余市でサイクリング ― よいち水産博物館 ―

目次

 

1.先人カード

福原漁場から市街へ向かって自転車を走らせる。

次の目的地は運上屋の裏手にあるよいち水産博物館。

 

 

まずは受付で先人カードを頂く。

アイヌ民族出身の歌人違星北斗

 

本名は瀧次郎。

父は漁業を営んでいた。教育熱心な家だったが、学校では差別に苦しみ進学を断念。

北海道各地で職を転々とするうち病に侵され、地元へ戻った。

地元では恩師の指導の下、文学活動を行う。機関誌の発行などに携わるうち、人脈が広がり東京での事務仕事を斡旋される。

東京では金田一京助に師事し、知里幸恵知里真志保姉弟やバチラー八重子など同族の活躍を紹介される。また、金田一の伝手で名士や出版人との交流もあった。

やがてアイヌの向上を願い、北海道へ戻りコタンを周り啓蒙活動を始める。

旅の途中では上述の同志たちとも出会い、交流を深めた。

病の療養と資金集めの家業を手伝いを繰り返す一方で、フゴッペ洞窟の考察や短歌・随筆の執筆に励む。歌人としては評価が高まりつつあったが、病が悪化し27歳という若さでこの世を去った。

 

 

 

2.よいち水産博物館

続いて博物館内部を見学。

大きな船の模型が

 

建物からもはみ出している。

 

これは北前船として活躍した弁財船という船。

船首が太く速力や凌波性に優れ、廻船問屋達が利用していた。

1階には図書コーナーもあります。

 

2F・3Fは水産だけではなく郷土に関わる資料の展示。

北海道北部を含むオホーツク海域に栄えた、今も謎の多いオホーツク文化

 

一方本州からは鉄製武具や須恵器などが入って来る。

 

土器や石器が数多く展示されているが、出土したのはこれらの遺跡から。

 

急に近代の話になるが、急峻な地形の積丹半島にはなかなかきちんとした道路の掘削がされず、舟運が重要な交通路であった。

 

その時代に船着場だった茂入桟橋の写真。

 

漁場としては早くから開けていた余市だが、内陸部は明治維新後に開拓された。

 

開拓を担ったのは主に会津藩から移住してきた人々。

会津藩主の子孫である福島県知事と、会津からの移住者(の子供かな)のお婆さんとの交流。

 

会津藩の人々が多く住んでいた侍小路について。

 

余市町の名産、リンゴの栽培史。

 

植樹から4年、初めての結実。

 

余市駅でもリンゴが良く売れた。

 

消費地は小樽や札幌だけでなく、道内各都市から船で本州やロシアまで運ばれた。

 

なれない農作業に苦労していた人々にとって、リンゴは最初の光明だった。

 

アイヌ民族のスペースも充実。ヨイチの由来について。

 

土砂の利用で現在は姿を消した天内山にはアイヌのチャシがあった。

 

和人がやってくる前は河口付近にアイヌのコタンがあった。

 

 

明治5年頃、余市の熊祭りの図。

 

皆で記念撮影。

 

ヨイチでは14世紀にアイヌ文化が確立した様子。

アイヌの人々は多くの生き物を神として祀っていたが、シャチもその一つ。

レプンカムイと呼ばれ、海の生き物たちを従えていた。

 

 

ゴールデンカムイではシャチはクジラの肉を届けてくれる神。

進んで獲ることはないが死んで浜に打ちあがったら食べる

 

シャチの頭骨。

 

もちろんニシン漁の展示も豊富。

 

ニシン漁の作業内容と漁具が数多く展示されている。

 

モッコ背負いの写真。

 

モイレ山の岩石。

 

流紋岩はマグマが地上付近で急激に冷却されてできたもの。

流れながら固まった跡が残るので流紋岩

赤い矢印の捕獲岩は、マグマが上昇する段階で取り込まれた周囲の岩石が熱で変成した部分。