森町 ― 桜とイカ飯とホタテ ―

今日は森町(もりまち)について調べてみた。

wikipedia:森町

 

人口は約1万6千人。

2005年森町と砂原町の合併により、現・森町が誕生した。

 

農業、漁業が盛んである。

道の駅は旧森町と旧砂原町に2か所建てられている。

 

森町の道の駅は裏手にオニウシ公園と青葉が丘公園がある。

道の駅自体はやや古い施設だが、公園と一体化しており特に桜の季節は観光客でにぎわっている。

公園中に桜が植えられており、桜を眺めながら散歩することができる。

 

砂原町の道の駅は漁業の街らしく、海産物のお土産が充実している。

4階の展望台からは砂原市街、太平洋、道南の名峰駒ヶ岳を臨むことができる。

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町内を国道5号線が縦断している。

砂原町方面は太平洋沿いに進む国道278号が市街を貫いている。道の駅付近には季節の花が4kmに渡って植えられており、訪問者を迎えてくれる。

 

鉄道も国道に沿って線路が引かれている。

森駅で5号沿いに走る函館本線と278号沿いの砂原支線に分岐している。

森駅では名物いかめしを販売している。

ボリュームにはやや欠けるものの、駅弁では全国でも屈指の人気を維持している。

 

函館が近いため、観光地としてはやや地味な印象があるが、町北部の濁川は温泉郷になっており、10軒程の入浴施設が存在する。

18世紀から利用されていた記録が残っており、伊能忠敬も訪れたという。

 

濁川温泉からやや南には鳥崎渓谷八景という景勝地もある。

ここは市街地からかなり離れており、喧騒とは無縁の世界である。

紅葉や渓流釣りが目的の人が多いようだ。

 

幕末、函館の五稜郭で戦った榎本武揚土方歳三が本州から上陸したのがこの森町である。JR桂川駅の近くに上陸の記念碑と資料館が建てられている。

当時函館は国際貿易港となっており、戦闘で被害を与えることは後々良くないと幕府軍は判断したようだ。

したがって、少し離れたこの地に上陸したそうである。

 

 

 

空から日本を見てみよう ― 会津若松市 ―

今回の空から日本を見てみよう福島県会津若松市

wikipedia:会津若松市

 

人口は12万人。会津地方の中心都市である。

 

江戸時代には会津藩の城下町として栄えた。

福島県西部の会津盆地の南東部に位置し、国道49号や国道121号、JR磐越西線只見線会津鉄道会津線などが集積する交通の要衝である。

 

戦国時代に蘆名氏が黒川城を築城し、以後は東北第一の城下町として栄えた。

蘆名氏が伊達正宗に滅ぼされた後は伊達氏、蒲生氏郷上杉景勝と城主が変わる。江戸時代には徳川秀忠の子、保科正之が入封して会津松平家の始祖となった。

幕末には藩主の松平容保京都守護職として活躍した。

大政奉還後には戊辰戦争の舞台となり、白虎隊の悲劇などを招く。

 

現在は郡山、米沢、新潟などの都市間の交通の便が良いこともあり、観光地としても有名である。

 

 

 福島のシンボルである猪苗代湖が市西部に位置してる。

日本で4番目の面積を誇り、水質も上位である。

年間を通して家族連れで楽しめるスポットになっている。

 

一方会津若松のシンボル、若松城鶴ヶ城

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 明治時代に取り壊しとなったが戦後復旧された。

明治時代に外国人が旅行した際に撮影されたものがフランスで出版された旅行記に掲載されており、取り壊し前の姿を知るうえで貴重な資料となった。

 

近隣には松平家の庭園であった御薬園も残されている。

 

市の東側には白虎隊の自刃の地となった飯盛山がある。

白虎隊記念館や旧滝沢本陣など歴史資料館が並ぶ。

市内には松平家墓所があったり、新選組近藤勇斎藤一の墓があったりなど幕末ファンは一度訪れるべき場所である。

 

市の南部には芦ノ牧温泉街がある。

行基弘法大師にまつわる伝説もある、古い温泉である。

 

赤べこや起き上がり小法師などの名産品も有名だ。

 

南隣の下郷町へ。

wikipedia:下郷町

 

人口は約6千人。

会津西街道の宿場町として栄えた。

特に大内宿は寄棟造の茅葺き屋根が並ぶ歴史的景観が評価され、県内でも有数の観光地となっている。

地球絶景紀行 ― テカポ ―

地球絶景紀行。今回はニュージーランドへ向かう。

wikipedia:ニュージーランド

 

