空から日本を見てみよう ― 高山市Ⅱ ―

目次

 

1.国府

今日は2015年10月6日放送の空から日本を見てみようで紹介された岐阜県高山市についての続き。

wikipedia:高山市

パートⅠはこちらから。

kamonji224.hatenablog.com

 

 

最初は国府エリア。

律令時代~奈良時代にかけて飛騨国の政治経済の中心であった。

国府とは中央から派遣された行政官である国司が政務を司った施設。

こう峠口古墳など国府に関連があったと思われる遺跡や出土品などからこの地に国府が置かれたと推測されているが、所在を決定づける遺跡はまだ確認されていない。

 

国宝である安国寺経蔵は1300年前のもので、日本最古の回転式輪蔵である。

 

2.朝日

朝日地区は御岳山や乗鞍岳を望む山間の町。

多段に分かれ、水流の変化が楽しめる三ツ滝など豊かな自然が特徴。

キャンプや釣りなどアウトドアが人気だ。

 

3.丹生川

丹生川地区は乗鞍岳への玄関口。

飛騨大鍾乳洞は全長800m、国内屈指の観光鍾乳洞。

2億5千年前の昔は海底だった飛騨市

サンゴやフズリナの死骸が積み重なって石灰岩が形成される。

その後地殻変動によって日本アルプスが誕生。

雨による浸食で洞窟が誕生。その後谷がえぐれ、山腹に入口ができあがった。

 

古刹千光寺は雲海を見下ろす風景と円空仏、樹齢1200年を超える五本杉など貴重な見どころが数多い。

 

4.高根

長野県境に位置する高根地区。

明治時代貧しかった飛騨から長野へ出稼ぎに行く女工たちが通ったのが野麦峠

 

当時日本の輸出を支えた生糸産業に従事する人が多かったようだ。

 

過酷な野麦峠だが、かつては鎌倉街道・江戸街道とも呼ばれ飛騨と東国を結ぶ重要なルートであった。富山で水揚げされたブリを信州へ運ぶルートでもあり、鰤街道とも呼ばれていた。

 

野麦峠山頂

 

 

現在は高地の気候を生かし、スポーツ合宿のメッカとなっている。

気圧が低く、酸素濃度が薄いこの地でトレーニングすることで心肺機能を高める効果があるのだ。

 

5.清見

東部の清見地区は、美濃飛騨せせらぎ街道のドライブ・ツーリングが人気。

新緑や紅葉を楽しみなつつおしゃれなカフェで休憩するのが人気ルート。

 

 

6.荘川

日本最古のロックフィルダムである御母衣ダムの上流部に位置する荘川エリア。

ダム建設時に樹齢500年を超える桜を移植。当時は不可能と言われたが、電源開発初代総裁の熱意で実現。今も湖畔で力強く咲いている。

 

7.奥飛騨・上宝

最後は奥飛騨・上宝エリア。

北アルプスの麓に5つの温泉地が広がる。

100を超える源泉があり、露天風呂の数も日本一と言われる。

新穂高ロープウェイは日本唯一の2階建てゴンドラに載って展望台を目指す。

北アルプスの山々を360度のパノラマで見渡すミシュラン2つ星のスポット。

 

 

 

 

 

地球絶景紀行 ― ムサンダム ―

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1.オマーン

今日は2013年1月18日放送の地球絶景紀行で紹介されたオマーンのムサンダムについて調べてみた。

まずはオマーンについて。wikipedia:オマーン

 

アラビア半島の南東に位置する。人口は約500万人。

サッカーのアジア予選ではよく名前を聞く国だ。

 

 

16世紀初めポルトガル人が渡来し、その支配下にはいる。

1650年、ヤアーリバ朝がポルトガルを駆逐。オマーン湾沿岸から東アフリカに至る海洋帝国を創り上げる。商船がインド洋沿岸部を走り回り、イギリスの植民地との交易や各地の中継貿易で富を築いた。

19世紀にはアフリカの奴隷・香辛料・象牙貿易の拠点であったザンジバルに首都を移す。

 

 

しかし、1856年のサイード大王死後、国土はオマーンザンジバルに分割。

帆船から蒸気船の時代へ移っていくにつれオマーンは衰退していく。

1891年にはイギリスの保護領となった。

1964年ザンジバルタンザニアと統合し一つの国に。オマーンは1971年に独立。

産油国の一つであり、経済は好調。スルタンを政治の中心とする絶対君主制

 

2.ムサンダム

ムサンダムはホルムズ海峡に飛び出したオマーンの飛び地。

 

オマーン本土との間をアラブ首長国連邦が遮っている。

荒涼とした岩山とリアス海岸が続く地域。

アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込んでいることが、このような地形を作り出しているらしい。

 

ホルムズ海峡はペルシア湾沿岸国から石油を運ぶ主要ルート。

日本に関わる船舶も多く航行する。ムサンダム半島先の小島にオマーンのレーダーがあり事故・事件を防ぐべく監視している。

オマーンの対岸にあるイランが軍事演習を行う一方、アメリカ海軍も展開しており、なかなかきな臭い地域である。

 

