世界ふれあい街歩き ― ガンランバ ―

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1.シーサンパンナ・タイ族自治

今日は2008年10月2日放送の世界ふれあい街歩きで紹介された中国のガンランバについて調べてみた。

位置は雲南省の最南部、シーサンパンナ・タイ族自治州の中央部近くに位置する。

 

シーサンパンナ・タイ族自治州は古代よりタイ族(ルー族)が居住。象も生息し上座部仏教が盛んなど東南アジアの文化・風習に近い。

12世紀ごろ景洪でパヤー・スンカムンが即位・建国。その後元や明の侵攻を受け服属。清の時代に至るまで中国の王国に帰順することとなる。

西欧諸国が東南アジア各国を植民地化した時は中国の領土とされたが、体制は変わらず王家が存続した。1956年、中国人民政府のもとで社会改造が行われ王国は滅亡。変わって自治州が設定される。1980年、初めて外国人観光客向けに開放され現在に至る。

 

ラオスミャンマーと1000km近い国境線を接し、少数民族が約75%を占める。

米作中心で納豆など日本と共通する食文化も持ち、日本人観光客にも人気。

 

 

 

 

2.ガンランバ

ガンランパはメコン川に面し、港も持つ。雨期になればラオスやタイと繋がるクルーズ船も就航している。

港の西にはタイ族園と呼ばれる住宅街。トロピカルフルーツや香辛料が市場に並び、礎石の上に直接柱を置いた竹楼と呼ばれる住宅が目につく。

柱を地面に埋めず、高床式な造りは湿気による腐敗を防ぐためだそうだ。

 

 

街の中心部にはタイ式の仏教寺院があり、伝統行事や民族舞踊を見ることのできる劇場もあるそうだ。自治州の中でも最も東南アジアの香りを感じられるところらしい。

 

 

 

 

遠別町 ― 最北の稲穂 ―

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1.遠別町の概要

今日は遠別町について調べてみた。

wikipedia:遠別町

 

人口は約2500人。農業漁業など一次産業が主要。

明治維新後、1869年に水戸藩支配下となる。

数年後開拓使が設置される。

和人の定住まではしばらくかかったが、1896年恩田駅逓が設置され、1922年まで遠別川の渡船も行っていた。

1897年共栄、中央、丸松などに入植が始まる。この年が町の開基とされている。

1899年に現在の市街地部分の貸下げが始まる。小樽~天塩間を運航する船も寄港するようになった。 

1903年天塩村から分村し遠別村が新設。1919年に二級町村制施行。

1926年に羽幌線が開通。木材、米、砂利などの運搬が船から鉄道へと変わっていく。

1949年町制施行し遠別町となる。

 

1950年頃からニシンの不漁が続く。

1955年から漁港の整備工事が始まる。現在はホタテの養殖が盛ん。

1983年うるち米からもち米に完全転換を図る。

 

2.遠別町の交通

かつては海岸線に並行して国鉄羽幌線が通っていたが、1987年廃止となる。

主要駅である遠別駅を中心に歌越駅、天塩金浦駅、丸松駅と啓明・北里仮乗降場が置かれていた。 

その羽幌線跡と並んで通称オロロンラインと呼ばれる国道232号線が町内を縦断している。市街地のやや南には1993年に道の駅えんべつ冨士見が設置された。 

近年リニューアルされ、新しく物産店などがオープンしている。

 

3.遠別町の観光

道の駅のすぐ裏手には日本海利尻富士を望める冨士見展望台。

海岸方面に進むとキャンプ場や海水浴場みなくるびーちが整備されている。

さらに南側には金浦原生花園、山岳部へ進むと宿泊施設も備えた旭温泉がある。

 

市街地よりも北部には最北の米どころの木柱、旧丸松小学校を改修した遠別町郷土資料館などが見どころ。町の歴史を知ろう。

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カントリーサインには稲穂とメロン、雪の結晶。

流れる水のようなものは水田?遠別川?日本海
 

遠別川を上流部へ進んで行くと朱鞠内湖北岸へつながる道道688号線が今も工事中。

ここには畑作中心だった東野、鉄道枕木用の木材を搬出しており上遠別駅逓も設置されていた大成、砂金掘りが往来するなど地下資源があるも大規模な採掘には至らなかった正修など僻地あるいは廃集落が存在する。