人口は470万人ほど。行政機関が集中する北島と陸地面積が大きな南島及び小さな島々からなる国である。

マオリ人と呼ばれるポリネシア系の先住民族が約15%を占める。

古代より大陸と遠く離れていたため、独自の生態系を持つ。

大型の哺乳類は全く住んでおらず、モアやハルパゴルニスワシなど大型の鳥類を頂点とする生態系が存在していたが、乱獲によってこれらの種は絶滅した。

 

 

旅の最初は南島最大の街、クライストチャーチから。

 観光名所やマオリ族の文化に触れた後は絶景を目指して旅を続ける。

 

まず向かったのはマウント・クック。

標高3724m、ニュージーランド最高峰の山である。

登頂難易度は非常に高く、夏季でも数十メートルの積雪が残る。

悪天候と貧弱な登山道によって大半の挑戦者は途中で下山する。

 

ふもとの村では飛行機で氷河へ降り立つことができるツアーを組んでいる。

天候が良ければ身軽な格好で山中へ行くことも可能だ。

 

マウントクックから東に行くとテカポという名の湖と小さな村がある。

自然が多く残るニュージーランドでも特に美しい星空で有名である。

 

昼間はミルキーブルーと呼ばれる美しい水面や湖畔に咲き乱れるルピナス、羊の群れなどを楽しむことができる。

 

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そして夜が更けると「善き羊飼いの家」という名の石造りの教会やマウントジョン天文台などのスポットで星空観察だ。

マウントジョン天文台では日本語のガイドもあるらしいので、普段はなかなかお目にかかることができない南半球の星座を楽しもう。

 

また、テカポ湖には水着着用の温泉もあり、日本にいるかのようにゆっくりすることもできる。夜の星空ツアーに備えて体を休めておくこともできるだろう。

 

世界ふれあい街歩き ― セビリア ―

世界ふれあい街歩き。今回はスペイン南部の都市、セビリアを紹介。

wikipedia:セビリア

スペイン南部、アンダルシア州の州都で人口は70万。

セビーリャ、セビージャなどとも表記される。

スペイン第4の都市である。

 

グアダルキビル川に面しており、内陸の都市であるが大西洋から大型船が遡航することができる。そのため、港湾都市として発展してきた。

 

8世紀ころイスラム教徒の支配下となる。

1200年代にレコンキスタと呼ばれるキリスト教徒の国土回復運動によって奪い返された。セビリアの陥落によってレコンキスタはほぼ終了し、最後はグラナダを残すのみとなった。

 

セビリアの夏は気温が高く、近隣のコルドバとならんでヨーロッパでも有数の灼熱都市である。最高気温が35℃まで上がる日がザラである。

 

闘牛やフラメンコの本場であり、スペインを代表する建造物も多い。

国内屈指の観光都市である。

 

セビリア大聖堂

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 国内最大、世界でも3番目に大きい大聖堂である。

内部の建築にはイスラム教の名残も見られる。

コロンブスの墓やヒラルダの塔などがとくに有名だ。

 

スペイン広場

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万国博覧会の会場として作られた。

アンダルシア地方に多いムデハル様式を取り入れて作られている。

壁面にはスペインの各地方の歴史的出来事を描いたタイルが飾られている。

アラビアのロレンススターウォーズのロケ地となったことでも有名だ。

 

大聖堂と広場の間にはアルカサル(王宮)がある。

14世紀にカスティーリャ王ペドロ一世によって建てられた。イスラム時代の宮殿を意識した作りとなっている。

 

王宮のそばにはコロンブスレコンキスタの英雄、エルシドのモニュメントが建てられている。

 

セビリアコロンブスに馴染みの深い場所である。

インディアンス総合古文書館にはアメリカ大陸到達に関する資料やコロンブス、マゼランの直筆文書も保存されている。スペインの植民地であったアメリカ大陸やフィリピンの歴史を知るうえでとても重要な資料を所蔵している。

 

現在のセビリア大学はかつてのタバコ工場の跡地に建てられた。

このタバコ工場はオペラの名作カルメンの舞台となった場所と言われている。

主人公カルメンはこのタバコ工場で働いている設定だそうだ。

 

