喜亭 ― 辛みそラーメン ― 

水族館を見物して、ちょうど昼の時間。

道の駅はなかなか混雑していたので、ちょっと散歩がてら千歳市街の方へ行ってみる。

子供がラーメンを食したいとせがむので、一番近くにあったお店へ飛び込んでみた。

 

 

みそラーメン喜亭というお店。

 

昔ながらのラーメン屋の雰囲気で、カウンターが数席に4人掛けの座敷席が3つ。

入口にある販売機で食券を購入。

 

大将は口数の少なそうな硬骨漢の雰囲気だが、店内は奥さんの趣味なのか無数のキティちゃんグッズが犇めいている。

そう、店の名前はキティを漢字で書いたものなのだ。

 

さて、肝心のラーメン。店名でもみそをプッシュしているのでそれに従うことにする。

f:id:kamonji224:20210922232551j:plain

今回は辛味噌ラーメンを選択。

写真ではわかりにくいが、チャーシューはなかなか分厚い。

麺もわりと食べ応えがあるやや太めサイズ。

ビジネスホテル街に立地のこともあってか、サラリーマンが好きそうな感じである。

インパクトはあるが尾を引く感じではないのでスープも飲みやすい。

辛さと旨味を堪能。化学調味料無添加とのこと、我が家は特に気にしないが人によっては重要なポイントだろう。

 

女性客にも人気のメニューもあるようで、間口の広いお店らしい。

サケのふるさと千歳水族館 ― インディアン水車 ―

目次

 

 

1.サケのふるさと千歳水族館

某月某日、この日は千歳にある水族館へ。

 

 

道の駅と隣接しており、淡水では国内最大級となる規模の水槽を持つ。

まずは入って最初の大水槽が並ぶサーモンゾーン。

f:id:kamonji224:20210920135241j:plain

成魚の他にチョウザメも泳ぐ大水槽。

 

成長状態によって水槽が分類されている。

f:id:kamonji224:20210920135328j:plain

 

 

その次は支笏湖ゾーン。

今はもう行くことができなくなってしまった苔の洞門ジオラマにしたトンネルを抜けると、実際に支笏湖の水中に生息する魚たちが展示されている。

チップの愛称で知られるヒメマスを筆頭に、若干地味な生き物たちだが、支笏湖の深い碧色を再現するなどこだわりが感じられる。

 

この後千歳川ロード、世界の淡水魚ゾーン、水中観察ゾーンなどを見学。

f:id:kamonji224:20210920155936j:plain

 

2階は人間とサケの関わり、アイヌのサケ漁、サケレシピなどのアカデミックなパネル展示が中心。

 

2.インディアン水車

水族館を見学した後は、外の公園でちょっと遊ぶ。

f:id:kamonji224:20210920160716j:plain

敷地内にはカラーマンホールも。

サケと新千歳空港の飛行機、そして支笏湖が描かれている。

 

f:id:kamonji224:20210920161018j:plain

新しめのコンビネーション遊具に子供たちが群がっていた。

 

f:id:kamonji224:20210920161215j:plain

千歳サケの里と記された大きな石碑。

 

f:id:kamonji224:20210920161315j:plain

サケの里についての沿革が記された石板。

かなり見えにくいが、サケマスふ化場やインディアン水車などについて書かれている。

1888年千歳川流域にサケマス孵化場が建設、建物脇に設置された捕魚車(インディアン水車)は抱卵した親魚の捕獲に使用されている。

 

千歳川に架かるインディアン水車橋。

f:id:kamonji224:20210920161641j:plain

千歳という地名の由来も。

 

f:id:kamonji224:20210920162128j:plain

赤と青のひと際目立つ設備を発見。

 

f:id:kamonji224:20210920162303j:plain

これが噂のインディアン水車。

 

f:id:kamonji224:20210920162448j:plain

間近でみると結構大きいものだ。

 

f:id:kamonji224:20210920162706j:plain

アメリカが発祥で、日本に持ち帰って来た際にインディアン水車という通称が定着した。電力を使用せず、水力のみで回る水車は道内で唯一。

遡上するサケの群れ、千歳川の捕獲風景は季節の風物詩となり見学客も増えてきたことから千歳市は1979年にサーモンパーク構想を計画。徐々に工事を行い現在の姿となった。

