鷹栖町 ― 上川のはじまり ―

目次

 

1.鷹栖町の概要

今日は鷹栖町について調べてみた。

wikipedia:鷹栖町

 

人口は7千人弱。

上川盆地の北部に位置し、小高い丘に囲まれている。

北は和寒町、残り三方は旭川市に隣接。町の中心部からは旭川駅まで車で25分の距離で、高速道路のICもあり、比較的交通の便がよい。

 

農業が主産業で、稲作は品質・収穫量共に道内でも屈指。きゅうりやトマトジュース「オオカミの桃」で知られる。

 

2.鷹栖町の歴史

開拓の始まる前、この辺りはトンビにハイタカオオタカなど大型の野鳥が多く生息していた。そのことからアイヌ語で「大きな鳥が住む所」という意のチカプニ原野とよばれるようになる。

1891年チカプニ原野に団体移住始まる。

1892年石狩川右岸(石狩川水源~神居古潭まで)を鷹栖村とする。村名の由来はチカプニの意味を漢字に訳したもの。人口は200人程度であった。

当初は永山村戸長役場の所管。やがて小規模な商店が建ち、人口は順調に増え始める。

1895年には人口2千人を数え、単独の戸長役場が設置された。

 

やがて1897年愛別村、1906年比布村を分村する。同年二級町村制施行。

1900年頃から第7師団の建設工事で往来が増える。

近文線~3線にかけて市街地が形成された。

1909年一級町村制施行。

明治期はハッカ、でんぷん、亜麻、肥料など工業も現れたが、おおむね農業が主産業であった。

 

大正期、それまで北海道の商都であった小樽から旭川独自の経済圏が確立されはじめる。鷹栖村は旭川市に依存しており、商業は大規模化しなかった。

1924年 東鷹栖・鷹栖・江丹別の三村に分割。鷹栖村は主にオサラッペ川流域の原野を主とした。

1898年に開業した神居古潭駅や伊能駅は旧鷹栖村域にあった。

 

1955年 江丹別村が旭川市編入

1969年 町制施行し鷹栖町となる。同年東鷹栖村も町制施行するも、1971年旭川市編入し三村に分割した旧鷹栖村のうち鷹栖町のみが独立した自治体となっている。

 

3.鷹栖町の観光

旭川市との境界付近にある嵐山。旭川市の観光地として人気だが、鷹栖町側にはアイヌの城跡であるチャシ、そして旭川開拓の導となった国見の碑がある。

 

1885年、後に道庁の初代・2代目長官となる岩村通俊と永山武四郎がこの山に登る。

当時はまだ原野であった上川地方開拓の計画を練るためだ。

広い土地と豊かな山河に発展の可能性を見出し、札幌と同じく京都の町造りを範とするべく活動を始めた。後に二人は上川に東京・京都と並ぶ北京を設置すべく運動するまでになる。

願いは叶わなかったが、第7師団の設置を始め札幌とは性質を異にする発展を続けることになる。

その始まりがこの地における二人の国見であったのだ。

 

近年、観光地として整備されているのがパレットヒルズ。

町の北部にある高台でレクリエーションやイベントが行われている。

 

カントリーサインに描かれていたかすメロディーホールを始め、町の各施設には音楽に関わる名称がつけられている。

そのはじめとなったのがメロディー橋。

町内最後の永久橋建設となった北野橋を何か特色のある橋にしようと計画し、小学生の通学路でもあった事から橋の鉄筋を叩くと音楽を奏でる日本で初めての橋となった。

曲は夕焼け小焼け。

 

 

鷹栖町カントリーサイン

大雪山連邦をバックに町の名産品であるトマトとジュース、そして上述の鷹栖メロディーホールが描かれている。

 

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