鳥取旅行 ― 境港 ―

目次

 

1.米子鬼太郎空港

久しぶりのシルバーウィーク。

我が家は鳥取県を旅することに。

新千歳から羽田経由で米子鬼太郎空港へ

飛行機に乗った鬼太郎と目玉の親父が出迎えてくれる。

実は防衛省管理の飛行場で航空自衛隊美保基地の滑走路を民間が利用する共用飛行場。

正式名称は美保飛行場、通称は米子空港、愛称は米子鬼太郎空港。

 

中の海に突き出すような形の滑走路。民間との供用が開始されたのは戦後になってから。

わずか30kmほどの距離にある出雲空港や同じ県内の鳥取空港は民間専用。

1943年に開設された美保海軍航空隊は西日本の航空要員を育成する大規模な航空基地の性質が強く、戦後は米軍共用時期を経て輸送航空団が置かれた。

現在は西日本で唯一の輸送機部隊が所在する基地となり、航空輸送・空中給油の拠点である。2,500m滑走路があって、大型輸送機を運用できるようになっている。

 

2.境線

空港最寄りの米子空港駅へ。


空港からは歩いて数分。

 

1902年境線の開業時から存在する駅だが、当初の名称は大篠津駅。

現在16ある駅のうち、開業当初から存在する4つの駅の一つ。

美保基地ができてからは基地関連施設も付近にあり、基地への玄関口として賑わっていた。

 

1970年代の航空写真。今よりも滑走路が短く駅の位置も現在より南にある。

 

 

賑わっていた駅前だが、昭和50年代に美保飛行場滑走路付替え工事等で駅以外の建物は集団移転。美保基地の拡張工事に伴い、当駅は800m境港側の新線上に移転。

駅名も米子空港駅に改称。

大篠津の駅名を残して欲しい」と言う住民の要望により、隣の御崎口駅が大篠津町駅と改称された。

 

砂かけ婆と一反木綿がラッピングされた列車に乗り込む。

 

社内も鬼太郎一色。

 

天井も一反木綿

 

境港駅に到着

一見すると鬼太郎が目立つだけの小さな駅だが、灯台の形をしていて夜間に灯りが灯る。

船舶から誤認されないよう海上方面へは目隠しされている。

1902年の開業当初は現在よりもやや東に位置し、駅名も境駅だった。

1919年改称し境港駅に。1995年現在地に移転。

江戸時代から天然の良港として栄えていた境港は北前船の寄港地で、鳥取藩の役所も設置されていた。明治になると大陸との貿易港にもなる。

戦後は日本有数の漁港・水産加工として栄え1990年代には5年連続で水揚げ量全国一位を取るなど重要な港であり続けている。

鉄道開業時も境港へ船で資材を運び、線路を敷設しながら米子へ向かっていた。

 

1934年の地図では駅の先や駅の手前で分岐する線が港まで伸びていた。

1975年の地図でも専用線が東西に伸びている。

境港駅から東京まで鮮魚専用特急貨物列車も走っていたという・

戦後トラック輸送が主になり1986年貨物取扱廃止。

フェリーや観光の玄関口として駅を作り直すこととなったのが移転の理由。

1993年水木しげるロード整備、1995年駅移転、1997年 フェリーターミナルと観光案内所などが併設されたみなとさかい交流館が開館。新しい街並みができあがった。

 

ラッピング列車を眺めながら水木しげるロードへ向かう

 

みなとさかい交流館にはどでかい鬼太郎キャラたちが描かれている。

 

3.水木しげるロード

合成と見間違うような漫画の一コマからスタート。

 

妖怪の銅像や悪魔くんのモニュメント。

 

水木しげるロードは古い商店街。アーケードつき。

 

ねずみ男先生の銅像。

 

 

妖怪お休み処、砂かけ屋。

イベント時にスタッフの控室となるらしい。

 

水木しげるファミリーが描かれている。

 

初めて見たよ乾電池の自動販売機。

 

CD・おみやげ・プロパンガス・家電を取り扱う商店。合法的マルチ商法。

 

一反木綿に乗って宙を舞う鬼太郎と目玉のおやじのマンホール。

 

世界ふれあい街歩き ― トリポリ ―

目次

 

1.トリポリの地形

今日は世界ふれあい街歩きで紹介されたリビアのトリポリについて調べてみた。

 

トリポリはリビア北西部、地中海に突き出した海岸部に位置する。

北は海、南側には広いジャファラ平原が広がり、そのさらに南にナフサ山地。

ナフサ山地は海岸平野との境界をなす台地・断崖地形。

海岸部には地下水を利用したオアシス的な環境があり、トリポリ周辺はリビア内陸部よりずっと農業・居住に適している。とはいえ恒常的な河川はほぼなく、雨は冬季中心で年による変動も大きい。

