日高廃駅巡り ― アポイ岳ジオパークビジターセンターⅡ ―

目次

 

1.かんらん岩

引き続きビジターセンター内を見学。

次の展示は橄欖岩について。

地下深くにある橄欖岩の素(?)であるマグマは通常とても高温の状態。

そのマグマが地上に上がってくると通常ゆっくりと冷えていくが、その段階で熱水に触れると変質し蛇紋岩と呼ばれる岩石になる。

幌満地区の橄欖岩は変質することなく地上に現れているとても珍しい「新鮮な岩石」だそうだ。

 

人類はマントルにまだ達することはできていない。

厚さ数km~数十㎞の地殻を貫くのは宇宙に行くよりも難しい。

 

本物の橄欖岩。

ダナイトとは橄欖岩の分類の一つ。

橄欖石が90%以上で輝石の少ないもののこと。

 

ダナイトを含むハルツバージャイト。

ハルツバージャイトも橄欖岩の一種。

かんらん石を50%以上含み、3本の結晶系がそれぞれ直角に交わる。

言葉だけでは定義が難しい。この辺は図書館で図鑑でも借りて見てみよう。

 

ぶつかりあったプレートが盛り上がってできた日高山脈

地層が折れ曲がって重なり、古い地層から新しい地層を順に見ることができる。

 

プレートの衝突部分の断層。

大陸プレートの間にあった海洋プレートの名残までも見えるとは。

 

光が反射してわかりにくいが、少し引いて見ると2種類の岩石がわかるだろう。

 

日高耶馬渓の成り立ち。海食崖ってやつは皆こんな感じでできるのだろう。

 

様似町にある奇岩と成り立ち。周りと地質が違ってマグマが冷えた岩石でできている。

 

 

橄欖岩の分類。全部で4種類。さっき見たダナイトやハルツバージャイトもある。

図があってわかりやすい。

かんらん石、斜方輝石、単斜輝石、斜長石の割合によって名称が変わってくる。

 

かんらん石以外の物質がマグマとなってどれくらい出ていったのか。

絞ったオレンジに例えたイラスト。

4種類の石を並べてみると違いがわかる・・・かな。

 

2.先人カード

ビジターセンターで久しぶりに先人カードをもらう。

北大植物園生みの親かつアポイ岳の植物を研究した宮部金吾氏。

 

札幌農学校の2期生で新渡戸稲造内村鑑三の同期生。

東京理科大学ハーバード大学でも学び、札幌農学校の教授として活躍。

北方の植物を研究し、助教授時代に植物園の設計を行う。

植物園には宮部金吾記念館も建てられた。

住宅跡は宮部記念緑地として今も残されている。

 

 

3.手塚信吉

最後は建物の外にある銅像について。

像になったのは手塚信吉氏。

現在新日本電工が手掛けている幌満川の水力発電事業は昭和初期に日高で最初の電源となった設備。3か所の水力発電施設を設置したのは手塚信吉氏が起こした日高電燈という小さな会社だった。

これがのちの日本電工である。

氏は橄欖岩加工を行っている東邦オリビン工業の設立にも携わり、幌満川という書籍も著した。様似町の発展に多大な貢献があったということで銅像が建てられたようだ。

 

 

日高廃駅巡り ― アポイ岳ジオパークビジターセンターⅠ ―

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1.アポイ岳ジオパーク

西様似駅のある西町の集落から国道に戻る。

様似駅は以前に行ったことがあるので今回は行かず。

日高本線廃線区域巡りは終了したが、もう少し寄り道してから帰ることに。

 

様似町の中心部を通過して。

 

 

再び日高山脈が海岸に迫る道をえりも岬方面へ進む。

 

 

ポロサヌシベツ川にかかる小さな橋を越えて

 

 

左折してアポイ岳方面へ向かう。

 

 

アポイ岳周辺を含む様似町全域はユネスコの認定するジオパークに登録されている。

ジオパークとは、地球科学的意義のあるサイトや景観が保護、教育、持続可能な開発のすべてを含んだ総合的な考え方によって管理された、1つにまとまったエリアを指す。

 

