目次
1.開村記念碑
余市サイクリングも終盤。
次に紹介するのは駅のそばにある開村記念碑
逆光で見えにくいが、大きな台座の上に開村記念碑と記された石碑が立っている。
これは現在の黒川町・山田町に会津藩士たちが入植して50年の記念に建立されたもの。
1868年明治政府との戊辰戦争に敗れた会津藩。藩士たちは謹慎処分となる。
政府は裁定を兵部省に委ねたところ、発寒・石狩・小樽への開拓を命ぜられた。
しかし、佐賀系の開拓使と徴収系の兵部省の間で意思疎通が上手くいかず、計画は頓挫。既に北海道の玄関口であった小樽へやってきていた旧会津藩士もいたが、処遇は決定せず。
一時は樺太へ行く案もあったらしい。
北海道へ渡っていた人々は斗南藩へ行くこともできず、直訴の上、小樽の隣町である余市の開拓に従事することとなった。
1871年余市川の両岸にあたる、現在の黒川町と山田町に入植。
元々定住していた漁民たちから蔑視を受けたこともあったようだが、学校を建て黙々と開墾に従事していたそうだ。
2.会津藩士の墓
慣れぬ土地での開拓に苦労した人々の慰霊を願って建てられたものである。
ちなみにこの墓地は丘になっており、てっぺんにはニッカウヰスキー創業者の竹鶴正孝・リタ夫妻のお墓が建っていた。
墓地の入口には余市町と会津若松市とりんごの縁が記されている。
ケプロンから開拓使に、そして道内各地にサンプルとして配られたリンゴの苗木。
多くの人々はあまり興味を示していなかったが、数年後見事に余市で結実した。
昼は温暖、夜は冷涼な環境が適していたらしい。
さらにその数年後、札幌で行われた農業博覧会に余市産リンゴを出品。
初の国内産リンゴとして高く評価されたそうだ。
緋の衣、国光と品種名も付けられる。
緋の衣は幕末の会津藩主、松平容保が孝明天皇から賜った緋色の御衣に因んでいる。
よいち水産博物館でも詳しく展示されていたが、札幌や小樽という都市に近く、さらに港もあった事でロシアのウラジオストクや樺太へも販路を広げていった。
余市駅開業前後は北海道の生産量の3割を占めていた。
やがて岩見沢や旭川から買付の商人がやって来る。これを受けて町内には買付を代行する商店もできるようになった。
栽培は旧会津藩士だけではなく、ニシン漁の副業として、あるいは会津藩士の跡に入植した秋田や筑前の団体も行うようになる。
収穫量が増えると、雪中に保存して春先にも販売できるようになった。
ニッカもウイスキーが軌道に乗るまではリンゴジュースを販売していたのである。
今ではぶどうなど他の果物も盛んに栽培されている余市町だが、リンゴも変わらず重要作物の一つ。オーナー制度も試みており、興味のある方は調べてみよう。