奥尻町 ― 岩礁の島 ―

目次

 

1.奥尻町の概要と地形

今日は奥尻町について調べてみた。

人口は約2千人。

町域は奥尻島の全域で、本土との交通手段は函館空港・丘珠空港への空路と江差港へのフェリー。

島は南北約27km、東西約11kmの細長い島。

中央部に山地があり、平らな土地が少ない。

ただ、火山島ではなく、海底の火山活動によって形成された岩石が地殻変動で隆起した伊一部が島になり、さらに浸食を経て現在の姿になったと考えられる。

山地が海岸近くまで迫っていることに加え、波による浸食も強く険しい海岸線が続いている。特に外洋に面する西側は冬の季節風や波浪によって海食崖が発達。

比較的穏やかで小規模な扇状地のある東側に集落が多い。

1993年の北海道南西沖地震では島の南部で数10cm規模の隆起が確認された。

 

2.町の歴史

江戸時代以前から島にはアイヌやさらにその前の時代の人々が暮らしていた。

青苗砂丘遺跡からは住居跡が見つかっている。アシカなどの海獣や魚介類を採取して生活していたらしい。

松前藩の成立後はその支配圏となり交易も行われる。

日本海を行き来する船の航路に近く、ニシンや昆布を本州へ出荷することが可能だった。

河内屋による場所請負制も行われていたらしい。

明治になると、島全体が奥尻郡・さらに4つの村が設置される。

江戸時代には季節労働の性格が強かったが、漁業を営む和人の定住が増える。

1879年、その4村(釣懸村/赤石村/薬師村/青苗村)を管轄する戸長役場を設置。

1906年4村が合併し二級町村の奥尻村が成立。村名は大字・地域名として残った。

1966年町制施行し現在に至る。

 

大正~昭和前期にかけては沿岸に来遊するニシン漁が盛況。

漁獲 → 加工 → 魚肥・食料として出荷と、島の経済を左右する一大産業だった。

ニシン衰退後は沖合漁業でイカなどに遷移。

1993年の北海道南西沖地震と津波による甚大な被害後、総延長14kmの防潮堤、漁港の一時避難用橋形構造物、スロープの避難路などが建設された。

 

3.奥尻町の観光

カントリーサインには島の観光スポットが描かれている。

陸上に他町村との境界はないが、フェリーターミナル付近に看板を設置。

左上は賽の河原公園。海難犠牲者等の慰霊の地で6haに及び石が積まれている。

右上は宮津弁天宮。海岸沿いの岩の上、急な階段を上った先にある。

元々はアイヌの砦や番所があったとも言われる。

 

右下は鍋釣岩。ドーナツ状に穴が開き、鍋の弦に似ていることから名付けられた。

高さは約20mもあり、夜間はライトアップされている。

左下は北追岬。公園内の野外彫刻は北方領土を追われ、入植した人々の望郷の念をある芸術家が表現したものらしい。

 

 

 

 

倶知安・京極ドライブ ― ダムカード ―

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1.京極発電所

引き続き、湧学館で展示を見学。

京極発電所について

2014年より稼働している北海道で初の純揚水式発電所。

純揚水式発電とは、自然の川の流れを利用せず、上池と下池の間で水を行き来させて発電させる水力発電。

一般的には需要の多い昼間に上池から下池へ水を送り、発電。

電機の余っている夜間にポンプを使って上池に水を戻すという仕組み。

川の水を利用したり、発電しながら自然流入もある混合揚水式もあるが、京極発電所は純揚水式で需要ピークのために水の形で電気を貯めておくことが主目的となる。

 

北海道は雨・雪解け水が豊富なため、通常のダムや流れ込み式水力発電が主だった。

ただ、近年は風力や太陽光発電で電気の余剰が発生することが問題となり、純揚水式発電を重要な調整役と見なすようになった。

揚水式発電の場合、かつては夜間も一定量を出力する火力や原子力の余剰電力で揚水していた。京極発電所も2002年の時点では泊原発の補助という位置づけだった。

しかし、建設中に東日本大震災による泊原発の停止もあり、近年は昼間にピークとなる太陽光の余剰や需要が低い時間帯に発生した風力の余剰で揚水し、太陽光が急減する夕方から夜間にかけて発電開始するなど柔軟に対応している。

