室蘭水族館 ― 遊園地付き ―

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1.市立室蘭水族館

UEFAチャンピオンズリーグが佳境になってきたのと、首の神経痛でしばらくPCから離れていた。せっかくのゴールデンウィーク後半戦も鼻水がひどくて外出は控えることに。

 

数日前に家族で行ってきた室蘭市の水族館のことでも書いてみよう。

絵鞆半島先端部、白鳥大橋の近くにある小さな水族館だ。

 

 

人気なのはクラゲの水槽。

 

豆粒くらいの大きさの小さなクラゲがいれば

 

なかなか迫力のある大き目のクラゲ

 

クラゲには心臓も脳もない。

体全体の拍動によって血液の代わりとなる物質を体全体に送っている。

体全体に神経が張り巡らされる散在神経系の生物。

さらに海水をそのまま取り込み、上記の拍動によって体全体に流れる海水から酸素を吸収する皮膚呼吸を行っている。

 

獲物を刺す細胞(刺胞)を持つ種と粘着質の細胞(膠胞)を持つ種に分かれる。

それぞれ刺胞動物門と有櫛動物門に分類されている。

どのクラゲも袋型で、口の奥に胃があり老廃物は口から排出している。

 

シロクラゲは東北以北の冷たい海に生息する。

 

キタミズクラゲも冷たい海に生息。

漁網の破損や目詰まりを引き起こす厄介者でもある。

 

入り口にいるのは白い棘皮(きょくひ)動物。

 

棘のような皮をもつという意味でウニを対象としてつけられた名称。

ヒトデ、ナマコ、ウミユリなど棘はないがウニと類縁関係にある動物も含める。

基本的には放射線状の体を持ち体軸や頭部が存在しない。

ナマコは例外的に口が前で腹背が明確だが、頭はなく五放射線から現在の形状に変化したと考えられている。

キンコはナマコの一種。腹背の区別がつかず、ずんぐりした形が特徴。

藤の花に色が似ているのでふじこちゃんらしい。

 

ここに展示されているのはおそらくアルビノで、目立ちすぎて自然界で生きていくのは難しそうに思えるが、結構大きく成長しているような。

 

続いてはヤドカリの大群。

 

本当に旨いらしい。この水族館は展示の説明に食べ方も記載してあって、フードロス対策になるかな?

 

びっしりと重なったカレイの大群。

 

イソギンチャクも群れていると幻想的な風景に・・ならないかな。

 

深海魚になるのかな?ビクニン。

 

比丘尼(尼さん)の頭の形に似ているのが由来らしい。

 

最後もクラゲ。これはウリクラゲという種類。

 

2.遊園地

水族館には遊園地が併設。

乗り物権を別途購入する必要がある。

観覧車から水族館を眺める。

 

港には大きな客船が停泊していた。

 

白鳥大橋も見えるぞ。



屋外にはアザラシプール。

 

横からは遊泳する姿が見える。子供たちがくぎ付けになっていた。

 

少し場違いな大き目の石碑が敷地の中央部に建っている。

 

1796年、室蘭港に来航した英国船プロビデンス号の記念碑。

松前藩と地図を交換し、その地形から船長が噴火湾と名付けたとされている。

現在では噴火によって形成された痕跡がなく、国土地理院では内原湾という呼称を使っている。

 

3.DENZAI環境科学館

遅めの昼食後、市街にある科学館へ向かった。

 

 

近年リニューアルされ、図書館と科学館が併設された新しい施設。

45分間のプラネタリウムと体験展示の科学館が楽しめる。

スタッフのおじさんたちが積極的に話しかけてきて、原理や仕組み・楽しみ方を教えてくれるので、子供はテンションが上がり大人はためになった。

写真を撮る暇がなかったが、子供はまた行ってみたいくらい面白かったそうだ。

地球絶景紀行 ― スコットランド ―

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1.スコットランドの概要

今日は2013年3月8日放送の地球絶景紀行で紹介されたイギリスのスコットランドについて調べてみた。

wikipedia:スコットランド

 

