食事を終えて店を出る。
市内を東西に横切る「三井通り」を通って町の東側へと進んでいく。
道は途中で南へとカーブして、昭和の街並みが色濃く残るエリアへ到着。
まず車を停めたのはとある公園。
ここはかつて児童数3千人、道内一のマンモス校であった三井美唄小学校跡。
この辺りは三井美唄炭鉱で働いていた人々が住んでいたエリアなのだ。
今は校舎の名残はなく公園になっている。
校門跡だけが確認できるが、写真は撮り忘れた。
草が伸びていたが、遊具はしっかり整備されている様子。
この日は天気があまりよくないこともあってか子供の姿は見えず。
花壇も綺麗に管理されているようだ。
さて、ここで国土地理院地図で1960年代の航空写真を見てみよう。
広い校庭が確認できる。はっきりとはわからないが既に建物の一部は解体された後かもしれない。
そして学校の南側にあるのは南美唄駅。
美唄駅からの支線であり1931年貨物駅として開設、1963年三井鉱山が閉山、1971年旅客廃止、1973年三井鉱山の跡を引き継いだ三美鉱山も閉山となり、その年に廃線となった。
今では校舎の跡と同様、小さな林のような草地になっている。
最盛期は相当大規模な貨物駅であったはずだが、今は跡形もない。
再び車を走らせ、周辺をドライブ。
鉱業所跡の記念碑。
三井鉱山の経営は1928年から。炭鉱自体はそれ以前から別な会社に経営されていたようだ。戦前から戦後1960年ごろまでは日本でも有数の産出量を誇っていたらしい。
旧三井美唄炭鉱事務所の建物は今も健在。
三井美唄炭鉱は閉山となって久しいが、跡を引き継いだ形の三美工業株式会社は今も美唄市内で石炭の露天掘りを行っている。この建物はその社屋となって現在に至る。
現在の三井美唄地域は炭鉱に纏わる設備などはあまり残っていないため、三菱美唄の竪坑櫓などに比べると目立つようなシンボルはないかもしれない。
しかし、その代わりと言っては何だが他の炭鉱地域ではあまり残っていない炭住が、現在も多く残っている希少な場所なのだ。
朽ち果てたもの、そのまま今も人が住んでいるもの、改装されたものなど様々だが未だかなりの数の住宅が残っており、道もおそらく当時のまま。
これらもまた、当時の生活を現在に伝える立派な産業遺産の一つと言っていいだろう。
国道12号線へ戻る道。知らず知らずのうちに高台へ来ていたようだ。