海から砂漠へ入っていく最初の大きな拠点として栄えてきた。

 

2.古代フェニキア時代

古代のトリポリはオエア(Oea)と呼ばれていた。

紀元前7世紀ごろ、フェニキア人がこの海岸に拠点を築いたとされる。天然の港を利用でき、しかも西側には防御しやすい小さな半島があったことが、魅力的な立地だった。

東にはレプティス・マグナ、西にはサブラタという大きなフェニキア・ポエニ系都市があり、

サブラタ ― オエア ― レプティス・マグナ

という三都市圏を形成していた。

これが後のトリポリタニアという地域名の由来になった。

フェニキア人の植民都市は、最初はそれぞれ比較的独立していたと考えられる。

一方、紀元前9~8世紀ごろから西地中海で急速に勢力を拡大したカルタゴは広いネットワークを形成しトリポリタニアの3都市も、交易・軍事・政治の面でカルタゴの強い影響下に入っていった。

 

3.古代ローマ時代

紀元前2世紀にはカルタゴを滅ぼしたローマの勢力下に入り、ローマ帝国時代にはトリポリタニア全体がかなり繁栄する。

地中海の商品をアフリカ内陸へ送り、内陸の産物を海へ出す場所として、特にレプティス・マグナが繁栄した。

オリーブ油、農産物、奴隷、象牙などのアフリカ産品を扱い、特に周辺の乾燥した土地でも灌漑を利用してオリーブ栽培を大規模に行い、地中海世界へ輸出していた。

193年に皇帝になったセプティミウス・セウェルスはレプティス・マグナ出身で、現在も遺跡となって残っている街並みを整備。

巨大な凱旋門、フォルム、バシリカ、公衆浴場、劇場、市場、港湾施設、大通りなどローマ帝国の大都市の一つとなった。

テラコッタ製の赤褐色〜オレンジ色の瓦屋根が多かったと思われる。

ローマの衰退とともにレプティス・マグナも衰退し、砂や土に埋もれていった。

そのおかげで現在も古代の街並みを容易に見ることができる。

一方、トリポリは現在の市街の下に古代都市があるため遺跡を把握しにくい。

 

4.イスラム世界へ

643年、アラブ・イスラム勢力がトリポリを占領。

旧市街の城壁や街路の基本構造にはアラブ期以来のものが残っている。

1510年にスペインがトリポリを占領するも、オスマン帝国が奪取。

その間は聖ヨハネ騎士団が支配。

シディ・ダルグート・モスクは騎士団時代の教会建築を取り込み、モスクに改造された。

18世紀、トリポリではオスマン帝国の総督と現地の軍人・有力者との対立が激しくなっていた。この混乱を利用したアフマド・カラマンリーが実質的な世襲君主となる。

形式上はオスマン帝国の宗主権を認め続け、強い自治権を持つ地方王朝となった。

旧市街の見どころはこの時代のものが多い。

25個のドームを持つカラマンリー・モスクは色タイルや彫刻漆喰など、北アフリカとオスマン世界の建築文化が混ざっている。

赤城塞は、現在の建物の中に、

ローマ → アラブ → スペイン → 聖ヨハネ騎士団 → オスマン → カラマンリー → イタリア

という歴史が重なっている。

特に16世紀にはスペイン人と騎士団によって大規模に改修され、その後オスマン総督の居館になり、カラマンリー家の支配期にも政治の中心だった。

 

5.近代

1911年、イタリアがオスマン帝国との戦争を開始し、トリポリを占領。

以後、トリポリはイタリア領リビアの中心都市になる。

ここで都市景観が大きく変わる。

旧市街の周囲に、広い道路・行政施設・新しい住宅地・イタリア風の建築が作られた。

第二次世界大戦後、リビアは独立。

1951年にリビア王国が成立し、トリポリは首都の一つとして発展。その後、1969年のカダフィ政権成立を経て、現在もリビアの政治・経済の中心になっている。

20世紀後半には人口が急増し、旧市街の外側へ都市が大きく拡大した。NASAの衛星画像でも、1970年代から2000年代にかけて沿岸低地に市街地が大きく広がったことが確認できる。

 

 

 

 

奥尻町 ― 岩礁の島 ―

目次

 

