目次
1.留萌市の概要
今日は留萌市について調べてみた。
人口は約2万人。
元々は礼受、元町付近にアイヌが定住していた。
江戸時代には村山伝兵衛、その後楢原家がルルモッペ場所の請負を担っていた。
1840年以降、浜益以北のニシン漁への出稼ぎが解禁となる。佐賀家が漁場を開き、明治後も引き続き運営していた。
明治維新後三泊村、留萌村、礼受村が設置される。この頃中心となったのは本陣屋のあった浜益や枝陣屋のあった苫前であった。
1894年ころから留萌川上流の内陸部で開拓が始まる。沿岸部は徐々に市街地化が進む。
1898年に峠下にポンルルモッペ駅逓、1900年には旧留萌川河口に駅逓が設置される。
1900年前後から炭鉱の採掘が開始。
1901年留萌村・礼受村が合併、1907年には留萌村と三泊村が合併。
1908年に町制施行。
明治末期には大和田炭鉱、豊平炭鉱などが開坑。
1910年深川~留萌間に鉄道開業。
この頃留萌に築港が決定。増毛との争いとなり原敬が視察を行う。
調査の結果増毛は鉄道が不便、海底が固く内港を作りにくい地形。
一方の留萌は炭田である上川・天塩・空知に近い。留萌川河口付近を浚渫し水深確保・ケーソン就航などの技術を用いて築港工事を行うことを廣井勇が国会の分科会で発案。
これが決定打となり明治末期から昭和初期にかけて港湾を建設することとなった。
廣井勇についてはこちら。
この時期、港湾だけではなく市街地の道路、上下水道、学校などが整備され近代的な都市ができあがっていく。
1927年、後の羽幌線となる留萌駅~大椴駅間が開通。
1928年留萌鉄道桟橋会社設立、留萌駅から留萌港への鉄道輸送始まり、国内外との交易が激増。翌年留萌鉄道が恵比島駅から分岐する留萌炭鉱線を開業。石炭輸送も増大。
1931年羽幌線が延伸。
1940年古丹別・羽幌の森林鉄道が連結し留萌港への木材積出が増加。
1941年留萌駅~達布駅間の天塩炭鉱鉄道が開業。さらに羽幌線と連結する羽幌炭鉱鉄道線も開業。石炭の積出が増加し、留萌港周辺に関連業者支店が続々と開業。
1947年市制施行。
1956年ニシン不漁となったのち、外国から数の子を輸入・加工。
空前のヒット商品となり、その後も留萌の特産品となる。
1950年代後半~60年代にかけて炭鉱の閉山、森林鉄道の廃止が相次ぐ。
留萌港の取扱量が激減、企業も撤退。
最大4万人を超えていた人口は漸減し現在は約半数となった。
2.留萌市の交通
かつては留萌駅を起点に各方面へ国鉄・私鉄が分岐していたが現在は留萌本線一本のみ。留萌駅、大和田駅、藤山駅、幌糠駅、峠下駅が残る。
瀬越駅・礼受駅を含む増毛方面は2016年に廃止。総延長は50kmほどで本線を名乗るJRの路線ではもっとも短い路線となった。
さらに2020年JRとの協議で留萌市域は廃止を容認。留萌市から鉄道がなくなることはほぼ確実となった。
その他市内を通っていた路線としては国鉄羽幌線が1987年廃止。
留萌鉄道の海岸線は1941年に国有化、留萌駅の構内側線扱いとなる。天塩炭鉱鉄道は1967年に廃止。各路線の廃止後留萌駅~留萌港間は遊休地扱いとなり2007年市によって再開発が始まった。
石狩市・増毛町方面から日本海に沿って走る国道231号線と深川から留萌を経由して日本海を北上する国道239号線が町内を通る。その2本の道路が交わる地点の近く、留萌駅構内跡に整備された船場公園に道の駅が設置された。
3.留萌市の観光地
日本海に面した風光明媚な土地。
市街から南にやや離れた位置には100年以上漁場を営んでいた佐賀家の番屋や倉庫などが残り、国指定の史跡となっている。
港近くには松浦武四郎の踏査碑、夕日の眺めが素晴らしい黄金岬、かつて港を見下ろすのろし台のあった高台に建てられた海のふるさと館など観光スポットが並んでいる。
黄金岬からの眺めはカントリーサインにも描かれている。
その他にも千望台や礼受牧場など高台からの眺めがよい場所がいくつか。
この千望台から眺める港の奥には土木遺産にも認定された南防波堤。
日本海の荒波から港を守るため建設されるが、ケーソン製作の期間もスペースも少なく小樽で製作し30時間かけて曳航するという仰天の方法も使われた。