道北をいっぱい巡った。 ― 剣淵駅 ―

目次

 

 

1.剣淵駅

東六線駅を出て北へ向かう。

鉄路は直線ではなく、幾度か方向を変える。

並行する道路もないので近づいたり離れたりしながらやがて剣淵町の市街地にある駅へ到着。

 

 

市街地の南端辺りに位置しているようだ。

 

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剣淵駅。小さめで綺麗な駅舎。三角屋根が特徴的。

 

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小さな駅舎とは対照的に重厚な跨線橋

鉄橋を転用して作られたらしい。

 

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ホームの向こうに見えるのはJAの建物。

周囲の草地はかつての貨物の発着などに利用されていたスペースだろうか。

 

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駅から南側を眺めると奥には農業倉庫が並ぶ。

手前の空き地横に見えるのはホーム跡のような・・

 

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駅前はかなり広いスペースがある。

左手には駅前旅館という名前の駅前旅館兼食堂。

右手には乗車券や北の大地の入場券を販売している丸八おざわ商店。

この日はお休み?

 

2.剣淵駅と近隣の歴史

1897年剣淵村が設置されるも、この時はアイヌの人々以外に集落は無し。

1899年初の入植者である屯田兵の一団がやって来る。

翌年の1900年、和寒駅ー士別駅間の開通に伴い剣淵駅が開業。

当初の読み方は「けぬふち」だった。

駅のそばには工事人夫などを相手とする商店ができ始め、市街地が形成された。

駅からは木材の搬出も多かったようだ。

1901年に初の団体入植である佐藤農場が開基。

 

1906年、正式に剣淵村が発足。

1914年 和寒村が分村。

1927年村西部の温根別地区が分離、温根別村発足。後に士別市の一部となる。

温根別地区は鉄道からは遠いが、地味が良く農業に適していた。

距離的な問題から剣淵村中心部とは徐々に縁遠くなり分離に至ったようだ。

 

昭和初期のころ、駅は米、木材、雑穀の搬出が盛んであった。

 

1962年 町制施行し剣淵町となる。

1982年に貨物取扱い廃止。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真



駅南側の農業倉庫付近には専用線があり、駅裏には木材が大量に積まれている。

駅前も及びその周囲も現在と比べ建物が密集しているようだ。

 

3.鉄道防雪林(深川林地)

剣淵駅から北に進むと再び左右を鉄道防雪林が囲んでいる。

この剣淵ー士別間は過湿泥炭地のため、樹木が全く育たず冬期は吹雪による雪害が悩みの種であった。1926年国鉄の職員であった深川冬至氏が泥炭の分解による土壌改良、さらにドイツトウヒの植栽に着手。見事に12.7kmに及ぶ防雪林が完成し、鉄道の安定運行が可能となった。氏は1943年に過労によりなくなるが、その功績を称え石碑も建立されている。

 

 

 

石碑付近はおそらく立入禁止で、車窓から眺めることしかできない模様。

 

詳細はこちら。

www.jsce.or.jp

 

残念ながら土木遺産カードは配布終了済み。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 東六線駅 ―

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1.東六線駅に到着 

和寒町の市街地から国道40号線を北へ向かうと、すぐに農村地帯になる。

六線川という無機質な名の川を越えると剣淵町の町域に入る。

すぐに西に向かって間もなくすると東六線駅に到着。

 

グーグルマップをご覧の通り、一面の畑に囲まれた駅である。

 

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小さな待合室には駅ではなくて「乗降場」と書かれていた。

 

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踏切の向こうは線路に沿って防雪林が並んでいる。

砂利が2色に分かれているのは意味があるのだろうか。

 

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ホームは久しぶりに板張りの簡易的な仕様。

待合室の乗降場の名と共に出自が伺える。

 

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こちら側も一直線に伸びる線路と共に防雪林が植えられていた。

 

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周囲は素晴らしい田園風景なのだが、この駅からは全然見えません。

鉄道林と青い空、そして黒く光るレールとそれを支える枕木に赤茶と青白の砂利、古びた板でできているホームだけが全ての閉ざされた別世界のよう。

 