グアダルキビル川沿いには海の街らしく、海洋博物館の入った展望台(オロ・タワー)がある。かつては軍事施設であった。現在でも外観は当時のまま、石造りである。

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塔の北部には闘牛場がある。近年はスペイン国内でもやや肩身の狭い娯楽であるが、アンダルシア地方は発祥の地でもあり、伝統文化としての地位は変わらない。

 

サッカーでも有名な都市である。市内にはセビージャとベティスという2チームが存在し、国内でも屈指の激しいライバル意識むき出しのダービーである。

近年はセビージャがヨーロッパの舞台でも活躍しており、ベティスのサポーターはやや分が悪い状態だ。

 

 

 

紋別市 ― 流氷の町 ―

今日は紋別市について調べてみた。

wikipedia:紋別市

 

人口は2万3千人。

オホーツク海に面し、漁業が盛んである。

また、内陸部では酪農や畑作も主要な産業である。

 

道の駅は紋別港の南端に位置する。

 北海道立オホーツク流氷科学センターが道の駅として登録されており、有料ゾーンは科学館となっている。流氷やガリンコ号について詳しく知ることができる。

 

近くには巨大なカニの爪が屋外に立っている。

カントリーサインにも描かれており、紋別のシンボルの一つである。

かつては流氷の上に浮かべていたそうだが、現在では陸に1年中固定されている。

元々は昭和58年の流氷アートフェスティバルで制作されたらしい。

道の駅のすぐそばにあるので、気軽に立ち寄ることができる。

実際に行ってみると思ったより大きくてびっくりする。

 

道の駅の近くには砕氷船のガリンコ号も展示されている。

初代ガリンコ号は三井造船がアラスカ油田開発のために建造した実験線であった。

1985年に実験が終了し、観光船へと改造された。世界初の流氷砕氷観光船であった。

1996年に役目を終え、現在では陸地に展示されている。

2代目ガリンコ号はヤマニシが建造を請け負い、今なお現役でオホーツクの海を走っている。

 

ガリンコ号の発着点であるオホーツクタワーは流氷の下の海中を見ることができる世界初の海中展望塔である。

海底階はミニ水族館でもあり、海中を窓から眺めたり水槽の魚を見ることも可能だ。

 

近くにはとっかり(アザラシのこと)センターがあり、保護したアザラシの飼育や治療、研究などを行っている。運が良いとアザラシに触らせてもらえたりもする。

 

紋別の象徴でもある流氷だが、故郷はアムール川の河口である。

 

川から流れ出る淡水によって塩分濃度が薄まった海水が凍りつき、海流に乗ってオホーツク海へやってくる。アザラシや鳥類、キタキツネなども流氷に乗って北海道へ移動してくるという。

流氷の下は植物性プランクトンが豊富であり、プランクトンを餌にする海の生物たちも必然的に多くなり、豊かな漁場が形成される。

オホーツク海で毛ガニ漁などが盛んなのはまさに流氷の恩恵である。

 

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 紋別の観光スポットは港周辺が中心であるが、それ以外にも観光地が点在している。

 

内陸部にはテレビ中継局でもあるオホーツクスカイタワー。

紋別の町を一望できる。

 

南部の海岸近くにはコムケ湖、シブツノナイ湖がありキャンプ場も設置されている。

 

湖と市街地の間にはオホーツク紋別空港がある。

現在は東京との間に路線が就航している。

 

市街地には土産屋、飲食店、温泉施設が併設されたオホーツク氷紋の駅。

ここは、かつてJR名寄本線の紋別駅であった。

紋別市内には名寄本線と渚滑線が通っていたが、どちらも廃線となっている。

名寄本線と渚滑線は紋別北部の渚滑駅で交差していた。

現在国道238号と国道273号が交差する付近である。

国道238号に沿って走っていた名寄本線に対し、渚滑線は国道273号と同じ方角へ向かう。ただし、渚滑線は隣の滝上町との間を結ぶ盲腸線であった。

 

現在駅の遺構はほぼ存在しないものの、一部が鉄道資料館や公園となり、在りし日に駅があったことを後世に伝えている。

 

最後に金山について

紋別市には鴻之舞という鉱山があった。

住友金属が経営し、金銀銅を算出していた。

なかでも金の埋蔵量は国内三位と言われるほどであったが、昭和48年に資源枯渇のため閉山。

最盛期には1万人を超す集落であったが、今は慰霊碑といくつかの構造物に沈澱池が残るのみとなっている。