石油産業はなく、伝統的な農漁業や手工業が生業。

経済的にはアラブ首長国連邦との結びつきが強い。

この地はオマーン国王の直轄領であった。アラブ首長国連邦は各地の有力者の領地の連合であり、両国の独立の際に国王の直轄領がオマーンとなったため、このような飛び地ができた。

 

首都マスカットからのクルーズ観光が人気。

岩山が並ぶ入り組んだ海岸線の景観を楽しみながらのんびりと過ごす。

 

 

州都であるハサブはポルトガルが建設した港。

アラブ首長国連邦と繋がる道路が建設され、身近な観光地となった。

 

ハサブ港は観光船のターミナル。そしてイランとの密貿易も行われているようだ。

オマーンの法律には抵触していないらしい)

 

 

内陸部も観光地として整備され、空港やリゾートホテルも建設された。

 

 

 

 

 

 

世界ふれあい街歩き ― ミラノ ―

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1.ミラノの歴史

今日は2009年5月21日放送の世界ふれあい街歩きで紹介された、イタリアのミラノについて調べてみた。wikipedia:ミラノ

 

イタリア北西部に位置し、ロンバルディア州の州都。

古代ケルト人の町をもとに、ローマ帝国支配下で繁栄。

西ローマ帝国の首都となったが、ゴート族により一度滅亡。

中世は大司教の統治から、富裕貴族による自治都市へと変貌し、ヴィスコンティ家によるミラノ公国となった。

ルネサンス期にはレオナルド・ダ・ヴィンチも滞在。

その後は神聖ローマ帝国ハプスブルク家の支配を経て、19世紀のイタリア統一運動の中心となる。イタリアの主要都市の一つとなり、第二次大戦では大きく被害を受けるも現在もイタリア有数の都市となっている。

 

古くから服飾・繊維産業が発達し今でもファッション業界の中心。

1971年ヴァレンティーノ・ガラヴァーニがミラノに本社機能を移転。これをきっかけにイタリアファッションの中心がローマからミラノへ移って行った。

 

2.ミラノの観光

ヴィスコンティ家が館としたスフォルツェスコ城

その後、ヴィスコンティ家に変わって公爵となったスフォルツァ家が回収し城塞化。

星形の広大な城郭だったが、今も残るのは1/4程度。

 

城の南西、ミラノの中心にあるのが大聖堂(ドゥオーモ)

世界最大級のゴシック建築。第二次大戦でも爆撃の目標から外れた。

500万人のカトリック信者を束ねる大司教区の聖堂である。

 

周囲には最後の晩餐を所蔵するサンタマリア・デッレ・グラツィエ教会やミラノ最古の聖堂サンタンブロージョ教会メディチ家埋葬の場となったサン・ロレンツォ大聖堂など著名な教会建築が密集している。

 

ミラノはポー平原に位置し、川が遠かったため運河が引かれた。

現在は大半が暗渠になったり埋め立てられているが、かつては町を囲んで運河・堀が引かれていた。

市街の南にあるナビリオグランデ運河はその名残。

 

一方、市街の北には19世紀のショッピングアーケードであるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア。

 

 

イタリアオペラ最高峰のスカラ座イエズス会の施設をマリアテレジアが入手し美術館としたブレラ美術館など文化施設が並ぶ。

 

イタリアと言えばサッカー⚽

ACミランインテルミラノの本拠地であるサンシーロスタジアムは、中心部から少し離れた市の西側に位置している。

正式名称はスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ。1980年、両チームに所属経験のある名選手の名に改称された。

ACミランは彼の在籍期間が2年しかなかったこともあって、サンシーロと呼んでいる。

本田圭佑が在籍していたこともあってこちらの方が日本には馴染んでいるかもしれない。

 

 

 

下川町 ― 森と石の町  ―

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1.下川町の概要

今日は下川町について調べてみた。

wikipedia:下川町

 

人口は約3千人。

名寄盆地の東端に位置する。

町を東西に横断する名寄川、北から南へ流れるサンル川、南から北へ流れる下川パンケ川と下川ペンケ川の流域が人間の居住地。十字の形に平がっている。

北見山地が町を三方から囲んでいる。

酪農・畑作が盛ん。かつては林業・鉱業も栄えたが、林業は縮小し鉱業は事実上の廃鉱状態となっている。

 

2.下川町の沿革

安政4年(1859年)天塩川の探索を行っていた松浦武四郎名寄川上流も探検。今の下川町に至り、サンル川河口付近で野営。

明治後、なかなか開拓は進まない。1897年に上名寄村の村域として定められるも和人の定住者はなし。

1901年 岐阜団体が上名寄地区に最初の入植を行う。

1903年 国鉄天塩線が名寄まで開通し、移住者増。興部へ至る道路も開削される。

現在の市街地にパンケヌカナン駅逓、一の橋地区にシカリベツ駅逓が設置。

1905年 上記の駅逓を下川駅逓、一の橋駅逓に改称。付近に市街地が形成される。

このころは林業が主産業。珊瑠地区で造材・名寄まで川を流送していた。

 