中心となるアポイ岳地下深くから現れた「かんらん岩」によって形作られた。

1300万年前のプレートの衝突によってできた日高山脈。北海道の背骨のように南北に貫く山脈の中でも、地殻より下にあるマントルが地上へ突き上げられていく際に形成される橄欖岩(かんらんがん)が露出しているのはここだけ。

世界的にも大変珍しいことから2015年にジオパークとして認定された。

 

2.アポイ岳ジオパークビジターセンター

アポイ岳に向けて車を走らせると、登山道やキャンプ場、温泉旅館などが整備されている。その中にあるビジターセンターを訪問。

 

 

日高山脈をバックにきれいに管理された芝生の中に建てられたビジターセンター。

 

アポイ岳ジオパークは数か所の特徴的なエリアに分けられている。

アポイ岳エリアは貴重な高山植物が生息するエリア。

登山を楽しむ途中で希少な植物を愛でてみよう。

 

中に入ると博物館のような展示資料にお土産販売、子供向け展示などが並んでいる。

 

3.アポイ岳高山植物

最初は高山植物の展示から。

通常、高山の植生はある一定のエリアで森林限界に到達し、その後は眺望が開けるハイマツが分布する。しかしアポイ岳森林限界に達しハイマツのエリアとなるまでは普通と一緒だが、頂上近くになるとダケカンバという樹木が密集する。

この逆転の理由は未だ謎とされている。

これによって頂上付近は見晴らしがきかないそうだ。

 

アポイ岳の標高は810mと低山の範疇に入る。

にも関わらず高山植物が生息しているのは3つの理由があるらしい。

1.アポイ岳を形成する橄欖岩は植物の生育を阻害する成分が多く、土壌も風雨で移動しやすいため栄養に乏しい。

2.夏は山が海霧で覆われ、冬は降雪量が少なく強風にさらされ年間を通して低温の傾向が強い。

3.アポイ岳は海進の影響を受けず陸地であり続けているため、植物が絶滅を逃れた。

 

氷河期に大陸と陸続きであった時代、北方から移動してきた植物たちがその後の温暖化から逃れた地がアポイ岳だった。橄欖岩の特殊な土壌に適応し独自の進化を遂げた草花が固有種として今も生き延びている。

 

4.様似町の歴史

つづいては人と様似の歴史。

エンルム岬は天然の良港として重要な停泊地であった。

江戸時代後期に幕府の施設である会所が設置され、より発展していく。

 

アポイ岳が太平洋に落ち込み断崖絶壁の続くエリアは難所としておそれられた。

 

あまりに危険な海岸線の道に対し、国防の観点からも内陸に道路が開削された。

様似山道と名付けられたこの道、明治以降に海岸線の道が再整備されるにつれて忘れられていったが、近年再評価されフットパスコースとして生まれ変わった。

 

一方、難所だった日高耶馬渓は地層の露頭や明治時代のトンネルが鑑賞できるジオパークのスポットになった。

 

 

 

 

 

日高廃駅巡り ― 西様似駅 ―

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1.西様似駅

鵜苫駅から再び山すその海岸沿いの道を進む。

 

断崖が海に落ち込み、道路を敷設するスペースもなくなってトンネルで開通。

 

右手に見えるのはローソク岩。

トンネルを抜けると西町の市街に入る。

 

海辺川(うんべがわ)沿いに開けた集落。

 

 

この集落にあったのは西様似駅

国道から左折して北にしばらく進んだところにあった。

 

海の方を見ると様似町名物の親子岩。まもなく左折だ。

 

 

もう一度海辺川を渡って集落の北端に駅があった。

 

 

こちらも貨車駅。鵜苫駅ほどではないが腐食が進んでいる。

 