京極発電所は数分程度で発電が可能なこともより重要性を高めている。

 

京極ダムと調整池の位置関係

 

残念ながら京極ダムは関係者以外立ち入り禁止。

 

 

調整池はダムよりも標高が約400m高い場所に設置され、放水路トンネルでつながっている。

 

 

地下には発電設備やポンプが設置されている。

重要なのは水車ランナとよばれる部分。

発電するときは、上から落ちてきた水がランナを回す→ランナが発電電動機を回して電気が発生する。

揚水するときは、電気で発電電動機を回す→ランナが回転しポンプの役割→水を上へ押し上げる。ポンプは空気を吸うと揚水できないので、運転開始前に周辺を満水にして空気を抜いてからランナを回転させている。

二つの機能を一つのランナで両立させるため、羽は分厚く複雑にねじれている。

ねじれによって、水が当たる面積が増え効率よく回ったり、押し上げることができる。

 

2.ダムカード

湧学館の一階ではダムカードを配布中。

 

 

下部調整池はロックフィル形式の京極ダムで貯水。

 

 

通常のロックフィルダムは、岩石を一定の層(リフト)に敷き、ローラーで転圧→何百層も繰り返すという工法を行う。

京極ダムは本工事の前に実際の施工に近い規模で

  • 何cmの厚さで敷けば一番密になるか
  • ローラーを何往復すればよいか
  • 水をまいた方が締まるか
  • どの程度沈下するか

をあらかじめ実験した。

また、ドラムの中に偏心した錘が入っている振動ローラーを使用

  • 重さで押す
  • 振動で石同士の隙間を動かす
  • 石がより安定した位置に入り込む 

       ↓

 石と石の間の空隙を減らして、

  • 密度を高くする
  • 変形を小さくする
  • 水圧に耐える

放水・揚水を繰り返す京極ダムの堤体には水圧変化が何度もかかるため、

より緻密に工事を行ったようだ。

 

上部調整池は楕円上の貯水池。バックの羊蹄山が素晴らしい。

 

遮水壁には水工フォームドアスファルト混合物を使用

ダムの遮水壁に使われるアスファルトは通常のアスファルトよりも水密性・ひび割れに追従する柔軟性・水に浸かっても劣化に強いことが求められる。

フォームド(泡状にした・発砲させた)のアスファルトとは、高温の状態で少量の水を混ぜる→水が蒸発するときに気泡が生じ、発泡する。

その結果、粘度が減り、骨材と混じりやすくなり、低い温度でも施工しやすくなる。完成後には泡が消え水も抜けている。

アスファルトはコンクリートより柔らかいため、地震や気温差によるひび割れに強いメリットがある。

北海道のような寒冷地で水圧変動が頻繁な上部調整池に適した選択だそうだ。

倶知安・京極ドライブ ― 湧学館 ―

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1.京極町立生涯学習センター湧学館

倶知安町から西へ進んで、隣の京極町へ

生涯学習センター湧学館の郷土資料を見学する。

ちなみに1階は図書館になっていて、廃棄本の無料譲渡をおこなっていたので、2冊ほどもらってきた。ラッキー。

 

開拓の歴史

明治後期、ワッカタサップ川流域に旧丸亀藩主の京極家が農場を開設。

現在の京極地区のルーツ

 

当時の北海道では「北海道国有未開地処分法」によって、大規模農場の経営が奨励されていた。各地に誕生した、華族や実業家が広大な土地を借り、開拓を進める「華族農場」の一つ。

本州から入植者をつのったところ、北陸出身者が多かった。

 

