札幌史跡探訪 ― 中の島界隈 ―

目次

 

 

1.北海道科学大学付近

精進川から少し離れて中の島通を進んで行く。

途中で中の島通と精進川の間にある北海道科学大学高校付近でちょっと小休止。

 

 

まずは敷地外側にある説明板をチェック。

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ここには半鐘と番屋があったらしい。

明治~昭和にかけてはやはり大火への備えはかなり重要だったようだ。

その後太平洋戦争も始まったということで空襲への備えも兼ねることになる。

幸いなことに中の島は空襲を受けることはなかったようだ。

 

今現在この地にある北海道科学大学高校。

法人の始まりは大正時代に創立した自動車教習所。

その後1953年自動車短大、1955年札幌高等電波専門学校、1956年北海道工業高校、1967年北海道工業大学、1974年薬科大学と次々に開学。規模が拡大していく。

その後尚志学園高、北海道科学大学と改名を行う。

ブランド化を進めていたようだが、少子化の影響もあってか2009年札幌高等電波専門学校(後に北海道総合電子専門学校に改称)閉校。

2018年北海道工業大学(2014年北海道科学大学に改称)と北海道薬科大学を統合。

2020年北海道科学大学短大(かつての自動車短大)の募集停止。

2023年北海道科学大学高(北海道工業高→尚志学園高)を大学と同じ手稲区前田に移転予定とスクラップ&ビルドが進捗している。

 

この計画が進むと歴史の長い中の島地区からは校舎がなくなるようで、その跡地は医療機関やイオンと契約が決まっているようだ。

 

2.中の島神社

さて中の島通を北に向かい、環状通と交差。

この交差点付近にある中の島神社に立ち寄る。

 

 

大きな道路の脇にある小さめの神社である。

現在地には大正期に移転してきたようだ。

 

1948年の国土地理院地図の航空写真。

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青い丸印が中の島神社(おそらく)

周囲は農地が広がり、神社の東側には用水・排水用なのか水路や設備があるように見える。現在は中学校や公園になっている場所だ。

そう思っていたら現在の中の島中学校はさけ・ます孵化場の養殖池跡に建っていたそうだ。上の写真の黒い楕円が整列している場所がそうなのだろう。

 

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鳥居と参道。

大きな幹線道路の脇に場違いにも思える空間が維持され続けている。

 

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年輪を感じる社号標。

 

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祭神と御神木について。

神様も調べていけば奥が深そうだが、また後日の宿題に。

 

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ここにも説明板。御神木は樹齢200年以上を誇る春楡の木だそうだ。

 

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こちらが御神木。写真で見るとあまり大きく見えないが実際に自分の目で見るとやはり貫禄があった。

 

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手水石。大きな石を人馬で運んできた経緯が記されている。

 

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これも写真で見るとあまり大きくな見えないが、運ぶとなると結構な労力であったろうことが想像に難くない。この辺りの中心的な役割を果たしていた神社だったのだろうと思われる。

 

 

3.幌平橋架設記念碑

さて、最後にやって来たのは幌平橋の袂。

 

 

ここにやって来た目的はこちら

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幌平橋の仮説記念碑が建てられていた。

 

1927年、私財を投げうって初代幌平橋を建設した河合才一郎氏の功績をたたえて建立された。

氏は中の島の地主で道議会議員でもあったようだ。

 

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裏面の碑文。

文字が薄くなって読みにくいが、そもそも自分には解読できないレベルの文章だろうと思う。

 

この橋の開通によって豊平地区のリンゴを札幌方面へ運ぶなど、瞬く間に要路となったらしい。今ではデザイン性にも優れた名物橋の一つとなっている。








 

札幌史跡探訪 ― 精進川 ―

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1.精進川

某月某日、天気が良かったこの日は自転車で精進川近辺を周ってみた。

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精進川の成り立ち・河川名の由来が記された看板。

ホタルも描かれている。

 

河畔は遊歩道になっており、遡ってみる。

 

 

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河畔林の保全区域地図。

この辺り、住宅街のど真ん中にありながら木々で断絶されて別世界を歩いているよう。

 

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水利使用標識もあった。

 

途中には小さな池がある。

 

 

氷池と名がついていた。その名の通り天然氷を切り出していた池であった。 

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平岸地区に数多かったリンゴ農家の貴重な収入源とある。

 

 

