道北をいっぱい巡った。 ― 抜海駅 ―

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1.抜海駅(ばっかいえき)

道道510号線を北上し、次の抜海駅に到着。

 

 

駅前は建物が数軒。さらに周囲には牧場が点在している。また、少し東に行くと漁港がメインの抜海集落がある。冬にはアザラシの群れがやってくることで名が知れている。

かつては宗谷地方唯一の不凍港ということもあって、漁港だけではなくフェリーも発着していそうだ。

 

日本最北の木造駅舎、抜海駅。屋根や写真右側の部分などはかなり古そうだ。

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待合室の中はがらんとしているが、掲示物が多い。

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1970年前後の抜海駅と芦川駅の様子。真冬に雪原を走るSLも写っている。

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力強い自体の駅名看板。

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こちらは相当な年月が経っている様子。

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ひらがなバージョン。よくある琺瑯看板とは違うのかな。

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こっちはよく見るサッポロビールとセットの看板。

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この駅、看板の数も多いしバリエーションが豊かだ。

 

稚内方面。かつてはこちら側に貨物引込線があったようだ。

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名寄方面。構内踏切が見える。

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夕方になってきて赤茶けた線路に影が差し、よりいっそう寂しさが際立ってきた。

 

2.抜海駅と近隣の歴史。

1897年に夕来駅逓が設置される。当時は季節的漁場に過ぎなかったが、徐々に入植者が増え始め物資の集散地となる。しかし交通不便は変わらず。

抜海駅は1924年稚内駅~兜沼駅間の開通に伴い一般駅として開業。

1977年貨物取扱廃止、1984年旅客業務無人化、1986年完全無人化となった。

2021年3月で廃止予定だが、地元住民との話合いは継続中の模様。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

駅前にはもう少し民家が多く、線路沿いの防雪林もなさそう。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 勇知駅 ―

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1.勇知駅

兜沼駅から道道616号、そして道道510号線を北上。

ついに稚内市に入る。

この辺りに来ると広い平原ではなく、どちらかというと丘陵地帯になってくる。

 

最初の集落、上勇知にある勇知駅に到着。

 

 

ここは日本最北の貨車駅。

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ここも金属サイディングで綺麗な外壁になっている。

白い貨車と色とりどりの花で、ひび割れた舗装がなければ駅というより渋いガーデンのようだ。

 

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ホーム側から。こちらにも花壇に花がモリモリ。

 

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駅横にも花壇。

ここは駅前に郵便局や駐在所、商店もあってそれなりの規模の集落を成している。

近隣の人々が駅の手入れもしてくれているのだろう。

雄信内駅辺りと比べるとかなり明るい雰囲気だ。

あそこはあそこで味があるのだけれど。

 

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名寄方面。この駅もかつては2面2線だった。

草叢がその名残。

 

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稚内方面。終点稚内駅までは30kmほどとなった。

 

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駅の中はホルスタイン柄のクッションがびっしり。

窓に貼られたJRの文字が床に写っているのがちょっと好き。

 

2.勇知駅と近隣の歴史

勇知地区の入植は1899年下勇知地区に始まる。

大正初期の1910年代始めには浜勇知地区で木材加工などが盛んになるが、海岸の浸食が進み賑わいは短期間に終わる。

一方で1913年頃から上勇知地区への入植者も増え始める。

勇知駅は1924年稚内駅~兜沼駅間開通に伴い一般駅として開業。

イモの出荷がメインとなる。1953年冷害で一時的に畑作が激減するが1982年頃から薯づくりが復活。現在も盛んに栽培されている。

1982年貨物取扱廃止、1984無人化、1980~90年頃駅舎改築で貨車駅となる。

かつての木造駅舎はこちらに掲載あり。

 

週刊 JR全駅・全車両基地 2013年 10/13号 [分冊百科]

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  • 発売日: 2013/10/03
  • メディア: 雑誌
 

 

1970年代の国土地理院地図の航空写真。

 

名寄側に貨物積卸場。稚内方面外側にも引込線がある。

集落の家の数も今より多そう。

駅南東にあった上勇知小中学校は2016年で閉校となった。

 

3.簡易軌道勇知線

かつて勇知駅から下勇知地区へ馬力による簡易軌道が敷かれていた。

 

1944年から工事が始まり、1947年に全線開通したようだ。木材などの運搬を行っていたらしい。

しかし1955年には早くも運行休止、1958年廃止となった。

歴史が短く、駅にも痕跡はほぼ残っていない様子。

 

道道811号そばを通っていたようだが、こちらも痕跡を見つけるのは難しい様子。

藪を漕いでいけば、もしかしたらレールのかけらなどを発見できるかもしれない。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 兜沼駅 ―

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1.芦川駅跡

徳満駅から再び国道40号線を進む。

途中に廃駅となった芦川駅があったが、気づかずにスルー。

 

ストリートビューで見ると駅前広場だった場所に何か資材が置いてあった。

一般人は立入しない方がいいのかもしれない。

 

芦川地区は開拓当初モサロという地名であった。

芦川駅は1926年幌延駅~兜沼駅の開通に伴い一般駅として開業。同時に地名も芦川に改称。線路はサロベツ川に並行するように建設されたがかつては物資運搬用波止場も近くにあったそうだ。

