道北をいっぱい巡った。 ― 宇遠内駅跡~恵北駅跡 ―

目次

  

1.宇遠内(うえんない)駅跡とその歴史

副港市場を出て国道40号を東へ向かう。次は宗谷岬・・とも思ったが、今回は断念し廃線となった天北線の駅跡を辿ることにした。

ウエンナイ川を渡って最初の交差点にはかつて天北線の宇遠内駅があった。

 

ここは何の跡も残っていないので気づくこともなくスルー。

 

ストリートビューで見るとこんな感じ。

 

向かって左手が宇遠内駅跡。

右手にある標識には天北通とある。天北線市道に変わったようだ。

 

宇遠内駅は1955年仮乗降場として開業。

1987年国鉄からJRへの民営化時に駅に昇格。

そのわずか2年後天北線の廃止に伴って廃駅となった。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

仮乗降場としては長めのホーム。

待合室等はなかったようだ。

 

宇遠内駅の画像

 

2.声問(こえとい)駅跡とその歴史

国道40号線から国道238号線に進路を変えて東へ進む。

天北線の次の駅は声問駅。

 

現在の地図で見ると国道沿いに駅があったように見えるが、天北線のあった頃はこの国道が線路だった。

 

 

現在駅舎のあったところはただの更地。

痕跡は全くない。目印もなく車を停めるのも厳しいと思いまたもスルー。

 

この辺りは開拓時はアイヌのコタンがあり、1878年に声問村と命名

1887年頃から漁業者の集落もでき始める。1900年合併により稚内村となる。

明治末ごろから声問川上流の森林資源を生かし木工場ができ始めた。

後に社内用発電を拡大した火力発電所が建設され稚内市街にも使用されるようになる。

1920年頃には声問岬で石油鉱脈発見。1974年に完全閉鎖となった。

声問駅は1922年当時はまだ宗谷本線という名の鬼志別駅~稚内駅開通に伴い開業。

1973年貨物を専用線のみ取扱いとし、旅客を無人化。

1978年貨物を完全廃止。1989年天北線廃止に伴い廃駅。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

駅横に貨物引込線、駅裏に貨物専用線が設置されていた。

 

3.東声問駅跡

国道238号線から道道121号線に進路を変える。

稚内空港の目の前に1日限りの営業を行った東声問駅という臨時駅があった。

 

現在は空港施設の一部になっているらしい。

1987年6月1日、新滑走路完成の際に合わせて設置された。

ホームなどもなかったようだ。

 

4.恵北駅跡とその歴史

道道121号線をそのまま真っ直ぐ南下。

次は恵北駅跡。

 

恵北という小さな集落のはずれにあった。

 

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近年レプリカの駅名標が設置されたらしい。

航空写真で見ると線路跡らしい線が確認できる。

 

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なんとなく線路跡っぽいスペース。。だが言われてみなければわからないだろう。

 

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駅跡には恵北の開基百年記念碑もあった。

 

この地区は1900年代初めごろから林業を主とした入植が本格化。

大正期には油田、昭和初期には海軍の無線送信所もあったという。

恵北駅は声問駅同様1922年に宗谷本線の鬼志別駅~稚内駅開通に伴い開業。

当時は幕別駅という名であった。天北線の西側を並行して流れる声問川が当時は幕別川という名だったことが由来。

駅を中心に市街ができるが戦後は徐々に縮小していく。

 

1963年駅名を恵北駅に改称。

1973年貨物を専用線のみ取扱いとし、旅客を無人化。

1978年貨物を完全廃止。1989年天北線廃止に伴い廃駅。これらも声問駅と同じタイミングだった。

 

1970年代後半の国土地理院地図の航空写真。

 

かつては2面2線の交換可能な一般駅だったが、この時点ではホームは駅舎側のみ。

向かい側は引込線と化しているようだ。

駅舎横にも引込線、駅裏側には副本線もあったようだが、この時点ではスペースがあることだけを確認できる。

駅正面の山から伐採された木材の出荷駅でもあったようだ。

 

恵北駅の画像

 

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