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新しい柵のある展望台も作られていた。

 

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草が茂ってあまりきれいな様子ではないが、極力自然の姿にしているのだろう。

 

再び上流に向かって遊歩道を歩く。

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途中には公園も整備されている。

 

 

 

 

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途中には人道橋も架けられている。

趣のある石垣が組まれていた。

 

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右岸側は段丘?高台になっていて崩落防止の柵もあった。

 

2.精進川の滝

上流に向かっていき、遊歩道の終点に到着。

ここには小さな滝がある。

 

 

木漏れ日の差す静かな滝だった。

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説明板があるが、だいぶ汚れていて文字が読みにくい(笑)

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この滝でサケがここから先へ遡上できない。

逆にここまでは上がってこれるというのも凄い気がする。

 

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もう一つの説明板も字が薄れてしまって読みにくい。

ここは平岸河岸段丘の切れ目になっているようだ。

 

3.精進川の歴史

以前にも少し触れたことがあるが、精進川は豊平川と離れたりくっついたりの歴史がある。今は精進川から豊平川へと繋がる放水路があって、さらに下流の中の島1条1丁目付近で合流している。

kamonji224.hatenablog.com

 

豊平区のHPによると、明治時代精進川は木材の流送に使われていた。

見どころ案内/札幌市豊平区

豊平川から中の島1条11丁目付近で精進川に運び、中の島1条1丁目付近で陸揚げし、札幌市外に運んでいたようだ。

 

現在は住宅街となっている1条11丁目。 

 

ちなみに明治時代の頃は現在の精進川の滝より下流部分は豊平川の分流の扱いだったはず。色々なHPなどを見たり教えてもらったりしたところ、正確な位置はよくわからないがこの辺りで精進川が豊平川に合流していたのかと思われる。

 

上述の豊平区HPによると昭和7年豊平川と精進川の合流地点がせき止められ、精進川は今の形となった。

 

2008年の広報さっぽろに大正時代の中の島の大まかな地図があり、昔の精進川流域の記載もあった。

現在の寒地土木研究所付近は貯木場、酸素工場や花火工場もあったそうだ。

 

 

札幌史跡探訪 ― 五天山公園 ―

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1.五天山公園

某月某日、天気は良いが風があってちょっと涼しげな日。

家族で公園へ出かけることとなった。

この日はまだ行ったことのない西区の五天山公園を選択してみた。

 

 

パークゴルフ場に炊事広場、テニスコートと球技広場を持っている。

 

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五天山のふもとに作られた大きな公園だ。

 

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休憩施設では野菜や花を売っている。

併設施設の受付もここだ。

 

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公園の概要。

 

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炊事広場の設備は閉鎖中だが、レジャーシートを敷いてピクニックしている人は数多い。木陰もあってちょうどいい場所だ。

奥に見えるのは遊具広場。遊具の数も質も充実している。

 

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芝生広場も広大。

結構な人数が来ていたが密にはならないね。

 

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芝生の横にはホタルの池。

噴水が並んでいて涼しげだ。水鳥ものんびりと泳いでいた。

 

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ここではヘイケボタルを生育しているそうだ。

 

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五天山にある展望台への遊歩道。

結構急な階段と坂道が続く。

 

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展望台からの眺め。公園の様子が一望できる。

 

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公園の向こう側は、道路沿いに住宅が並び、空にその奥は山裾に田畑が広がっている。

 

 

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ここは採石場だろうか。近くには生コン工場もある。

 

展望台から降りてきて再び公園を散策。

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復元された水車小屋がある。

 

昭和初期、西野地区にはいくつも用水路があり水車があちこちに設置されていた。

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平和・西野は琴似発寒川扇状地に開かれた町。

 

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水車は稲作に関わる作業の重要な動力だった。

 

2.五天山の概要

五天山は1935年地元民の夢のお告げから仏典より命名された。

登山口近くには五天山神社、山頂には小さな祠があるらしい。

登山道は平和方面にあったようだが、今は立入禁止。

 

1953年頃から採石が始まる。

平成になってから削られて段状になった山肌の緑化及び公園化が計画され、現在に至る。

 

新旧廃線跡を往く ― 自然喰処 灯泉房 ―

この日の駅巡りはひと段落。

ちょうど昼時になったので、ここらで店を探す。

 