1.奥尻町の概要と地形

今日は奥尻町について調べてみた。

人口は約2千人。

町域は奥尻島の全域で、本土との交通手段は函館空港・丘珠空港への空路と江差港へのフェリー。

島は南北約27km、東西約11kmの細長い島。

中央部に山地があり、平らな土地が少ない。

ただ、火山島ではなく、海底の火山活動によって形成された岩石が地殻変動で隆起した伊一部が島になり、さらに浸食を経て現在の姿になったと考えられる。

山地が海岸近くまで迫っていることに加え、波による浸食も強く険しい海岸線が続いている。特に外洋に面する西側は冬の季節風や波浪によって海食崖が発達。

比較的穏やかで小規模な扇状地のある東側に集落が多い。

1993年の北海道南西沖地震では島の南部で数10cm規模の隆起が確認された。

 

2.町の歴史

江戸時代以前から島にはアイヌやさらにその前の時代の人々が暮らしていた。

青苗砂丘遺跡からは住居跡が見つかっている。アシカなどの海獣や魚介類を採取して生活していたらしい。

松前藩の成立後はその支配圏となり交易も行われる。

日本海を行き来する船の航路に近く、ニシンや昆布を本州へ出荷することが可能だった。

河内屋による場所請負制も行われていたらしい。

明治になると、島全体が奥尻郡・さらに4つの村が設置される。

江戸時代には季節労働の性格が強かったが、漁業を営む和人の定住が増える。

1879年、その4村(釣懸村/赤石村/薬師村/青苗村)を管轄する戸長役場を設置。

1906年4村が合併し二級町村の奥尻村が成立。村名は大字・地域名として残った。

1966年町制施行し現在に至る。

 

大正~昭和前期にかけては沿岸に来遊するニシン漁が盛況。

漁獲 → 加工 → 魚肥・食料として出荷と、島の経済を左右する一大産業だった。

ニシン衰退後は沖合漁業でイカなどに遷移。

1993年の北海道南西沖地震と津波による甚大な被害後、総延長14kmの防潮堤、漁港の一時避難用橋形構造物、スロープの避難路などが建設された。

 

3.奥尻町の観光

カントリーサインには島の観光スポットが描かれている。

陸上に他町村との境界はないが、フェリーターミナル付近に看板を設置。

左上は賽の河原公園。海難犠牲者等の慰霊の地で6haに及び石が積まれている。

右上は宮津弁天宮。海岸沿いの岩の上、急な階段を上った先にある。

元々はアイヌの砦や番所があったとも言われる。

 

右下は鍋釣岩。ドーナツ状に穴が開き、鍋の弦に似ていることから名付けられた。

高さは約20mもあり、夜間はライトアップされている。

左下は北追岬。公園内の野外彫刻は北方領土を追われ、入植した人々の望郷の念をある芸術家が表現したものらしい。

 

 

 

 

倶知安・京極ドライブ ― ダムカード ―

目次

 

1.京極発電所

引き続き、湧学館で展示を見学。

京極発電所について

2014年より稼働している北海道で初の純揚水式発電所。

純揚水式発電とは、自然の川の流れを利用せず、上池と下池の間で水を行き来させて発電させる水力発電。

一般的には需要の多い昼間に上池から下池へ水を送り、発電。

電機の余っている夜間にポンプを使って上池に水を戻すという仕組み。

川の水を利用したり、発電しながら自然流入もある混合揚水式もあるが、京極発電所は純揚水式で需要ピークのために水の形で電気を貯めておくことが主目的となる。

 

北海道は雨・雪解け水が豊富なため、通常のダムや流れ込み式水力発電が主だった。

ただ、近年は風力や太陽光発電で電気の余剰が発生することが問題となり、純揚水式発電を重要な調整役と見なすようになった。

揚水式発電の場合、かつては夜間も一定量を出力する火力や原子力の余剰電力で揚水していた。京極発電所も2002年の時点では泊原発の補助という位置づけだった。

しかし、建設中に東日本大震災による泊原発の停止もあり、近年は昼間にピークとなる太陽光の余剰や需要が低い時間帯に発生した風力の余剰で揚水し、太陽光が急減する夕方から夜間にかけて発電開始するなど柔軟に対応している。

京極発電所は数分程度で発電が可能なこともより重要性を高めている。

 

京極ダムと調整池の位置関係

 

残念ながら京極ダムは関係者以外立ち入り禁止。

 

 

調整池はダムよりも標高が約400m高い場所に設置され、放水路トンネルでつながっている。

 

 

地下には発電設備やポンプが設置されている。

重要なのは水車ランナとよばれる部分。

発電するときは、上から落ちてきた水がランナを回す→ランナが発電電動機を回して電気が発生する。

揚水するときは、電気で発電電動機を回す→ランナが回転しポンプの役割→水を上へ押し上げる。ポンプは空気を吸うと揚水できないので、運転開始前に周辺を満水にして空気を抜いてからランナを回転させている。

二つの機能を一つのランナで両立させるため、羽は分厚く複雑にねじれている。

ねじれによって、水が当たる面積が増え効率よく回ったり、押し上げることができる。

 