グレートブリテン島の北部に位置し、島の1/3の面積を占める。

さらに790に及ぶ島々を有し、3方を海に囲まれている。

南部ローランドがなだらかな丘陵地でイングランドの地形に近いのに対し、北部のハイランドは氷河に浸食された丘陵やフィヨルドの海岸など北欧によく似た風景が広がる。

ハイランドは産業革命の都市圏集中などで19世紀以降人口がまばらとなり、ヨーロッパでもっとも人口密度の低い地域となった。

 

2.ハイランドの観光

ハイランドで最も美しい風景といわれるグレンコー渓谷は映画ハリーポッターのロケ地にもなった。

 

氷河に削られた急峻な山々は岩肌が露出している箇所も多く荒々しい印象を受ける。

一方で渓谷一面に広がる緑の草花や夏の青空とのコントラストも人気だ。

 

インナーヘブリディー諸島最大の島であるスカイ島は、ゲール語で「霧の島」という意味。半島が連なる複雑な地形でウィスキーの醸造でも有名。

鋭くとがった岩がそびえるザ・オールド・マン・オブ・ストーはハイキングスポットとして有名。

 

人と比べると岩の大きさが良くわかるだろう。

高さ50mに及ぶ玄武岩質の溶岩だ。

スカイ島自体が玄武岩質の地質で、ザ・オールド・マン・オブ・ストーはマグマの通り道だったものが、周囲の浸食により残ったものとされる。

一方周囲のなだらかな地形は地滑りにより形成されたものでザ・オールド・マン・オブ・ストーも別の場所からここに運ばれてきたようだ。

この辺りは緯度が高いため森林も発達せず、道北の風景に似ているかもしれない。

 

スコットランドで最も有名な場所といえばネッシーで名をはせたネス湖だろうか。

長さ35km、幅2kmと非常に細長い形をしている。

これは断層に沿っていることが原因で、深さは300m超とかなり深い。

湖畔に建つアーカート城は13世紀に建築されたが、17世紀にイングランド軍によって破壊された。

ネッシー伝説は、最古の記録としては7世紀にさかのぼる。

もっとも、これはネス湖に接続していないネス川の怪物について記されたものだ。

20世紀、湖畔に道路が整備されるとともに目撃例が増加。

水面から頭や背中が飛び出たような事例が多い。

最も有名な1934年の「外科医の写真」は波の大きさと被写体のサイズから大型生物ではありえないとされてきたが、1993年正式にトリックであると証言された。

 

ネス川河口にあるインヴァネス城は11世紀に建造された要塞を基に、改築を繰り返し19世紀に今の形となった。

現在は裁判所として活用されている。

 

 

 

 

世界ふれあい街歩き ― ローザンヌ ―

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1.ローザンヌの概要

今日は2009年8月27日放送の世界ふれあい街歩きで紹介されたスイスのローザンヌについて調べてみた。

wikipedia:ローザンヌ

 

レマン湖の北岸中央部に位置する。

ヴォー州の州都でフランス語圏。

レマン湖は氷河の浸食によってできた盆地にローヌ川流入してできた湖と考えられている。南西部で再びローヌ川としてフランス南部を通って地中海に流れ込んでいる。

湖畔の新市街と丘上の旧市街に分かれ、坂の多い町だ。

 

2.ローザンヌの歴史と観光

ローザンヌが歴史に登場するのは、古代ローマ時代。

ローマ軍が野営地を現在のヴィディやウシー周辺に設置。丘の上には城壁も築いた。

湖畔近くのヴィディにはローマ博物館が建てられ遺跡の出土品を展示している。

ローマ帝国の崩壊後は防御に適した丘の上に市街ができた。

中世は北イタリアをルーツとし、近代にはイタリア王家にもなったサヴォイア家やローザンヌ司教が町を治めた。

町のシンボル、ローザンヌ大聖堂

 

12~13世紀にかけて建てられたゴシック様式の教会。

フランス語圏の各地にある、聖母マリアに捧げられたノートルダム大聖堂の一つ。

直径9mに及ぶ、バラ窓と呼ばれるステンドグラスが有名だ。

鐘楼からは町を一望できる。

 