鵜苫駅同様に様似中学校の美術部によってイラストが描かれた。

虹や白い雲がいっぱいの青空を描いたようだ。

こちらもウィキペディアに2005年のピカピカの姿が載っているので見てほしい。

wikipedia:西様似駅

 

駅からホームまでは少し距離がある。草に埋もれているが、立ち入り禁止の柵があってホームが高くなっているのがわかる。

 

辛うじて線路が見えた。

 

駅前は住宅地。商店などは見当たらない。

 

木材が積まれている。昔の航空写真以外ではなかなか見ることのできない光景。

もちろん、貨物列車で運んでいたのはかなり以前のことだろうが、名残を垣間見ることができた。

 

2.西様似駅と近隣の歴史

様似町のパンフレットによると、1635年頃に海辺川流域で砂金が発見され、集落ができたという。1799年に様似山道が完成。翌年エンルム岬の近くに幕府の会所が設置され、町の中心は会所付近に移っていった。

 

西様似駅が開業したのは1937年。

浦河~様似間開通に伴い、一般駅として開業した。

隣の鵜苫駅からは海岸沿いではなく、冬似川沿いに内陸へ進みトンネルを抜けて西様似駅に到着だ。

この地には国鉄よりも先に三井軌道の森林鉄道が運行していた。

1931年~1945年まで浦河町上杵臼から約30kmを1日6往復の運行だった。

 

 

こちらのホームページに当時の軌道が記されている。

路線跡は道路に転用されたのではないかと思う。

 

地理院地図の1948年の航空写真。

青い丸が西様似駅

黄緑がおそらく三井軌道の木材積卸場所。軌道跡らしき直線が北へ延びている。

 

1970年代の国土地理院地図の航空写真。

 

駅の横には木材がわんさかと積まれている。

この頃は1面2線のホーム構造。

現在駅とホームまでの間に距離があるのはかつて線路が通っていたからだ。

 

1977年貨物取扱廃止。旅客業務は無人化される。

その後交換設備が廃止され、運転要員も無人化。

 

2021年日高本線の一部廃止に伴い廃駅となった。

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日高廃駅巡り ― 鵜苫駅 ―

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1.鵜苫駅

日高幌別川を渡ってしばらくすると再び小さな川がある。

この鵜苫川(うとまがわ)は浦河町と様似町の境になっている。

 

 

ウトマという変わった地名はもちろんアイヌ語が由来。

ウトマペツ(抱き合った川)という言葉からきているらしい。

抱き合ったというのは隣の日高幌別川の河口で流路が変わり、鵜苫川と合流していたことを表しているそうな。

 

この辺りも山並みが海岸近くまでせり出している。

わずかな平地を通る道路の両側に住宅が並ぶ鵜苫の集落を通っていく。

 

郵便局や漁港もあってそれなりの規模の集落だ。

日高本線は左手側の住宅の裏手、山すそを通っていた。

鵜苫駅は住宅街の東端に位置している。

 

 

 

国道から見えるが、少し奥まった場所に立地している。

海に近いこともあって腐食が激しい。

表面がガビガビ。左側にタコのイラストが描かれているのがわかるかな?

 

出入口は封鎖されている。

内側は潮風の影響が少ないからだろうか。

いくぶん腐食が緩やかで、魚のイラストは無事。

本当はこういうのどかなタッチの海の生き物に埋め尽くされたゆる駅だったんだよね。

 

イラストを製作したのは様似中学校の美術部の方々。

20年の月日が流れてバイオレンスな風体の駅になってしまった。

 

とぼけた表情のタコだった絵も、色あせて塗装が剥がれひび割れた海坊主のようになってしまった。

ウィキペディアにはきれいな状態の画像があるので、ぜひご覧ください。

wikipedia:鵜苫駅

 

ホームも線路も草木に埋まり、出入口以外に侵入するのは厳しそうなので探索はせず。

やがて駅ごと埋まるのではないだろうか。

 

2.鵜苫駅の歴史

鵜苫駅は1937年 浦河駅様似駅間開通に伴い一般駅として開業。

 