2.ダムカード

湧学館の一階ではダムカードを配布中。

 

 

下部調整池はロックフィル形式の京極ダムで貯水。

 

 

通常のロックフィルダムは、岩石を一定の層(リフト)に敷き、ローラーで転圧→何百層も繰り返すという工法を行う。

京極ダムは本工事の前に実際の施工に近い規模で

  • 何cmの厚さで敷けば一番密になるか
  • ローラーを何往復すればよいか
  • 水をまいた方が締まるか
  • どの程度沈下するか

をあらかじめ実験した。

また、ドラムの中に偏心した錘が入っている振動ローラーを使用

  • 重さで押す
  • 振動で石同士の隙間を動かす
  • 石がより安定した位置に入り込む 

       ↓

 石と石の間の空隙を減らして、

  • 密度を高くする
  • 変形を小さくする
  • 水圧に耐える

放水・揚水を繰り返す京極ダムの堤体には水圧変化が何度もかかるため、

より緻密に工事を行ったようだ。

 

上部調整池は楕円上の貯水池。バックの羊蹄山が素晴らしい。

 

遮水壁には水工フォームドアスファルト混合物を使用

ダムの遮水壁に使われるアスファルトは通常のアスファルトよりも水密性・ひび割れに追従する柔軟性・水に浸かっても劣化に強いことが求められる。

フォームド(泡状にした・発砲させた)のアスファルトとは、高温の状態で少量の水を混ぜる→水が蒸発するときに気泡が生じ、発泡する。

その結果、粘度が減り、骨材と混じりやすくなり、低い温度でも施工しやすくなる。完成後には泡が消え水も抜けている。

アスファルトはコンクリートより柔らかいため、地震や気温差によるひび割れに強いメリットがある。

北海道のような寒冷地で水圧変動が頻繁な上部調整池に適した選択だそうだ。

倶知安・京極ドライブ ― 湧学館 ―

目次

 

1.京極町立生涯学習センター湧学館

倶知安町から西へ進んで、隣の京極町へ

生涯学習センター湧学館の郷土資料を見学する。

ちなみに1階は図書館になっていて、廃棄本の無料譲渡をおこなっていたので、2冊ほどもらってきた。ラッキー。

 

開拓の歴史

明治後期、ワッカタサップ川流域に旧丸亀藩主の京極家が農場を開設。

現在の京極地区のルーツ

 

当時の北海道では「北海道国有未開地処分法」によって、大規模農場の経営が奨励されていた。各地に誕生した、華族や実業家が広大な土地を借り、開拓を進める「華族農場」の一つ。

本州から入植者をつのったところ、北陸出身者が多かった。

 

さらに現在のふきだし公園付近が徳島出身の江川農場として開拓がはじまる。

数年後寒別~京極(当時は東倶知安)~喜茂別の道路が開通。

団体入植は続き小規模な商店も増え始めた。

順調に人口は増え、1910年東倶知安村として分村。

 

2.脇方鉱山

東倶知安村の発展に大きく寄与したのが脇方鉱山の鉄鉱石採掘。

明治末期に発見され、対象になり本格的に採掘が始まる。

北海道最大の製鉄拠点だった室蘭の輪西製鉄所を中心に各地へ運ばれていた。

脇方では鉱石を破砕・選鉱し、製鉄所で細かい鉱石を焼結しコークスと混ぜてから高炉で処理されていた。

採掘は露天堀で1969年まで続いていた。

 

 

脇方とはワッカタサップ川にちなんでつけられた地名

第一次大戦の旧山期間を挟んで長く採掘が続けられたが、品位低下・外国とのコスト競争に敗れ閉山。1970年には無人集落となった。

 

1948年の米軍による航空写真

鉄道設備に住居や学校も見える。写真右側まで道が続いているが、こちらが採掘場だったのだろうか。

 

1960年代の航空写真

 

建物、設備は見えるが、この頃はだいぶ活気がなくなっていたのだろうか。

 

1970年代の航空写真

 

建物はかなり撤去され、鉄道も廃線となった後。

 

3.胆振線関連資料

1919年に開通した京極線は倶知安~東倶知安までの路線。胆振縦貫鉄道の一環として設置された。

翌年、さらに脇方へ延長し、鉄道による鉱石輸送が開始。

鉱山もこれによって本格的に稼働開始となった。鉄道は農産物の運搬も担う。

1938年例外や水害で苦しむ農家のため、京極農場は農地を開放し小作人から自作農となった。これに感謝の意を示した村は1940年に京極村へ改称。

 

1940年改称した京極駅~徳瞬瞥駅が開通し胆振線が全線開業となった。

しかし、戦後は輸送量低迷で廃線となった。