大聖堂周辺は旧市街の中心になっていて、見どころが多い。

州庁舎は中世に建てられたサンメール城を利用しており、上部が北イタリアのレンガ造りになっているのが特徴的。

13世紀の修道院が基となったサンフランソワ教会、中世の教会跡地に再建されたサンローラン教会、17世紀に建てられた市庁舎など歴史的建築物が数多い。

近代のものでは20世紀の初め、貴族ガブリエル・リュミーヌから市に寄贈されたパレ・ド・リュミーヌ。大学図書館のほかに3つの博物館が中にある。

 

 

19世紀金属・皮革工業が発展。

第一次世界大戦中、国際オリンピック委員会は戦火を逃れ中立国のスイスに拠点を移した。今となっては理由は不明のようだが、立地が良かったのかローザンヌに本部が置かれることとなる。

1993年にはオリンピックミュージアムが建設され、古代オリンピックからの歴史やバーチャル体験などを展示し、ヴィンテージグッズの販売も行っている。

景観が良いこともあってか、現在は保養地となり湖畔には高級ホテルが並ぶようになった。

市北部にあるアクアティス水族館はヨーロッパ一の淡水魚水族館。

世界五大陸の森と淡水域を再現した展示とアーティスティックな雰囲気が特徴的だ。

 

 

富良野市 ― かつては下富良野村 ―

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1.富良野市の沿革

今日は富良野市について調べてみた。

wikipedia:富良野市

 

人口は約2万人。

市域の7割を山林が占める。東には十勝岳連峰、西には夕張山地・芦別岳、南には東大演習林がある。

空知川流域の富良野盆地の南部に位置する。

約100万年前の火砕流・火山灰が盆地を覆っている。活断層で東部は隆起し台地となった一方で盆地部は沈降し河川堆積物で覆われた。

朝日ヶ丘公園以南も断層の影響で隆起し、丘陵が南北に細長く連なっている。

 

旧石器時代~擦文期にかけて湧水のある扇状地河岸段丘に集落があったようだ。

アイヌのコタンはあまり多くなかったとされる。

十勝岳を水源とする富良野川は硫黄が含まれ、水質は人間の営みにあまり適さなかったようだ。富良野の語源であるアイヌ語のフラヌイは「臭いを持つところ」の意を示す。

 

富良野の開拓がはじまったのは明治も半ばを過ぎてから。

1896年富良野原野の植民区画が設定される。空知川左岸は札幌農学校の学田となる。

翌年、現在の扇山地区に最初の入植。小さな市街地もできた。

この頃は下富良野と呼ばれ、現在の上富良野町中富良野町とともに富良野村を形成していた。

歌志内・旭川両方面への仮設道路も開通する。

1899年東京帝国大学の演習林が設置された。

1900年上富良野~下富良野(現在の富良野駅)~鹿越間に鉄道が開通。市街地が扇山から駅前へ移転する。

1903年富良野村から分村し下富良野村設置。戸長役場を置いた。

1908年南富良野村を分村。

 

大正に入り1913年滝川~下富良野駅間鉄道開業。

富良野は交通の要衝となり物資の集散地として発展していく。人口も1万人を突破。

1915年山部村を分村、同時に二級町村制施行。

1919年町制施行、1921年一級町村制施行と順調に発展。

1926年十勝岳噴火で泥流の被害甚大。富良野川は酸性化し農業に大きな影響。

 

1956年山部村から分村していた東山村と合併。

1966年再び山部村と合併、市制施行。

 

2.富良野市の産業

昭和40年頃より玉ねぎをはじめとした野菜の作付が増加していく。

多品目野菜産地となり、農業は現在も基幹産業である。

1972年ブドウの研究開始、補完作物/稲作転換事業としてワインの生産に取り組み始める。原料の調達から加工に至るまで市内で完結する重要な産業となった。

カントリーサインにもブドウと畑に立つワイン工場が描かれている。

 

観光も従業な産業だ。

ドラマ北の国からの舞台となった麓郷地区・同じく倉本聡脚本のドラマの舞台となった風のガーデンやニングルテラスにスキー場もある北の峰地区がメインの観光地。

近年は、町の中心にできたフラノマルシェが買い物から市街への回遊を目指して奮闘中だ。

 

 