2.東六線駅の歴史

東六線駅は1956年に仮乗降場として開業。1959年に駅に昇格、もちろん旅客のみ取扱。

ひっそりと営業を続けてきたが2021年春に廃止が決定した模様。

最後の夏の景色を残すことができて良かったかな。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。 

季節が違うだけで今とほぼ変わっていないようだ。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 和寒町市街地 ―

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1.交流施設ひだまり

和寒駅と駅前食堂を堪能した後、駅横の交流施設ひだまりを訪れる。

 

 

小さな物産館スペースもあったが、お目当てはこちら。

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和寒町のマンホールカードをいただきました。

小さく「町の木にれ」と書いてある。

 

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町名の由来となった楡の木がカラフルな大地と共に描かれているデザイン。

 

そしてもう1枚

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久しぶりのテッシ武四郎カード。

松浦武四郎ではなく近藤重蔵が訪れた地であった。

 

 

場所はここ。

 

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裏面には先ほど訪れた塩狩峠記念館と名産のカボチャについて。

 

2.和寒町役場のマンホール 

カードをもらった後は町役場前へ。

 

 

カラーマンホールが設置されている。

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もう1枚

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町の花であるカタクリが描かれたマンホール。

 

3.郷土資料館のD51

町役場の次は公民館へ。

 

 

ここの芝生にはSLが静態保存されている。

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屋根付きということで状態は良さそう。

 

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日本の蒸気機関車を代表するD51形。

 

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黒いボディにナンバープレートもピッカピカに輝いていた。

 

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車体も艶々なら屋根や柱にも錆が見られず。

木々と芝生の爽やかな緑に見事にマッチした保存状態だ。

 

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残念ながら内部は見ることができない。

きっと綺麗にされているのだろう。

 

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西日本から旭川、そして名寄機関区に配属となったそうだ。

この和寒町も数え切れぬほど駆け抜けたのだろう。

 

 

道北をいっぱい巡った。 ― 和寒駅 ―

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1.和寒駅到着

塩狩峠を下って国道40号線を北上。

市街地に入りしばらくして右手に曲がると和寒駅に到着。

 

 

国道から駅の間は距離が短く、あまり駅前という雰囲気はない。

国道を挟んだ反対側が駅前らしい雰囲気になっている。

 

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町の代表駅としては少し小さな駅舎かもしれない。

無人駅だが、綺麗に利用されている。

色あいもどことなく牧歌的で町の雰囲気にあっているような印象。

 

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左手がホームの間をつなぐ跨線橋で、右手は駅のスペースを跨ぐ自由通路。

無人駅なのに跨線橋の中を覗きもせずに立ち去ってしまった。

またの機会に訪れよう。

 

2.和寒駅の歴史

1899年蘭留駅から和寒駅までの延伸に伴い一般駅として開業。

蘭留駅同様塩狩峠越えのための重要な拠点駅であった。

今の剣淵町士別市に入植した屯田兵たちもこの駅までやってきて徒歩や船で北へ向かったようだ。

また、1908年には現在の和寒町西和、及び幌加内町方面とつながる道路が開削され、ペオッペ駅逓も設置された。

こちら方面からの鉄道利用客や農産物輸送も和寒駅を利用することとなり、町はより活気づく。

大正から昭和にかけては農産物、木材、石材の発送が主であった。

1968年にはコンテナ輸送の補助基地となる。

しかし、1982年貨物取扱廃止。

1995年完全無人化となる。

 

和寒の開拓は駅の開業とほぼ時を同じくして始まる。

当初は寒さのため稲作が難しく、大正時代には除虫菊の生産で一時代を築いた。

寒冷地仕様の稲が改良された後は水田やカボチャ畑が多い。

1915年 剣淵町から分村し、和寒村が発足。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真

 

駅横に貨物ホームがあり、構内には塩狩峠越えのため多数の留置線がある。

駅裏は縦長のストックヤード。

名寄側にある白いいびつな円は転車台の跡。現在の航空写真でも確認できるような・・

給水塔と共に1971年撤去された。

 

3.つたや食堂(駅前食堂つたや)

この辺りで昼近くになったので飲食店を探す。

国道の反対側にはこんなお店があった。

 

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看板には駅前食堂つたや。暖簾にはつたや食堂。

店の名前なのか法人の名前なのかよくわからないが、このSLの写真を掲げるザ・駅前食堂に決めた。

 

