天塩町 ― 天塩川とシジミと酪農 ―

目次

  

1.天塩町の概要

今日は天塩町について調べてみた。

wikipedia:天塩町

 

人口は3千人弱。天塩川の河口に位置する。

河口付近には古代より人々が定住し、遺跡も残っている。

長く発達した砂嘴が天然の堤防となり、優れた港があったことからアイヌのコタンが築かれていた。

1615年頃には天塩場所が設置され、交易場・松前藩出先機関であった運上屋が設置された。

明治の初めには水戸藩の支配地となるが根拠地は苫前に置かれていた。

 

1877年天塩駅逓が設置される。

1880年に天塩村が開基。

天塩川の舟運によって運ばれる木材の集積地となり離島へ供給していた。

また、1900年前後から移住者を募るようになり市街地が形成、さらに内陸部へも開拓が進む。

同時期に小樽と定期航路が結ばれ、道北の中核の一つとして繁栄。

内陸部にも1903年にケプシ(現在の作返)、オノプナイ(雄信内)に駅逓や渡船場が設置。1924年には南雄信内にも駅逓が設置された。

1903年に遠別村、1909年には幌延村、沙流村(現豊富町)が分村。

1915年に二級町村制施行。1924年に一級町村制施行し町政に転換。着々と発展が進む。

ニシン漁は衰えたものの、農業・漁業は順風であり戦争後も着実に人口は増えていたが、1960~70年代頃から減少に転じる。

この頃水稲を放棄し、大規模酪農に転換。現在もシジミ漁と並んで町の主要産業となっている。

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カントリーサイン天塩川で牛がシジミ採りをしている。

シンプルだがわかりやすいね。

 

2.天塩町の交通

長らく舟運が主要な交通手段であった一方、旭川稚内間の鉄道敷設の誘致を試みるも、天北線・宗谷本線共に失敗に終わる。天候に大きく左右される船に比べ、当時鉄道は極めて安定的な輸送機関であった。

大正時代後期からは天塩沿岸鉄道を請願、後の羽幌線となる。

1932年、ついに幌延~遠別間の工事が開始。

1934年に天塩駅まで開通。これにより物流を一手に担っていた天塩川定期航路・小樽航路は不要となる。小樽との結びつきが強かった天塩町だが、徐々に旭川との繋がりが深まっていく。

羽幌線開通後も農水産物の搬出を主としていたが、沿線人口の減少・路線の主要輸送物であった石炭が炭鉱の閉山で全く産出がなくなってしまうなどの影響で1987年廃線

町内には更岸駅、天塩駅、北川口駅、振老駅と中川口・西振老・作返の仮乗降場が設置されていた。

 

町内は沿岸部を走る国道232号線と内陸部を走る国道40号線が南北に縦断しており、幌延町との境界付近で合流している。

市街地の国道沿い、旧天塩駅跡に道の駅てしおが設置された。

 

3.天塩町の観光

古くより交易の中心であったため、江戸時代以降の主要建物跡(運上屋、天塩駅逓、松浦武四郎宿営地、雄信内渡船場跡、振老渡船場跡)が史跡に指定されている。

 

市街地近くには天塩川の旧河道だった鏡沼に海浜公園キャンプ場、松浦武四郎像、てしお温泉夕映などがあって町外の人も多く訪れるスポットになっている。

 

続いて天塩川河口近く。古代の遺跡で、竪穴式住居を復元し遊歩道を整備した川口遺跡と風景林や、広大な芝生が広がる天塩川河川公園など。

日本海を眺めながらのんびりできる。

 

かつての町役場建物だった天塩川歴史資料館には天塩川の舟運で活躍した長門船の復元模型など興味深い展示が並ぶ。