地理院地図の1953年航空写真

駅舎の西側に貨物スペースがあって木材が置かれているようだ。

当時はもちろん有人の木造駅舎。

この頃は島式ホームで1面2線の構造。

駅舎側の1番線が使われなくなり、砂利で埋められたそうだ。

また、線路の山側も農地として利用されているに見える

 

現在はこんな感じで貨物スペースも山側もすっかり自然に還っている。

 

1960年には早々に業務委託化。

1977年 貨物取扱廃止及び無人

1987年に木造駅舎から貨車駅舎に改築された。

2003年様似中学校の生徒により駅舎にイラストが描かれた。

2021年 日高本線一部廃線に伴い廃駅となった。

 

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日高廃駅巡り ― 日高幌別駅 ―

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1.日高幌別

東町駅を出て再び国道へ戻る。

ほどなくして市街地を抜け、左手側は山がちに。

海岸側に住宅が並び、わずかな隙間に道路が通っている。

 

途中に月寒川という小さな川がある。住所も月寒。

札幌にも同じ漢字の住所があるのだが、浦河町の方は「つきさっぷ」と読む。

元々札幌の地名も月寒と書いてつきさっぷと呼んでいたのだが、難読を嫌った陸軍によって改称されたらしい。

浦河町の方はそのまま。アイヌ語の「我ら(火を起こすために)こするもの=ハルニレを示す」が由来のようだ。

 

月寒川を越えてしばらくすると日高幌別川沿いの集落に到着。

幌別も北海道ではよくある地名だが、アイヌ語で「大きな川」を意味する言葉に由来。

道内各地に幌別川もあれば、北見幌別川や胆振幌別川など地名を付加した名称になっている川もある。

 

航空写真を見るとわかるが、日高幌別川に注ぎ込むメナシュンベツ川沿いまで集落があり、さらにその上流のニオベツ川沿いに国道236号線が開削された。

 

 

日露戦争後、西舎村(にしちゃむら)に政府は種馬牧場を設置し国産馬の改良に努めた。現在も公益財団法人軽種馬育成調教センターとしてその系譜を継いでいる。

 

この付近への入植は明治の中頃の1887年頃から始まり、河口から徐々に上流へ広がっていった。

明治から大正期にかけては河口まで木材の流送も行われ、そのまま船で本州へ積み出されていた。

2.日高幌別駅

日高幌別川の右岸、国道236号線と336号線の分岐点付近が日高幌別の小さな市街。

分岐点をわずかに過ぎたあたりに日高幌別駅があった。

 

 

日高幌別駅は駅舎とレストラン・西幌別簡易郵便局が同居する複合施設だった。

駅は廃止となったが店舗と郵便局は現役。

風変わりな建物を特徴づけている、鋸の歯のような三角屋根は何か意味があるのだろうか。

 

裏口側にまわってみる。だいぶ色が薄くなったPOSTの文字が。

 

ホームへはスロープで。すでに草生している。東町方面は雲一つない快晴。

 

様似方面。線路の先は緑に埋もれて見えない。

 

木製の電柱がまだ残っていた。

 

3.日高幌別駅の歴史

1937年 日高線浦河駅様似駅間開通時に一般駅として開業。

地理院地図より1948年の航空写真。

周囲は農地が大半。

当初は島式ホームの1面2線構造で、さらに構内南側に側線も一本有していた。

駅北東側には木材が積まれているようにも見える。

 

1961年 中央競馬五冠のシンザンが引退し種牡馬として里帰り。

貨車で日高幌別駅まで戻り、駅から牧場まで歩いて移動した。

駅舎改築後の複合施設名はレストビレッジシンザンというらしい。

 

1977年 貨物の取扱い廃止、同時に無人化。

1970年代の国土地理院地図の航空写真。

 

この頃には既に棒線化していたのだろうか?

現在でも駅舎とホームの間に少し距離があるのは島式ホームだったころの名残らしい。

 

2021年日高本線の一部廃線に伴い廃駅となった。

 

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