 

今昔マップより

左上1896年の地図では周囲は農地ばかり。まだ市街地もできておらず国道が通るのみ。

1935年になると鉄道も敷かれ、鮭採卵場の文字も確認できる。

1970年代の航空写真ではすっかり住宅街が形成されているが、千歳川の流域はわりと自然のまま残っているようにも見える。

そして1990年代になると完全に住宅街に飲み込まれた千歳川を守るように、サケのふるさと館という文字が確認できた。現在の施設は2015年にリニューアルオープンされたものだ。

芦別・赤平探検 ― 赤平市マンホールカード ―

目次

 

1.赤平市マンホールカード

茂尻駅から赤平市街を通らずに空知川対岸のバイパスを取って帰路につく。

最後に立ち寄ったのはAKABIRAベースという物産店。

 

 

ここではマンホールカードを配布している。

f:id:kamonji224:20210919210514j:plain

火祭りの行われるズリ山。

住友炭鉱の立坑。

そして赤平駅を併設している交流センターみらいが描かれている。

 

描かれているものは全て赤平駅周辺に点在している。

f:id:kamonji224:20210919210559j:plain

次回はこの辺りを中心に周ってみることにしよう。

 

2.AKABIRAベース

ドラマ「不便な便利屋」のロケ地となった赤平市

その中でモチーフとして使われたクマゲラの姿をデザインした建物が目印。

地元の野菜に、鳥脚の唐揚げやバーガーなどのファーストフード、その他お土産の販売に観光案内などを行っている。

市内には道の駅がないのでその代わりとなるような施設。

コンビニもそばにありドライブの休憩に最適な場所だ。

芦別・赤平探検 ― 茂尻駅 ―

目次

 

1.茂尻駅

平岸駅から隣の茂尻駅へ。ここも同じように国道38号線から少し南側に位置している。

 

 

 

駅舎は高台に位置している。空知川河岸段丘だろうか。

f:id:kamonji224:20210918131842j:plain

今日見てきた平岸駅・上芦別駅・野花南駅とは違って、もう少し古そうな駅舎。

 

駅前を眺める。奥に見える山々の手前には空知川が流れている。

f:id:kamonji224:20210918133231j:plain

駅前広場は大きめ。花壇が綺麗に手入れされている。

 

続いて待合室内へ。

f:id:kamonji224:20210918133835j:plain

駅の南東にあった、雄別茂尻炭鉱の風景画。

1965年頃の様子。ずり山が高くそびえ、奥には竪坑櫓と炭鉱住宅群が見える。

 

タンチョウの絵も架けられていた。

f:id:kamonji224:20210918134521j:plain

 

滝川方面。幅が狭めの跨線橋が特徴的。f:id:kamonji224:20210918135057j:plain

ホームは1面2線。駅舎側の線路は撤去されたのだろうか。

 

f:id:kamonji224:20210918135413j:plain

芦別方面。ホームの奥に南北の集落を繋ぐ人道跨線橋が見える。

駅舎側には貨物ホームがあったのだろうか。

 

f:id:kamonji224:20210918140003j:plain

駅名が平仮名で記されている。なんとなく尻が並んでいるように見える字体なのは狙っい通り? 特に「も」の曲線具合がかなり個性的だ。

 

ちなみに地名は「もじり」だが駅名は「もしり」。由来となったアイヌ語は駅東側に流れる桂川を表す「モシリケシオマナイ」なので駅名の方が元の言葉に近いみたい。

 

