空から日本を見てみよう ― 鳴門市~徳島市 ―

目次

   

1.鳴門市

今日は2015年5月19日放送の空から日本を見てみようで紹介された徳島県の鳴門市~徳島市について調べてみた。

最初は鳴門市からスタート。wikipedia:鳴門市

 

人口は約5万5千人。

阿讃山脈の東端に位置し、山地が多い。

吉野川北部が平地・市街地となっている。

淡路島との間には大毛島・島田島などがありさらにその先が渦潮で有名な鳴門海峡である。 海峡最狭部は1.4kmの幅で深さ90m。北側に深さ200m、南側に140mの深みがある。また海峡の南北にある紀伊水道播磨灘は潮時差がほぼ正反対で、最も差が大きくなるときは約1.5mの潮位差がある。これにより海峡中央部の潮流が非常に早くなる時刻に、岸側に近い穏やかな流れとの境目に発生するのが世界にも名高い鳴門の渦潮である。

 

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大鳴門橋鳴門公園からも眺めることができる。

 

徳島県は江戸時代には徳島藩蜂須賀家の領地であった。

鳴門には支城として撫養城があったが、一国一城令によって取り壊し。現在は石垣と観光用に建てられた模擬天守があり、一帯は妙見山公園として整備されている。

その他にも阿波水軍の根拠地であった土佐泊城木津城などの史跡が残っている。

 

建築家増田友也の代表作とも言われる鳴門市文化会館第一次世界大戦中のドイツ兵俘虜収容所の記念施設として建てられた鳴門市ドイツ館などが観光名所だ。

2.松茂町

続いては松茂町wikipedia:松茂町

 

 

人口は約1万5千人。吉野川の河口に形成された三角州を江戸時代に新田開発で開拓した地が大半。堤防に松を多く植えたことが町名の由来。

徳島市と鳴門市の中間に位置し、両市のベッドタウンとなっている。

北側を流れる旧吉野川はかつて吉野川の本流で、江戸時代の治水工事で流路切り替えが行われた。

大正時代の実業家樫野恒太朗の邸宅を移築し、現在は結婚式場となっている樫野倶楽部は国の登録有形文化財に指定されている。 

 

3.北島町

次は北島町wikipedia:北島町

人口は2万2千人ほど。県内で最も面積が小さく、人口密度は四国内で最も大きい自治体である。 

 

戦後間もなくからチューリップの栽培が盛んで、現在も北島チューリップ公園・中央公園ではフェアが行われ風車も建てられた。

日清紡や東亜合成化学、東邦レーヨンなどの工場が立地しており、かつては企業城下町として栄えた。近年は徳島市ベッドタウンの色合いが強い。

 

4.藍住町

続いて藍住町wikipedia:藍住町

人口3万5千人。 

 

江戸時代より藍の栽培が盛んであった。日本有数の暴れ川である吉野川流域に位置するため洪水の多い地であったが、藍は台風シーズン以前に収穫を行うため被害が少なく、洪水による土砂流入が連作障害を防ぐメリットもあり、明治時代前半も非常に栄えたが、明治時代末期には輸入品により急速に衰えた。豪商の奥村家屋敷が藍の館という博物館になっている。 

中世には東四国・淡路の政治・文化の中心地であり守護が居を構えていた。

勝瑞城跡は国の史跡に指定されている。 

5.徳島市

最後は徳島市wikipedia:徳島市

人口は約25万人の県庁所在地。 

 

江戸時代には徳島藩の城下町として栄える。特に藍産業が盛んで幕末には国内で10位に入る人口を抱えていた。

吉野川の河口の三角州に位置し、市内には140近い川が流れている。

市の中心部に位置する眉山は古くからシンボルとして親しまれている。 

ふもと近くには江戸時代に城主となった蜂須賀家政が築城した徳島城があった。

明治時代にほぼ全ての建物が撤去され公園となる。唯一残った鷲の門も第二次大戦の空襲で焼失した。 

現在は石垣や復元された鷲の門、表御殿庭園などが観光地として整備されている。

また、城内で凶事があった時のみに使われた数寄屋門にかかる数寄屋橋木橋として復元されている。

 

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その他には、蜂須賀家の墓所となった興源寺、池泉回遊式の庭園が名高い瑞巌寺、徳島を代表する祭りである阿波おどり会館吉野川橋、医学博士三河義行の邸宅であった三河家住宅、明治初期に建造された人形芝居の野外舞台である犬飼農村舞台などが名所として知られている。