 

グーグルマップのピンがずれていると思う。

道道48号線の南側、国道40号線の西側が正しい位置。

 

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頼んだのは冷やし中華

かなり気温が上がっていたのでさっぱりしたものを選択。

冷たくて酸っぱくてちょいと辛くて美味い。

 

お店は結構広いがご夫婦でやっているようで、できるまでに少し時間がかかる。

急いでいる人はパスしたほうがいいかも。

 

このお店、かつてはホームで駅弁の販売もしていたらしい。

昭和の時代に想いを馳せながら雰囲気を楽しもう。

 

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道北をいっぱい巡った。 ― 塩狩峠記念館 ―

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1.塩狩峠記念館

塩狩駅から来た道を少しだけ戻り、階段を上る。

そこには作家の三浦綾子の小説「塩狩峠」にちなんだ塩狩峠記念館が建っている。

 

 

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建物の外観は三浦綾子氏が作家になる前に営んでいた小さな雑貨店。

 

作家として大成後は転居して旧宅は牧師館などに利用されていたが、老朽化により取り壊しが決定。しかし解体式の当日涙ぐみながら思い出を語る三浦夫妻に心を動かされた有志が急遽保存の意思を示す。

数年後、三浦綾子の著作で最も愛されているという塩狩峠の舞台に、和寒町の開基100年記念行事の一環として復元されたものである。

 

 

塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)

 

 

入館料は300円。館内は基本的に撮影NG。

正面は雑貨店で、居住スペースや執筆間などが復元されており、三浦夫妻に関する資料も展示されていた。

名前は知っていたが、作品を読んだことはないので眺める程度で退館したが、熟年の方が結構訪れていた。ファンなのだろう。感慨深げに見入っている方が多かった。

 

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とりあえず先人カードは頂いておきます。

 

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出身地である旭川には三浦綾子文学記念館も建てられている。

北海道を代表する作家といえるだろう。

 

2.三浦綾子について

せっかくなのでちょっと調べてみた。

1922年生。うちの祖父母と同じ年のような気がする。ちなみに祖父母は存命であり、コロナのせいでさらに暇を持て余している。

戦前は小学校の教員を務め、終戦を機に退職。結核発病後クリスチャンとなる。

1959年結婚。1961年作家デビュー。1963年朝日新聞の懸賞小説に「氷点」が入選。

新聞連載を経て大ベストセラーとなる。

映像化も何度もされている。

 

氷点シリーズ 全4冊合本版 (角川文庫)

氷点シリーズ 全4冊合本版 (角川文庫)

 

 後に続氷点も執筆された。

あらすじだけ読んだが継子いじめや義兄妹の恋愛などドロドロ系のストーリーにキリスト教の「原罪」という概念が作品を通底するテーマのよう。個人的にはちょっと苦手な感じ。

 

なお日テレの笑点はこの氷点をもじってつけられた番組名らしい。

 

三浦綾子結核の他にもいくつかの病気を患い、執筆も困難になった。

そのため夫の光世と口述筆記を行い、その後も名作を世に送り出した。

 

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パンフレットに記載されている口述筆記の様子。

酔っぱらって写真を撮ったので汚い足が映ってしまった。

 

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記念館の周りには歌碑がいくつか。

 

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二人三脚で歩んだ夫婦の姿が浮かぶような歌でした。

 

3.長野政雄氏顕彰碑

記念館を出て駐車場に戻る途中に石碑が建てられている。

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小説塩狩峠の主人公のモデルとなった長野政雄氏の顕彰碑である。

 

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国鉄の職員であり、キリスト教徒でもあった長野氏は名寄から旭川に向かう列車に乗り合わせていた。氏が乗っていた客車最後尾が塩狩峠付近で連結が外れ坂道を滑り落ちる暴走を起こす。氏はデッキ上のハンドブレーキを操作しようとするが転落し、列車に巻き込まれ殉職する。その後列車は停止し、他の乗客は無事であった。

 

氏が転落したのは自らの意思なのか、不慮の事故なのかは定かではないが、小説では自らの体で列車を停めるという筋書きになっている。

この「塩狩峠」は口述筆記による著作の第一作となった。三浦夫妻にとって記念すべき作品でもあるそうだ。