2.茂尻駅と近隣の歴史

大正期財閥系の大倉鉱業がが茂尻炭鉱を開坑。赤平初の大規模炭鉱となった。

国鉄は運炭用専用線の敷設と合わせ茂尻駅を貨物駅として1918年に開業させる。

1926年旅客扱いも開始し、一般駅となる。

 

それまで桂川空知川の合流点近くに波止場があり、その周辺に市街地があったが一般駅開業に伴い駅周辺に移転する。

 

1929年各坑口から選炭場までの馬車軌道が電車軌道となる。

 

1935年経営が大倉鉱業から釧路の雄別炭鉱に移管。

この後最盛期を迎えることとなる。

在りし日の茂尻炭鉱の姿はこちらから。

 

1960年代の国土地理院地図の航空写真。

 

駅東側から専用線が分岐、大規模な施設へ進んで行く。

駅裏南側、駅表側の東には炭鉱住宅が列をなしており、今でも一部は改修後残存しているようだ。

 

1969年茂尻炭鉱のガス爆発でかなりの数の死傷者。すでに採炭は下降線をたどっていたこともあり同年閉山。これがきっかけで資金繰りが急速に悪化、翌年廃業となった。

茂尻炭鉱は経営権を譲渡して表層の露頭炭のみ採炭を行うこととなった。

 

1974年茂尻炭鉱が完全に閉山。貨物取扱廃止となる。

 

1982年、職員無配置駅となり現在に至る。

kamonji224.hatenablog.com

芦別・赤平探検 ― 平岸駅 ―

目次

 

1.平岸駅

芦別市内に別れを告げて、国道38号線を西へ進む。

赤平市内に入ってまずは平岸駅に立ち寄り。

 

 

空知川と国道沿い、僅かに南を走る根室本線の駅。

f:id:kamonji224:20210917233243j:plain

赤い屋根、窓枠横のやや薄い朱色のライン、そして赤煉瓦の衝立?が特徴的な駅。

 

f:id:kamonji224:20210917233635j:plain

跨線橋を支える柱はかなりサビサビ。2面2線のホーム構造だ。

 

f:id:kamonji224:20210917233949j:plain

線路の間は夏草が茂っている。

かつてはここにも線路が通っていたのだろう。

 

f:id:kamonji224:20210917234707j:plain

跨線橋には扉がついている。

薄い水色が基調だが、赤茶けたさびでだいぶ草臥れた印象だ。

 

f:id:kamonji224:20210917234951j:plain

駅前の風景。駅前広場は小さな砂利が敷かれ、国道との間のわずかな距離に住宅が点在している。

 

2.平岸駅と近隣の歴史

平岸駅は1913年根室本線の一般駅として開業。

それ以前から幾つかの中小炭鉱があったようだ。鉄道開通に伴い駅東側に市街地ができ始める。

1922年、空知川対岸の豊田炭鉱から駅裏東側の原動所へ続く索道が設置。

1930年には大谷炭鉱からも索道が設置、共に専用線も敷設される。

戦時中炭鉱は休山され、変わって日本油化工場が建設。専用線も使用されるが終戦後間もなくして閉鎖。

 

1947年旧豊田炭鉱が平岸炭鉱と名を変えて再稼働。選炭場が建設される。

1952年には北菱平岸炭鉱が稼働。こちらも選炭場を建設。

 

1950年頃の国土地理院地図の航空写真。

f:id:kamonji224:20210918000802p:plain

駅裏には炭鉱施設が広がっている。

国道と空知川の間の狭いスペースには炭鉱住宅街とみられる建物が並ぶ。

 

しかし、1963~1964年にかけて上述の両炭鉱とも閉山。

1976年には貨物取扱も廃止となる。

 

1970年代の国土地理院地図の航空写真。

 

駅裏は完全に整地され、住宅も建っている。

駅裏側の炭鉱住宅街は今も名残を残しているようだが、国道と空知川の間はすっかり様変わりした模様。

 

1982年、駅員無配置駅となり現在に至る。

 

kamonji224.hatenablog.com