道もほぼ無いような時代に開拓が行われ、あまりの厳しい環境に住む人もほぼいなくなってから名寄まで通じる道路が開通することになるとは皮肉なものである。

 

もっとも1970年に路線認定されてから開通予定が2025年と、半世紀以上かかっただけあってかなりの難工事の様子。まだまだ予断を許さない状況であろう。

 

空から日本を見てみよう ― 伊万里市 ―

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1.伊万里市の概要

今日は2015年4月21日放送の空から日本を見てみようで紹介された佐賀県伊万里市について調べてみた。 

wikipedia:伊万里市

 

人口は約5万3千人。

市域は伊万里湾の最奥部を囲むように東西に広がっている。

江戸時代には佐賀藩の領地で伊万里港は水深の深い天然の良港として栄える。

特に近隣で製造された有田焼の積出港として重要な港であった。

有田焼は長崎の出島を通じて欧州へと渡り、港の名をとって古伊万里とも呼ばれた。

 

明治時代には石炭の積出港として栄える。

現在伊万里港から他の港へと繋がる旅客航路はないが、湾内を横切る航路がある。

また、大連や上海・香港と日本の各地を結ぶ貨物航路の経由地にもなっている。 

 

2.伊万里市の観光地

当初は有田を主とする近隣の焼物の集積地・積出港であった伊万里だが、江戸時代には伊万里にも窯元がおかれるようになる。 

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それが大川内山と呼ばれる山に囲まれた地域。 

佐賀藩当主の鍋島家の御用窯が置かれ、将軍家への献上品を作り続けた。

現在もレンガ造りの煙突や30軒の窯元が並んでおり、奇岩と共に変わらぬ風景を守っている。

 

続いては市街地・港付近。

伊万里川沿いには江戸時代に活躍した陶器商家・犬塚家の旧家や倉庫が伊万里市陶器資料館として整備されている。

伊万里駅近くでは江戸時代に輸出された伊万里・鍋島ギャラリーや白壁土蔵の一軒を改装した海のシルクロード館などで、江戸時代に栄えた伊万里の姿を学ぶことができる。

 

伊万里湾へ行くと絶滅が危惧されるカブトガニの繁殖地が天然記念物に指定されており、生きた成体の観察も可能な展示もある。

 

有田町との境に近い、国道498号沿いの山中には炭山棚田。市街地や山脈を眺望ができ、季節によってアジサイ彼岸花などの花々も人々を楽しませる。

 

 

 

地球絶景紀行 ― アラスカ ―

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1.アラスカ州の概要

今日は2012年8月10日放送の地球絶景紀行で紹介されたアメリカのアラスカ州について調べてみた。 

 

アメリカ最大の面積を持つ州で、カナダを挟み本土と飛び地になっている。 

 

人口は約70万人でその半数がアンカレッジ都市圏に居住している。

18世紀にロシアの植民地となるが、クリミア戦争後財政難に陥ったためアメリカに売却。その後に豊富な地下資源の発見や国防上の重要な位置を占めることとなり、交渉にあたったスワード国務長官の業績は高く評価されている。 

 

2.アラスカの観光地

州の中央部には北米最高峰のデナリ山が聳えている。標高は6190m。

世界最高峰エベレストよりも山体・比高が大きい。

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周囲はデナリ国立公園に指定されている。大部分はツンドラ地帯で、ハイイログマやクロクマを食物連載の頂点とする多様な生態系が生息している。

 

州最大の都市アンカレッジには先住民の文化を保存するネイティブ・ヘリテージセンターやアラスカの歴史や自然を学べるアンカレッジ博物館などのミュージアムが充実。

アンカレッジは地下資源の採掘や金融・通信などが主産業の港湾都市

日本向け水産品の輸出も多い。

航空貨物のハブ空港にもなっており、飛行機好きなら1日中楽しめるだろう。

 

アンカレッジ南のキーナイ半島には車で行くことも可能なキーナイフィヨルド国立公園がある。氷河やフィヨルド、海洋動物を見学できるツアーも組まれている。

 

海岸線をずーっと東に進むとグレイシャーベイ国立公園

自然保護地域となっており、公園に至る道はない。

交通手段は連絡船か小さな飛行機のみだが、それでも年間約40万人の来訪者があるという。

 

州の東部、内陸地域にあるのがランゲル・セントイライアス国立公園

アメリカ最大の面積を持つ国立公園で、アメリカ合衆国第二の高峰であるセントイライアス山を敷地内に含む。山頂部はほぼ垂直に近く世界でも有数の急峻な山である。

 