さらに現在のふきだし公園付近が徳島出身の江川農場として開拓がはじまる。

数年後寒別~京極(当時は東倶知安)~喜茂別の道路が開通。

団体入植は続き小規模な商店も増え始めた。

順調に人口は増え、1910年東倶知安村として分村。

 

2.脇方鉱山

東倶知安村の発展に大きく寄与したのが脇方鉱山の鉄鉱石採掘。

明治末期に発見され、対象になり本格的に採掘が始まる。

北海道最大の製鉄拠点だった室蘭の輪西製鉄所を中心に各地へ運ばれていた。

脇方では鉱石を破砕・選鉱し、製鉄所で細かい鉱石を焼結しコークスと混ぜてから高炉で処理されていた。

採掘は露天堀で1969年まで続いていた。

 

 

脇方とはワッカタサップ川にちなんでつけられた地名

第一次大戦の旧山期間を挟んで長く採掘が続けられたが、品位低下・外国とのコスト競争に敗れ閉山。1970年には無人集落となった。

 

1948年の米軍による航空写真

鉄道設備に住居や学校も見える。写真右側まで道が続いているが、こちらが採掘場だったのだろうか。

 

1960年代の航空写真

 

建物、設備は見えるが、この頃はだいぶ活気がなくなっていたのだろうか。

 

1970年代の航空写真

 

建物はかなり撤去され、鉄道も廃線となった後。

 

3.胆振線関連資料

1919年に開通した京極線は倶知安~東倶知安までの路線。胆振縦貫鉄道の一環として設置された。

翌年、さらに脇方へ延長し、鉄道による鉱石輸送が開始。

鉱山もこれによって本格的に稼働開始となった。鉄道は農産物の運搬も担う。

1938年例外や水害で苦しむ農家のため、京極農場は農地を開放し小作人から自作農となった。これに感謝の意を示した村は1940年に京極村へ改称。

 

1940年改称した京極駅~徳瞬瞥駅が開通し胆振線が全線開業となった。

しかし、戦後は輸送量低迷で廃線となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倶知安・京極ドライブ ― 倶知安風土館 ―

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1.羊蹄山について

胆振線跡をちょっとだけ探訪した後は、町内の郷土資料館である倶知安風土館へ

 

 

まずは羊蹄山についての展示から見学

倶知安側から羊蹄山を眺めると、西側の斜面がどことなく膨らんでいるらしい。

 

角度を変えてニセコ町・真狩村境界付近から見ると、南西側の稜線が大きく膨らんでいる。真南の真狩村中心部から見ると、やはり西斜面にやや膨らみがある。

 

羊蹄山の裾野は、斜面に膨らみのある南西側に大きく張り出しているらしい。

さらに他の斜面に比べると谷筋が発達していない→浸食が進んでいない→比較的新しい地形であるとのこと。

 

国土地理院地図の色別標高図で見てみる。

 

確かに西斜面はなだらか。渓谷が全然ない。

一方で裾野の方に下ると、北や東に比べてでこぼこした丘陵が多いのも目につく。

これらの丘陵は流れ山と呼ばれ、大規模な地滑りの痕跡とのこと。

溶岩や火山灰・火山礫が積み重なっていると、水を含むと滑りやすくなる地層が多い。地下水や融雪水で弱体化していた層が地震や火山活動が引き金で地滑りが起きた可能性が高い。

 

2.尻別川の蛇行

この流れ山の影響を受けたと考えられるのが尻別川の蛇行。

比羅夫駅北の大曲と呼ばれる激しい蛇行。

これは羊蹄山の地滑りの影響で天然のダムができたことが原因と展示されていた。

 

確かに、この部分は北西に向かって丘が出っ張っている。

 

郷土館の展示では、この丘陵は尻別川を蛇行させるだけではなく、もっと大規模に川をせき止めていたのではないかとの仮説を立てている。

尻別川の大曲蛇行部の両岸は標高約200m。

地滑りによってできたダムの高さがこれと一致すると考えた場合、現在の倶知安町市街地にあたる平野部はすべて水の底だったとも考えられる。

上の図は湖だったのではと想定される輪郭部分を青い色で塗っている。

 