近隣は水害が多く、開発が難航。戦後入植者が酪農を行うようになる。

1984年旅客業務を無人化。1986年交換設備廃止で完全無人化。

2001年利用者僅少のため廃止。

最後は貨車駅となっていた。

「北海道 芦川駅」の検索結果 - Yahoo!検索(画像)

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

駅前には貨物積卸場らしきスペースがあるが、使われていない様子。

開拓の起点としての期待も大きかったようだが、厳しい環境に勝てず、民家は僅かに点在しているのみである。

 

2.兜沼駅

続いての目的地は兜沼駅。

国道40号線から離れ、道道1118号を進むと兜沼の集落に到着。

駅は町の南端にあった。

 

郵便局やJAの家畜診療所もあり、ある程度の規模を持つ集落である。

 

ちょっと不思議な形の屋根を持つ小さな駅舎。

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無人駅ではあるが2面2線構造を維持している駅である。

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ホームは砂利敷き。

 

旭川方面を望む。

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向かいのホームは草生している。

かなり古そうな造りのホームだ。

 

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かつての貨物線跡には保線用?除雪用?の車両が忘れられた様に停まっていた。

 

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ホームの奥に見えるのは兜沼。

森林に囲まれた水鳥の飛来地で、オートキャンプ場も整備された公園だ。

偶然だがホームの切れ目が写っていた。

ずいぶん違う造りなのはなぜだろう。

 

3.兜沼駅と近隣の歴史

兜沼地区は1902年、現豊富町内で最初に開拓が始まった。

1909年上サロベツ駅逓が設置。

兜沼駅は1924年稚内駅~当駅間の開通により一般駅として開業。

2年後に当駅~幌延駅が開通し、宗谷本線が全線開通。

豊富町で最も古い駅である。

この頃は澱粉工場や駅裏に木工場、駅前には鉄道官舎も建てられていた。

 

1982年貨物廃止。1984年旅客無人化。1986年完全無人化。

1988年に駅舎が改築し現在の姿となった。

木造駅舎の様子はこちらに掲載あり。

 

週刊 JR全駅・全車両基地 2013年 10/13号 [分冊百科]

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1985年までは兜沼側に副本線と側線が一本ずつあったが、撤去済みである。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

貨物はすでに取扱いがほぼない様子。

 

駅のそばにある、現在の郵便局の隣に立っている建物は元郵便局でこの当時は現役。

今は郷土資料室になっているそうだ。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 徳満駅 ―

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1.徳満駅

豊富町中心部を抜けて国道40号線を北上。

酪農地帯の隙間を通るような道を進んでいくと、徳満駅に到着。

 

 

 

駅の周囲は民家が点在し、国道沿いの駅前らしい風景が微かに残っている。

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待合室は簡易な造り。木製看板の駅名は辛うじて読み取ることができる。

 

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名寄方面。

乗車口の看板が立っている。

ホームは非舗装。こちら側に貨物積卸場もあったようだ。

 

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稚内方面。

かつては2面2線構造。

線路と林の間の草むらがホームと線路の名残。

 


2.徳満駅と近隣の歴史

周辺は1907年頃から開拓が始まる。

徳満駅は1926年一般駅として開業。1921年からこの辺りは「福満」という地名であったが、駅開設の際に富山県城端線に「福光駅」という同音の駅があった。

国鉄の都合なのかわからないが、わざわざ地名も「徳満」に変えて駅名としたそうだ。

1977年貨物取扱廃止。1984無人化。2000年頃に開業時からの駅舎が撤去され現在の駅舎になった模様。

 

1960年代の国土地理院地図の航空写真。 

 

駅舎名寄側に引込線と貨物積卸場が見える。

木材が積まれているのだろうか。

周囲の民家も今より少し多そうだ。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 豊富町のマンホール ―

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1.豊富駅観光案内所

豊富駅の向かって右手の観光案内所にも立ち寄る。

 

 

こぢんまりとしたスペースでレンタサイクルの受付やお土産を販売していた。

 

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北海道の地図に元気な子牛が描かれている。

酪農の町らしいデザインだ。

 

2.マンホールカード

続いて町役場へ移動。

 

 

ここでマンホールカードをいただく。

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豊富町は2種類のマンホールカードを配布している。

サロベツ原野から利尻富士を望む。

デザインは春バージョンと秋バージョンだ。

 

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裏面はエゾカンゾウとエゾスカシユリにそれぞれフィーチャー。

 

町の名所、サロベツ湿原と油分でドロリとした泉質が有名な豊富温泉についても記載。

ともに自転車でも可能な距離にあるのでサイクリングを楽しむのもいいだろう。

 

原生花園に建てられたビジターセンター

 

かつては海とつながる大きな湖であったサロベツ湿原。

現在は泥炭が積み重なった巨大な湿地となった。

 

豊富温泉は日本最北の温泉郷


 

石油や天然ガスと共に湧出するため油分を含む、世界的にも珍しいとされる温泉。

アトピーなどの治療にも有効とされ、湯治客も多い。

もちろん一般の人も入湯可能。サロベツ観光の拠点にも便利だ。

 

日曹炭鉱専用線が現役のころは温泉という停留所も存在していた。

専用線と言いつつも周辺住民の利用や牛乳の運搬なども行っていたそうだ。