1915年 上名寄村が名寄町に改称。

1918年 木工場設立。名寄ー下川間に鉄道開通。(後の名寄本線

下川駅・上名寄駅設置。鉄道の駅から盛んに木材を搬出するようになる。

駅には木材を集荷する土場、鉄道官舎もできて町の中心になっていく。

駅逓付近から商店街も移転していった。元々は湿地で農地に適さなかったが、鉄道開通に合わせ排水を改良し市街化に成功。

 

1920年 上興部まで鉄道開通。石丸農場内に一の橋駅設置、近隣に商店街ができた。

翌年名寄本線全通。沿線には順調に入植者が増える。

都市的性質の名寄市街と農村がメインの下川エリアの違いが鮮明となり、分村運動始まる。 そして1924年 二級町村下川村として分村を果たした。

 

昭和に入り1931年 一の橋地区に森林鉄道敷設。珊瑠・然別・ペンケ地区にも順次開通していく。木材だけでなく民間物資・旅客も運ぶ地域の足であった。

 

3.鉱業

1917年 珊瑠(サンル)地区で金鉱石の露頭発見。個人経営から三井資本に転換し1934年精錬所建設。本格操業を始め人口も急増して市街化する。

小学校や劇場も有したが、1943年戦時中に非軍需物資として統制され採鉱中止。

戦後再開するも小規模にとどまり、1986年休山。事実上の廃鉱となった。

 

一方、町の南部にあった下川鉱山は1933年に銅鉱石の露頭を発見。

三菱の経営となり軍需産業として発展。ケーブル輸送も行われた。

戦後も順調に採掘が行われたが、1963年銅の貿易自由化が制定。

経営は厳しくなり1982年休山、市街も解散した。

 

国土地理院地図より1970年の航空写真

今では資源センターと学校跡しか建物が残っていないが、この当時はこれだけの建物があった。東側は住宅街だろうか。

 

下川町のカントリーサイン

1980年代林業・鉱業が衰え、町に活気を取り戻し観光地を整備すべく町民が取り組んだ万里の長城建設。桜ヶ丘公園で1986年から2000年にかけてほぼ人力で石を積上げ続けた。

町の観光地は少ないが、森林資源を生かした自然や木工体験に力を入れている。

 

 

 

 

空から日本を見てみよう ― 高山市Ⅰ ―

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1.高山市

今日は2015年10月6日放送の空から日本を見てみようで紹介された岐阜県高山市について調べてみた。wikipedia:高山市

 

 

2005年に近隣9町村と合併し、日本一面積の大きな自治体となった。

人口は8万2千人。

高原の気候を生かして畑作が盛ん。

家具や伝統工芸品である一位一刀彫が名産。

 

2.高山市

高山市のエリア。

戦国時代末期に金森長近が高山城を築城。

山頂に本丸のある平山城

 

 

北側山麓に庭樹院屋形・二の丸があり中心部となっていたようだ。さらに北側に三の丸。すぐ傍に城下で影響の大きかった浄土真宗の照蓮寺を移転させた。

 

 

城山周辺の高台に武家屋敷、西側に町人町・東側に寺町を配置した。

武家屋敷には馬場町鉄炮町など武士にゆかりのある町名がついている。

江戸時代になると高山城は破却され、幕府の代官が常駐する陣屋が城下町に設置された。建物は金森氏の下屋敷を利用。

 

 

陣屋の前を流れる宮川に架かる中橋は町のシンボルの一つ。

古い木造の町並みの中にひと際目立つ朱色の橋。桜や柳の木も並び風情溢れる場所。

 

町人町の中でも上三之町・上二之町通りは伝統的建物が幾つも残っており、三町通り(さんまちどおり)と呼ばれ江戸時代商業の中心地となった。

 

現在も朝市が市の人気スポットになっている。

 

歴史のある寺社も多く、飛騨国分寺・高山祭が人気の日枝神社(春)と桜山八幡宮(秋)が城の周囲に位置している。

 

中心部から少し西に離れたところにある飛騨の里。

合掌造りの茅葺民家・榑(くれ)葺民家など飛騨の伝統を展示。

北アルプスや市街を見渡す飛騨高山らしい景色の中に歴史が詰まっている。

 

さらに南の山を上ると戦国時代に築城された松倉城跡。

 

飛騨の国人である姉小路氏が築城。佐々成正と手を組み、秀吉に対抗するも前出の金森長近により落城。松倉城は後年廃城となった。飛騨の里があるのは松倉城武家屋敷があった場所である。

 

3.久々野(くぐの)

市の南部に位置する旧久々野町エリア。

寒暖差が大きく、果物や野菜の産地。特にりんごや桃が有名だ。

飛騨川と八尺川の間にある舌状台地にある堂之上遺跡では、縄文時代の集落が発見された。竪穴住居や土器・石器が出土。いずれも信州方面や北陸・関西方面の影響が見られる。

 

4.一之宮

久々野と市街の間にある一之宮。合併前の宮村地区である。

町名の由来は飛騨一宮水無神社

宮川と飛騨川の分水界である位山をご神体とする。

 

町の名産はどぶろく🍶