縄文時代の遺跡を推定の湖の地形図に記してみると、湖畔と思われる部分に位置している。

本当に湖だったかどうかはわからないが、生き物の豊富な湿地のような土地だったのは間違いないのだろう。

 

湧き水で有名な羊蹄山。湧水口は東側が多い。

古羊蹄山は火山灰の風化や地下水による変質で粘土層になった。

溶岩や火山礫は隙間が多いので、水をよく通す。

北や西の斜面は尻別川に伏流水として湧いているのか、あまり有名な湧水はない。

 

3.昭和の展示

バイクと自転車。メーカー見てこなかったな・・

 

スバル360。日本最初の大衆車とも呼ばれ、モータリゼーション推進の一翼を担った。

 

運転席

 

鉄道関連

鉄道ゆかりの建物が描かれた記念整理券


さよなららいでん号記念切符

 

羊蹄山をバックに走る列車

 

この写真だとわけわからないかもしれませんが、ゼロ戦の翼

 

ニセコアンヌプリ山で行われていた着氷実験で使われていたもの

 

倶知安・京極ドライブ ― 胆振線跡 ―

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1.参郷駅跡

倶知安町の中心部から国道276号線を東へ向かう。

農村部に差し掛かったあたり、八幡地区

まず目につくのは倶知安神社

立派な鳥居の奥には階段があり、社殿は丘の上にある。

この付近には戸長役場や小学校が建てられたりしていて、鉄道が通る前の倶知安の中心部だった。

 

 

今の市街地よりもやや標高が高いため、水害の心配が少なかったのが影響したのだろうか。

 

 

鉄道が開通すると市街は駅前に移り、この辺りは純農地に。

1960年気動車が導入されるのに合わせ、この場所にも駅ができることに。

旅客のみを取り扱う、停留所に近い駅で簡素な待合室とホームがあるだけだった。

駅名は西三号線から参郷駅と名付けられた。

 

 

倶知安町風土館にあった胆振線各駅の写真

参郷駅は線路の北側に待合所があったようだ。

ブロック造りの簡素な駅で、1986年の胆振線廃線後撤去された。

 

1970年代の国土地理院地図の空中写真

 

農地を東西に突っ切り、国道276号線と並行して線路が通っている。

参郷駅の西側で方向を変え、北西に進み市街地の北で弧を描いて倶知安駅に合流していた。

倶知安~京極間は1922年開通、倶知安駅は1904年の開設なので、すでに拡大していた市街地を迂回したのだろうか。

 

現在の参郷駅跡

 

ここに駅があったと思わせる名残は見つけられない。

空中写真には線路跡らしき直線も見えるのだが。

 

2.寒別駅跡

六郷駅の東にあった寒別駅

京極軽便線倶知安駅 - 京極駅間の開通に伴い、一般駅として開業。

こちらは廃線まで木造の駅舎が残っていた。

 

尻別川や国道276号が南東に方向を変えた辺りに建てられていた駅。

 

 

現在の寒別駅跡

ホームの石積みが残っている。

 

 

1970年代の国土地理院の航空写真

居間と道路の形が異なり、国道からわずかに南に進むと駅舎があり、その奥を線路が通っていた。貨物用らしきスペースや線路跡が見える。

 

1971年に貨物の取扱いが廃止され、倶知安駅へ集約。

1980年には無人化された。 

貨物線と接していたらしい農業倉庫は今も残っている。

 

国道から見ると二棟の倉庫の間に、ちょうど羊蹄山がくっきり。

 

国道沿いには駐在所や地域会館、かつて商店だったと思しき建物もあり、それなりの集落だったと思われる。

 

尻別川の対岸にある豊岡地区はマッチ軸の木材搬出で栄えた。

戦後は豊かな農村となる。

 

1984年廃校の旧寒別小学校の木造校舎は陶芸工房になった。

 

 

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