アンカレッジから西にはレイク・クラーク国立公園

3つの山脈、2つの活火山、多雨林のある海岸線、ツンドラ地帯に幾つもの湖を内包している。観光客はさほど多くないが、アラスカで最も美しい景色とも言われる。 

 

アラスカ第二の都市、フェアバンクスではアラスカについての展示やお土産が充実しているモリス・トンプソンカルチャー&ビジターセンターが最大の観光スポットだ。 

 

フェアバンクスは1900年頃のゴールドラッシュに沸いた時代に交易所として発展。

現在も近隣では鉱山が稼働している。

 

 

世界ふれあい街歩き ― ウィーン ―

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1.ウィーンの概要

今日は2008年9月25日放送の世界ふれあい街歩きで紹介されたオーストリアの首都ウィーンについて調べてみた。wikipedia:ウィーン 

 

人口は約185万人。

街の始まりはローマ帝国時代の宿営地と言われている。

ドナウ川に面する交易地となり、1155年にオーストリアを治めていたバーベンベルク家がウィーンに遷都。

1278年にハプスブルク家支配下となる。

14世紀、ウィーンは大きく発展を遂げ現在の名所となっている建築物が建ち始める。

16世紀になると神聖ローマ帝国皇帝を始め中欧各王国の王位を相続し、広大な帝国を築く。支配階級はドイツ系であったが、構成比は少なく、多民族国家であった。

19世紀には産業革命の影響で人口も激増。ヨーロッパでも屈指の規模を誇る町となる。

20世紀初頭、ドイツと共に第一次世界大戦で敗戦国となり帝国は解体。さらに第二次世界大戦後かつての後背地であった東欧諸国とのつながりを失い、人口100万人以上の都市としては異例の人口減少を経験する。

ベルリンの壁崩壊後は中央と東欧の結節点として再び価値を見出され、プラハブダペストと共に多国籍企業の進出も相次いでいる。

 

2.ウィーンの観光地

ウィーンで最も重要な観光資源と言われるのがシェーンブルン宮殿。 

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神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世がヴェルサイユ宮殿に対抗するべく建設を計画。

実際には資金難などで計画よりは簡素になったがマリア・テレジア時代に完成。

モーツァルトとマリーアントワネットが幼いころに出会ったと言われるのもこの場所だ。代々夏の離宮として好まれた。

宮殿の敷地には広大な庭園や世界最古と言われる動物園もあって毎年数百万人の観光客が訪れる。

 

一方政治の中心だったのがホーフブルク宮殿。 600年以上ハプスブルク家の居城であり現在もオーストリア大統領官邸や国立図書館、アルベルティーナ美術館などが入る複合施設となっている。

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国立図書館は16世紀以降に記された20万冊に及ぶ蔵書を誇り、大広間をはじめとする豪華絢爛なバロック様式の装飾も見どころだ。

アルベルティーナ美術館マリア・テレジアの義理の息子アルバートのコレクションを中心にモネやセザンヌシャガールピカソなどの常設展示されている絵画が中心。

 

周囲にもウィーン自然史博物館美術史美術館レオポルド美術館などミュージアムが並んでいる。

音楽の都ウィーンを代表する建物が国立歌劇場。建設当初から現在に至るまでオペラ、管弦楽の聖地と言える位置を占め続けている。ワーグナーシュトラウスも初演ではないが公演を行っていた。

その歌劇場と同じ時期に建てられたのがウィーン市庁舎

ゴシック・バロック様式の建築デザインをベースに、特に105mの尖塔がシンボルとなっている。

 

ヨーロッパの都市らしく教会建築も忘れてはいけない。ハプスブルク家の代々の墓所であり、モーツァルトの結婚式も行われたシュテファン大聖堂や9世紀からあるといわれるパイプオルガンが名物の聖ペーター教会などが挙げられる。

 

これらの歴史的建造物が集中している地区から少し南にあるのがベルヴェデーレ宮殿

ハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲンが夏の離宮として建設し、彼の死後にハプスブルク家の所有となった。現在は美術館となっている。

 

最後にちょっと変わり種の建築がクンストハウス・ウィーン

画家のフンデルトヴァッサーが建築した超個性的なモノクロの外壁とカラフルな窓や室内のタイルが特徴的なカフェ&美術館。