新十津川町 ― 開拓の物語 ―

目次

 

1.新十津川町の概要

今日は新十津川町について調べてみた。

wikipedia:新十津川町

空知総合振興局中央部に位置し、石狩川空知川の合流部近く石狩川右岸を町域とする。西部は暑寒連峰の山々が聳えている。

人口は約6500人。道内でも有数の米産地である。

 

 

2.新十津川町の歴史

1889年奈良県十津川村で大水害が発生。

 

 

多くの村民が居住継続を断念せざるを得ない状況に陥る。

当時開拓が進められていた北海道へ、国の政策のような形で移住を進められる。

被災者約2500名が移住、小樽から幌内まで鉄道、その後滝川まで徒歩。

屯田兵屋で冬を越し、丸木舟で当時未開の地であったトック原野に渡る。

十津川村明治維新の際に、村を挙げて尊皇派を支援。さらに村出身のものが政府要職についていたこともあって、特別保護に値する移住とされた。

とは言え、道内各地と同様原野の開拓は並大抵の苦労ではなく、移住から開墾に至るストーリーは新十津川物語という小説さらにはドラマになり、カントリーサインもその姿が描かれている。

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1902年石狩川対岸の滝川と結ぶ橋が架橋。同年二級町村制施行で新十津川村となる。

現在の橋本町付近は交通の要衝となり役場や産業組合が置かれる。

この頃は自給用作物の他に亜麻の生産が盛んで菊水地区に北海道製麻の製線工場が建っていた。

しかし後年水害により畑は壊滅。この時影響の少なかった水稲耕作に切り替えが始まっていく。

 

1906年 滝川~浜益間の道路が開通。これは今の国道451号とは異なり、徳富川に沿って進む道であり途中には駅逓も設けられていた。

1907年 一級町村制施行。

大正期になるとほぼ全域が稲作地帯となる。

玉置坊主という冷害に強い品種を開発。農業生産力や財政が向上。

 

昭和に入り鉄道札沼線の開通が近づく。

駅の開業に関し、上徳富・高台・中徳富で2駅設置か3駅設置かの論争が勃発。結果3駅開業となったが今度は新十津川駅の名称を巡り高台地区と中徳富地区で紛争があった。

結局は高台地区は石狩橋本駅中徳富駅はそのままの名称となり1931年沼田~中徳富駅が開業。1934年中徳富浦臼駅間が開通。下徳富駅が開業。

翌年当別浦臼間が開通し札沼線が全線開業。中徳富駅付近が町の中心部となり役場や産業組合が移転する。

第二次世界大戦開戦後、不要不急線とされ運休。資材は樺太へ運ばれた。

 

戦後1953年に浦臼~雨竜が復元。この時に中徳富駅が新十津川駅に改称。

1957年町制施行、新十津川町となる。この年、国鉄気動車導入によるスピードアップで北上徳富・中徳富・下徳富に乗降場が設置される。

 

1972年札沼線新十津川駅以北が廃止。

2020年札沼線北海道医療大学駅新十津川駅間廃止。

 

3.新十津川町の観光地

市街地の中央公園には開拓記念館が建てられている。市街地北にある物産館はレストランを併設。建物は町で出土した化石をモチーフとしたクジラの形をしており独特な形状でよく目立つ。

橋本地区には1906年創業の金滴酒造。日本酒好きならぜひ立ち寄ってみよう。

町南西の総進地区には大規模な運動施設・温泉・キャンプ場・そして新十津川物語記念館などレジャー施設が一つのエリアにまとめられた。

 

徳富川上流には治水・灌漑用水を目的とする徳富ダム。

建設工事中にクレーンが宙づりになる事故があったが、幸い死傷者はいなかった。

カントリーサインにも描かれているピンネシリは標高1100m。

天候に恵まれれば、山頂から遥か羊蹄山まで見えることもあるそうだ。