札幌史跡探訪 ― 山本稲荷神社 ―

目次

 

1.厚別川

厚別川を渡ると白石区から厚別区へ入る。

区名の由来にもなった厚別川

豊平川の最大の支流である。

 

上流方向を眺める。直線の流路に河川敷の遊歩道。

 

この先を遡っていくとJR付近で婉曲し、三里川との合流地点である。

 

 

2.外まわりふれあいロード

橋を渡ってすぐに北東へ向かう斜めの細い道を進む。

車道の間に歩行者用の並木道。

外まわりふれあいロードという名がつけられている。

 

 

 

この通りは高圧送電線の下地を整備したもの。

 

大きな鉄塔が見える。

ここは南札幌幹線という南札幌変電所~北江別変電所を結ぶ送電線の一部分。

この道に沿って北へ進むと山本稲荷神社の正面に出る。

最初は参道なのかと思ったが、そうではないようだ。

 

3.山本稲荷神社

というわけで神社へ拝観することに。

 

 

住宅街の一角に木の茂る空間が残されている。

明治末期に建立、「山本」とはこの付近の開拓の祖である山本久右衛門氏の名から取ったらしい。ここからさらに北へ行くと住所も山本である。

山本家は現在の青森県むつ市から蝦夷地へ進出した商家であった。

初代久右衛門は松前で米・味噌・塩を取り扱う商店を開く。

二代目は漁業へ進出し日本海の離島(天売・焼尻・利尻・礼文)に幾つもの漁場を持つようになった。

 

そして三代目が上記の久右衛門。彼は小樽へ進出し海運業を主とした。

小樽倉庫の社長、北日本汽船の設立にも関わった。

1909年私財を投じてこの地の開拓を図る。

 

 

今昔マップより

1935年の地図では神社の記号が記されている。まっすぐに進む一本道と周りに水田が広がっている。 

 

 

4.山本用水

 

境内には山本用水の記念碑が建っている。

変わった形の立派な記念碑だ。

 

隣には用水のあゆみ。

1919年に厚別川から水田・飲用のため取水を始めたのが用水の成り立ち。

終戦を待たずして山本九衛門の子息である山本厚三が低廉価格で小作人名義へ。

農地改革に先んじて小作人開放の端緒となった。

 

裏側には山本開基百年の碑文が記されている。

 

残されているのは用水についての記録であるが、開拓当初の苦難は排水。

ここも毎度おなじみ泥炭地で厚別区内でも最も開拓の遅かった場所、

1920年排水溝が掘削され、後に山本川となる。

山本稲荷が面している道路は排水溝と共に古くからある道。

暗渠が中央分離帯となっている。

 

ちなみに現在山本稲荷神社の住所は山本ではなく厚別西4条。

今昔マップを見ると1975年の地図では厚別西市街の外れに位置していたが、市街化が進み1990年代には住宅街に飲み込まれていた。

今は厚別西としてJR北側から住居表示されているが、開拓時は線路沿線と山本地区で発展の歩みは異なっていたようだ。