気分的には白米が食べたい。

駅の近くをふらふら歩いてみると何件か飲食店があった。

その中の一軒、農業倉庫が並ぶ手前に建っている店に入ってみた。

 

 

 

居酒屋風だが、ランチも充実しているらしいこのお店。

入ったところにある雰囲気のいい木のカウンターに席を取る。

 

奥には座敷席が幾つかあるよう。獣害駆除の話をしている地元の人らしき声が時折聞こえてきた。

 

さて、この店の名物らしくでかでかとメニューに載っていたステーキ丼を頼んでみようとしたが、あいにくこの日は仕入れができなかったそうで提供できないとのこと。

 

口がすっかり肉モードになってしまったので代わりに牛丼を頼むことにした。

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やって来たのはオーソドックスな牛丼。

玉ねぎ、白たき、紅ショウガを従え味噌汁と共に現れた。

 

居酒屋の牛丼だからか、甘すぎずやや大人向けにも思える風味。

ボリュームも腹八分目でちょうどよい。

チェーン店以外で牛丼を掻き込むのは久しぶりだ。

 

店の売りはこの日食べられなかったむかわ牛。時期によっては旬のししゃもも味わえるらしい。

口コミではランチの情報が多数。ボリュームは上品なようだが、味はどの料理も評価高め。むかわ町を代表するお店の一つのようだ。

新旧廃線跡を往く ― 鵡川駅 ―

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1.鵡川駅

道道10号線を通ってむかわ町市街に到着。

最後の目的地にして今回唯一の現役駅、鵡川駅を訪れる。

 

 

 

かつては日高本線富内線の分岐駅で賑わっていた構内も1986年富内線廃線、2021年日高本線鵡川駅以東廃線となり、今は物寂しい無人の終着駅となった。

 

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木造で、三角屋根が両端に二つある横長の駅舎。

むかわ交通ターミナルを併設している。

 

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駅前は広いロータリー。「ようこそ むかわ町へ」 と書かれたモニュメント。

 

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駅舎にはむかわ町名物のシシャモに纏わるアイヌの伝説が記されていた。

柳の葉が神様から命を与えられてシシャモになったというお話。

 

ホームは元々2面3線構造だったが、富内線廃止時に3番線は撤去された。

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さらに、駅舎側1番線も様似方面の廃線に伴って使用停止。

旅客に使われているのは2番線のみ。その他に車庫へと通じる側線がある。

 

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2番線へは構内踏切を通って進む。

 

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物置の向こうには側線の車止め。

 

2.鵡川駅と近隣の歴史

鵡川町域に和人の入地が始まったのは1872年頃。当時は鹿猟が盛んで、渡船の官営化も行われた。

1892年駅逓設置。1893年には国道が開通し、現在の駅付近に市街地ができ始める。

その2年後には戸長役場が設置。

 

1906年王子製紙鵡川出張所を設立。鵡川上流から流送される木材を河口付近に設置した網場で陸揚げを始める。

1909年王子製紙苫小牧工場で使用する木材輸送を目的とする専用馬車鉄道を苫小牧~鵡川間に敷設。翌年蒸気機関車に転換。

1913年苫小牧軽便鉄道を設立。苫小牧~佐瑠太駅間が開業。鵡川駅も新設された。

 

1923年日高拓殖鉄道が開業。佐瑠太駅以東の輸送を担う。

1927年苫小牧軽便鉄道・日高拓殖鉄道が国有化。併せて日高線となる。

 

1929~1931年にかけて軌間762mmから1067mmに改軌。

1929年鵡川の流送が穂別の土場までとなる。河口での陸揚げがなくなり鵡川駅からの木材発送がなくなる。

 

1943年富内線の当駅~豊城駅の連絡船が開通。分岐駅となる。

 

1960年代の国土地理院地図の航空写真。

 

駅西には現在と同じく農業倉庫が並んでいる。

駅裏東方面には何かの工場。駅敷地にも積まれ、搬送されていたようにも思えるが定かではない。

駅西には富内線が分岐していくのが見える。

 

1977年貨物取扱廃止。

1986年富内線廃止。旅客業務無人化・簡易委託。

1987年現駅舎竣工。

1998年窓口業務直営化。

2006年旅客業務再び無人・簡易委託化。2009年完全無人化。

2015年高波被害により様似方面の運行休止。

2021年様似方面廃線により終着駅となった。

 

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