余市でサイクリング ― 下ヨイチ運上家 ―

目次

 

1.下ヨイチ運上家

余市川を渡り、川沿いに細い道路を進む。

次の目的地は旧下ヨイチ運上家。

 

 

木造の大きくて立派な建物。

 

運上屋とは、江戸時代松前藩アイヌの交易をおこなっていた地(「場所」と呼ばれていた)において、松前藩が設置した出先機関のようなもの。

余市場所は上ヨイチと下ヨイチに分かれており、この建物は下ヨイチの運上屋であった。

 

建物内部。部屋の中心に囲炉裏がある。

 

一段上にもう一つ囲炉裏のある座敷。

運上屋は事務仕事だけでなく、漁場の現場仕事も請け負っていた。

漁の時期になると、出稼ぎの漁師たちがここで寝食を共にしていたのである。

広間に段差があるのは身分の違いによって、スペースが定められていたため。

2階が寝室になっていた。

 

天井まで届く大きな絵が飾られている。

 

端午の節句の際に立てられた幟旗。対面に賤ケ岳の7本槍の絵もあった。

大きいうえに勇壮なタッチ。お祭りなんかでこんなものを飾るとかなり迫力があって活気づくだろう。

巨大な神棚が飾られている。

板の下は地獄への直行便な船の上。常にそんな環境で働く人々にとって神への信仰は大変重要なものであっただろう。

 

船絵馬

 

船主や船乗りが大阪の絵馬屋で購入、目的地で奉納するならわしだった。

本来は生きた馬を奉納するが、高価な馬を用意するのは難しく馬の絵を奉納したのが始まりとされる。航海の安全や豊漁を祈願し、いつ頃からか船の絵を描くようになった。

 

2.奥座敷

広間の奥は小部屋や応接間になっている。

ここは帳場

 

多岐に渡る業務を行っていた運上屋の総合窓口のような役割を担っていた。

主に商人の仕事が中心。

 

ここは勤番詰所。松前藩の役人が執務を行っていた場所。

詰所前の廊下は藩士や幕府の役人が出入りした上玄関。商人や労働者達とは違う庇のついた玄関を利用していた。

 

松前藩だけでなく江戸幕府の役人も逗留している。

時代劇で有名な遠山の金さんの父親である遠山景晋。

1799年以降、ロシアの南下政策に対し蝦夷地は幕府の直轄地となっていた。

遠山は何度も蝦夷地に渡り、ロシアとの交渉にもあたった。

 

この座敷はすべて板の間ではなく畳張り。

 

3.ヨイチ場所の概要

ヨイチ場所が記録に現れるのは17世紀の中頃。

当初の松前藩の制度は米が取れない代わりに、家臣に交易の権利を与える商場知行制。

ヨイチ場所もその一つ。藩士たちは自身で本州からアイヌの欲する鉄製品などを仕入れ、海産物などと交換していた。しかし、所詮は武士の商法でなかなかうまくいかなかったようで借金漬けになる者もいたようだ。

そのため、交易は商人に一括で任せてしまい、手数料を納めてもらう場所請負制へ転換していった。

 

運上屋の図。本来はこの建物の他に漁師たちが生活する番屋などが並んでいた。

余市川の対岸にも集落や大きな建物がある。右手側には古平方面へ向かう山道が点線で描かれている。

 

運上屋は交易の他に一般の漁業者やアイヌによる漁の監視、そして自らの漁場経営も行っていた。

 

下ヨイチの運上家は柏屋藤野喜兵衛から竹屋林長左衛門に移った。

鰊を追って出稼ぎにきた一般の漁業者から2割の手数料を取っており、これが大事な収入だったらしい。

とある資料によると、余市はわりとアイヌの力が強く独自性が認められていたらしい。

アイヌとの交易というと、どうしても和人の残虐な振る舞いが思い浮かぶがそうではない部分もあったようだ。

 

林家は岩内、古平までの陸路の掘削にも関わる。

また、膨大な文書を残し「林家文書」と呼ばれ、大変貴重な資料として余市町の他道立図書館などに所蔵されている。

 

この建物は幕末に建てられた。明治後に減・改築されたが80か所を超える運上屋の中で唯一現存する建物として大変貴重なものとされる。

 

ここで載せた写真は建物の一部。

他にも色々興味深いものがあるのでぜひ見てほしい。

 

建物の裏手には茂入神社が鎮座している。

 

かつてはヨイチの中心であったともいえるこの場所。

現在はのどかな港と海水浴場。