空から日本を見てみよう ― 相模原市 ―

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1.相模原市

今日は2015年11月17日放送の空から日本を見てみようで紹介された神奈川県の相模原市について調べてみた。

wikipedia:相模原市

 

人口は70万人超。

市制は1954年施行。2006年相模湖町津久井町。2007年藤野町城山町を吸収合併。

2010年政令指定都市に移行。

 

2.相模原市緑区

3つある行政区のうち、西部にあるのが緑区

人口は約17万人。合併した4町はほぼ緑区に位置する。

 

 

相模湖町はダムによって相模川をせき止めた相模湖に由来する。

人造湖に○○湖と命名された最初の例となる。

同じく編入された旧津久井町は城山ダム、宮ヶ瀬ダムなど水源が豊か。

 

城山町・城山ダムは北条氏と武田氏が鎬を削った津久井城にその名を由来する。

遺構としては堀切や家老屋敷跡が残り、ハイキングコースにもなっている。

 

国道20号線江戸幕府によって整備された甲州街道をルーツとする。

宿場町の一つ小原宿は県内で唯一本陣の建物が残る。

 

 

藤野町にも吉野宿という宿場町があった。

かつて旅籠だった建物は、現在吉野宿ふじやという郷土資料館になっている。

 

区の大半が南部は丹沢山地、北部は秩父山に連なる山がちな地形。

丹沢山地は太平洋の南部にあった海底火山の噴出物からできた島が、プレートの移動で北上し日本列島に衝突。さらに後からやってきた伊豆半島の衝突によって岩体が隆起し丹沢山地を形成した。

 

3.相模原市中央区

相模川によって形成された扇状地が隆起してできた左岸の相模原台地に位置する。

特に河岸段丘が発達した場所。相模原台地は平坦だが、水利に難があり開発が遅れ原野の時期が長かった。相模原・相模野とはこの原野を指したものとされる。

 

人口は27万5千人ほど。

古代には川べりに集落があったとみられる。

田名向原遺跡からは旧石器時代から古墳時代までの住居や石器、古墳群などが出土している。

鎌倉時代には矢部氏の館があった。

近代、東京から近く平坦で地価が安かったことから陸軍施設が相次いで移転。

 

今昔マップより

現在のJR横浜線沿いには相模陸軍造兵廠が建てられた。

西門からまっすぐ伸びる道とそれに直交する道を基準にして区画整理が行われた。

敗戦後は米軍が接収し現在も使用されている。

 

4.相模原市南区

南区は3つの区の中で最も人口が多く、約28万人。

中央区と同じく左岸の台地上に位置する。

 

縄文時代の大規模な遺跡である勝坂遺跡は装飾的な文様の土器が発見され、勝坂式土器と命名された。

相模大野地区は市内で最も大規模な商業地域である。

市南部の玄関口として都市開発がされた。もっとも、隣接する町田駅周辺の方が規模は大きい。

 

5.愛川町

相模川右岸に位置する愛川町は人口約4万人。

 

大化の改新以前から地名の記録が残る古い地域。

戦国期には武田氏と北条氏の合戦の舞台になった。

戦前は陸軍の飛行場があり、周辺の市町村とともに軍事施設集積地の一つとなっていた。

米の収穫に適さず、江戸期から軽工業が盛んであった。軍事施設が工業団地に転換され現在も外国人労働者も多く働く工業地域となっている。

 

6.清川村

愛川町と同じく愛甲郡に属する清川村は人口3千人弱。

wikipedia:清川村

 

神奈川県で唯一の村でもっとも人口が少ない。

大半は中津川流域から宮ヶ瀬ダムにかけて居住している。

宮ヶ瀬ダムは洪水調節、水力発電を主な目的として1970年代に計画された。

建設に伴い集落が水没するため補償交渉から竣工まで30年近くの時間がかかる。

移転先は近隣のほかに厚木市の宮の里地区などが準備された。

完成後、インクラインを利用したケーブルカーを設置するなど関東屈指の観光ダムとして現在も人気を誇る。

 

地理院地図より1970年代の航空写真

 

相模川流域に住宅が並ぶ。

ダム建設によって千名以上が移転を余儀なくされた。