しい町並みが人気の観光地だ。中世の風景がそのまま残っている貴重な場所である。

 

 

 

川沿いには小さなお城も建っている。

 

 

街はずれには大きな石灰岩の岩がある。

遠い昔には、このヨーロッパの内陸部も海の中でありこの石灰岩はサンゴの化石からできているのだ。この岩、地層が何度も大きく折れ曲がって模様のようになっている。

これは褶曲といって、地殻の変動によって巨大な圧力を受けシワが寄るように地層が折れ曲がった跡なのだ。

 

 

 

 

世界ふれあい街歩き ― バンベルク ―

目次

 

1.バンベルクの沿革

今日は2009年7月16日放送の世界ふれあい街歩きで紹介されたドイツのバンベルクについて調べてみた。wikipedia:バンベルク

 

レグニッツ川の流域に広がるオーバーフランケン地方の主要都市。

小さな農漁村だった町を整備したのは神聖ローマ帝国のハインリヒ2世。

その頃から町の中心になっていったのは王宮・大聖堂と中州にある市場であった。

中世の街並みが色濃く残る旧市街はドイツを代表する古都として人気の観光地となった。1993年には世界遺産に登録。限られた建物だけではなく、市街全体が世界遺産に登録されるのは珍しい。

 

2.ベルクシュタット(山の街)

高台地区を代表する建物バンベルク大聖堂。

バンベルクの騎士像など有名な彫刻や王の墓石なども見学できる。

 

 

大聖堂内部。ロマネスク様式の歴史的建造物だ。市内には他にも宗教施設が数多く築かれ、バンベルクは宗教都市として発展した。

最初に建造されたのは11世紀。その上にハインリヒ2世が新しい大聖堂を建設。

その後2度の火災を経て現在の姿が完成した。

 

王の兄弟や側近が司教として赴任していたのが宮殿。住居よりも接見の場として使われ、その権威を象徴する豪勢な建物になっている。

丘の上にあるため、直角に折れ曲がる構成で建築された。

新宮殿は現在州立図書館になっている。

 

 

このエリアから東へ向かい川にぶつかる。

川に架かる橋の上に旧市庁舎が今も残っている。司教が市庁舎を立てるための土地を市民に売ることを拒否したため橋上に建てられたという伝説が残る。現在は冬季コレクション博物館になっている。

 

この橋を渡ると中州にある市民の町に入る。

活気あふれる商業地で遠くボヘミアハンガリーとも交易があったようだ。

ギルドの結成記録はないが手工業も盛んで、活版印刷の黎明期に書籍を出版した記録も残っている。

 

3.インゼルシュタット(島の街)

現在の中心マクシミリアン広場。バロック様式の新市庁舎もここに建っている。

 

かつてこの地に建っていた教会の壁石を新市庁舎に転用したそうだ。

広場の端には王族の銅像に囲まれた噴水もある。

 

マルティン教会

 

16世紀にイエズス会の教会として改修された。

 

1647年大学が創設されたが1803年に廃止。哲学・神学の単科大学に変わる。

第二次大戦後、再び総合大学を目指し拡張を続け復学する兵士も多かった。

1979年めでたく総合大学の認可を受ける。

 

バンベルクは第二次大戦末期にアメリカに占領され、しばらくの間は駐屯地となった。また、ドイツ国外から追放され、帰国したドイツ人たちの難民キャンプも設置されていた。