目次
1.小松島市
今日は2015年5月26日放送の空から日本を見てみようで紹介された徳島県の小松島市と阿南市について調べてみた。
1.1 小松島市の概要
人口は約3万5千人。徳島小松島港付近が市の中心部。
勝浦川と那賀川にはさまれた三角州で、神戸・大阪・和歌山・高松など近隣の中心都市と海上を通じて往来が盛んだった。
1.2 小松島市の歴史と狸合戦
貝塚・銅鐸・古墳などが出土し縄文時代から古代にかけて、人々が定住していたと考えられている。
平安時代には京都の小松にあった仁和寺の荘園があり、地名の由来と考えられる。源平合戦の屋島の戦いの折りに源義経が上陸した地ともされる。旗山には日本最大の騎馬像である源義経像が建てられた。
江戸時代になると蜂須賀家の支配下となる。海岸沿いの金磯新田開拓や紺屋・藍商人の活躍、讃岐や大阪でも流通した阿波藩札の引き受け方となるなど商業・金融の中心地として栄えた。
その頃の伝説として残るのが阿波狸合戦。
染物屋を営む茂右ヱ門がとあるタヌキを助けたところ、商売がみるみる繁盛。
先日助けたタヌキの金長の恩返しだという。金長はタヌキの世界での位を得るため今の徳島市にいるタヌキの総大将六右衛門の元に修行に出る。修行を終えた後引き止められるが金長は茂右ヱ門への義理からこれを断った。
残虐な性格の六右衛門はこれを逆恨みし、後日金長を襲撃。一度は敗れた金長だが仇討の戦いを挑む。六右衛門を倒したものの、この時の怪我が元で金長も間もなく命を落とした。
後に講談や映画でも有名になったこの話。
金長の子孫には後の人間国宝である桂米朝が声優として起用された。
他にも語りを古今亭志ん朝、その他柳家小さんや先代の桂文枝など当時の落語界のスーパースターたちが声優として出演している。
原作はこちら。
太平洋戦争前後にも映画が幾つも上映され、そのヒットの礼を込めて日峯山に金長神社が建立された。
1951年 市制施行。
1999年フェリーの発着が徳島市に移転。港湾都市の産業が徐々に衰退していく。
1.3 小松島市の観光地・史跡
前述の金長神社がある日峯山には小松島市を一望できる展望台がある。
弁天山には幕末に豪商多田家が藩のために設けた砲台跡が史跡となっている。
小松島駅は小松島ステーションパークとして整備され、開業当時の駅舎・蒸気機関車の展示・たぬき広場などが設けられた公園となっている。
2.阿南市
続いて南隣にある阿南市。
2.1 阿南市の概要
徳島県南東部に位し、人口は6万8千人。
城下町だった富岡地区、港湾のある橘地区が中心市街地。
県内最長の那賀川の河口があり、竹林が多かったことからタケノコの出荷が多い。
2.2 阿南市の歴史と平島公方
古代より人々が定住し、銅鐸の塗料であった辰砂(硫化水銀鉱物)を採掘していた若杉山遺跡は古墳時代の辰砂遺跡としては日本で唯一である。
室町時代末期に京を追われた10代将軍足利義稙は阿波で亡くなった。
養子である足利義維は三好氏の庇護を受け、その子である義栄は14代将軍となるが、織田信長にその地位を追われ子孫は再び阿波で暮らすこととなる。将軍家の血筋であることから阿波公方、あるいは平島公方家と呼ばれた。
江戸時代には藩主である蜂須賀家の客将扱いであったが禄高は少なく冷遇されていた。
1608年足利から平島に改称させられる。歴代当主は漢籍などに長けた者が多く、徐々に待遇が良くなっていったが、1805年一転して蜂須賀家を脱し、紀州徳川家の援助を得ながら京に転じた。
明治以後は家族となるべく運動するも、願いはかなわず阿波藩を脱藩していたため氏族にもなることなく平民として後の世を過ごした。
1958年市制施行。
2006年阿南市、那賀川町、羽ノ浦町が合併し現在の市域となる。
2.3 阿南市の観光地と史跡
四国八十八か所に数えられ空海の修業した地と言われる太龍寺・平等寺が市内にある。
城下町であった富岡地区の牛岐城跡はLEDライトアップで有名な公園になった。
細川家・三好家に仕え豊臣秀吉の朝鮮出兵でも活躍した森家の率いる阿波水軍。その根拠地は1586年に鳴門市の土佐泊から阿南市の椿泊へと移った。
当主である森家は徳島藩の水軍・参勤交代などに従事。館であった松鶴城跡は小学校となり、細い道に水軍時代の名残をとどめる細長い家屋が連なっている。
四国本土最東端の蒲生田岬には灯台が設置され、対岸の和歌山県紀伊日ノ御碕灯台を結んだラインが瀬戸内海と太平洋の境目となっている。
さらにその東には四国最東端の島、伊島。島内の野尾部湿原は日本の重要湿地500に指定されている。